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2章13話(31話)

 クトゥルーの触手に覆われた後、周囲はセピア色の色調に染まっていた。アダムは自分の意識が一体どこにあるのか、どこから世界を見ているのかと疑問に思う。すると、クトゥルーの地響きのような声が響いた。

『此処は我が集積せし、世界の記憶の一端。様々な人物や物の残留思念や意識によって成り立った集合的領域であるゆえ、記憶の『目』が必要に応じて入れ替わるだろう。いずれにせよ、お前が真実を知るために必要なことだ』

 アダムは答えようとしたが、口は動かない。何よりも、今……ここにいる自分が何なのかもわからなくなっている。

『今のお前は、十六歳のアダム。終わりごろにはこの記憶の断片が脳内に同期されて現在のお前に刻まれるであろう』

 気づくと、セピア色の世界が動き出す。アダムは目の前にある青い水晶碑を見た。それは、魔脳マグダラの水晶碑。

 そうだ……この前確か、不思議な呪文を言って、地下への道を開いてもらったんだった。今日も、行かなきゃ!

 あの子に会うために。すると、マグダラは機械的でありながら不満げな声を出した。

『王子……アダム王子。今からあなたが取られる行動は、推奨されません。何らかの問題が発生して、完全な演算が不可能ではありますが』

『まだ、何も言ってないじゃないか』

 水晶に映る幼い顔のアダムはいたずらっぽく唇を尖らせてみせた。

『わたくしは貴方様との接触後、幾度も予期せぬエラーを吐いています。きまって、あなたがその表情を浮かべる際に。不思議とカメラ映像も削除され、履歴を追跡できません』

 マリア……いや、このときは魔脳マグダラだ。

『地下であの子が待ってるんだ! 行かなきゃ。とうさまには秘密だぞ』

『あの子……『彼』に関する情報は絶対的に秘匿されているはず……一体、なぜ……? わたくし、マグダラの監視機能でも王子が情報を得た記録がない」

 そしてアダムは口を開く。

「マリア、開錠を要求する。謇峨r髢九¢縲∵?縺ッ繝ォ繝ォ繧、繧ィ縺ョ邇九?るュ泌ー取嶌縺ィ縺ョ螂醍エ??蜈??√°縺ョ閠??蜈ィ縺ヲ縺ォ雋ャ莉サ繧呈戟縺(扉を開け、我は呪われしルルイエの血を持つ王。魔導書との契約の元、かの者の過去・現在・未来全てに責任を持つ!)」

 そしてマグダラは無言で地下への道を開く。幼いアダムは勢いよく階段を下りて行った。

 階段を下りた先にある牢獄のドアを開き、アダムは回廊を進んでいく。

 薄暗く、光の差し込まない場所を不安げに進むアダムは持っていたカンテラに向かって声をかける。

「魔脳カンテラ、点灯」

 すると、それに明かりがともる。アダムはそのまま歩き、突き当りまで来た。そして、一つの牢獄の前で立ち止まり、膝をついた。

「クリフ。会いに来たよ」

 牢の中には、襤褸のフードをまとった誰かがいた。金色の長い髪が隙間から垂れて見える。

「アダム、王子……?」

「兄さんでいいってば。君は俺の弟なんだから」

 誰かの寂し気な口元はゆるみ、嬉しそうに笑った。そして呟く。

「兄さん……ずっと待ってたよ」

「ごめんね、勉強とか、剣の稽古が忙しくてなかなか来れなかったんだ。なにより、とうさまに君のことをまだ話せてなくて。とうさま、ずっとずっと忙しくて、話をしようと思っても今度にしてくれってそればっかりなんだ」

 牢獄のなかに囚われたクリフは顔を上げた。王族らしく綺麗なみなりをしたアダムとは対照的に、やせっぽっちの彼は襤褸を纏い、不健康そうな顔色をしている。

「言わなくていい。もし言ったとしても、兄さんがなぜこの地下牢に気づいたのか問い詰められるだろう。下手すると、もう一生会えなくなるかも」

「ええっ、そこまで……かな? 俺達、兄弟なのに」

 クリフは顔を複雑そうに曇らせた。

「でも……血の繋がりはないじゃないか。僕は君と違って、国中から隠された子供……母である正妃ヘレナが魔導書で呼び出した邪神と交わって孕んだ子供だと言われているから」

「そんなの、デタラメだよ。だって、ほら!」

 そう言ってアダムは牢屋ごしにクリフの骨ばった細い手を握る。クリフは思わず、目を見開き、その手を恐れるように震わせた。

 なぜならクリフは、母にも父にも抱きしめられたことがなかった。

 誰かの温かい手に優しく触れられたことなど、生まれてから一度たりともなかったのだ。

「この指も、紫の瞳も、その綺麗な長い髪も、全部人間にしか見えない。顔つきだって俺たち、ちょっと似てるじゃないか」

「絶対に……気のせいだ。君と僕には血のつながりがない。僕のこの顔は、みんなが『呪いの魔女』と呼んで忌み嫌った母上にそっくりなんだ。だから、僕はこんなところにずっと閉じ込められている」

 アダムは握った手をもう一度固く握る。

「兄さん?」

「いつか、父上を説得する。クリフがこんな暗いところ、出られるように。家族みんなで、仲良く暮らすんだよ。ずっと……」

 クリフは悲しげな顔で微笑んだ。

「そうだね……そんな未来が、あればいいのにな」

「君の十六歳の誕生日までには必ず。そうだ、チェスをしようよ! またクリフに負けちゃいそうだけど。なんでそんなにも強いの?」

「いつも一人きりだと、詰めチェスぐらいしかやることがなくてね。練習あるのみだよ、アダム」

 アダムのカンテラが淡く……とぎれとぎれながらも、やさしい光を放ち続ける。その光の下、柵の中のチェス盤が照らされる。

 先攻のアダムは白いポーンを手に取り、二歩先へ進めた。クリフはくすりと笑う。

「え……俺、もうまずいことした?」

「考えなしに駒を動かすからだよ。もっと、うまくやらなきゃ」

 クリフはそう言って、得意げに黒い駒を手に取った。

 そのときセピア色の世界が静止し、クトゥルーの声が響く。

『アダム、これは王子であったお前がクリフを訪れた最後の日の記憶だ』

「えっ……一度も、クリフを訪れなかったのか?」

 クリフを連れ出すと、確かに約束をしたのに……?

『そうだな……情報を埋めるためだ。この続き……クリフの記憶を見せてやろう』

 その声が遠ざかっていくと同時にセピア色の世界は粉々に砕けて言った。そして世界は再び同じ色でありながらも、様相を変えて蘇る。

 アダムは自分の視界が切り変わったこと。そして、『クリフ』の記憶と思念が一気に脳内に流れ込んでくるのを感じた。

 クリフは柵を握り締め、うなだれる。

 アダムはまた地上に戻ってしまった。唯一牢を照らしていたカンテラの淡い光さえも絶えて、永遠に続く長い長い牢獄の回廊は……また闇に引き戻された。

 アダム。いつも地下牢に響く君の足音を、君が僕の下へ降りてくる瞬間だけを待っているのに。

 とどめもなく続く果てしない闇にただ絶望し、クリフは願い続ける。

 ああ。どうか、時間が一刻も早く過ぎ去って、もう一度あの足音を聞けますように……。

「君と出会わなければ、あの光を知らずに済んだ。なぜ……どうして闇の中から僕を見つけたの? アダム」

 果てしない暗闇と時間の重みが再び、クリフに襲い掛かる。食べ物は少ないながらも魔脳管理システムによって牢屋に運搬され、衛生状態も自動洗浄機によって保たれる。知識を得ることも許され、牢獄内に魔脳データベースも設置してくれた。

『幽閉し、存在を隠すのはお前のためだ。どうか、理解してほしい。正妃へレネが身籠った子供は、私が始末したということになっている。ヘレナは、今や国家全体を敵に回した国賊となってしまったのだからな』

 クリフが最初にこの牢獄に閉じ込められたとき、アーサー王はそう言った。光り輝く剣聖とよばれた勇者はただ、悲しげだった。多くを語ることはないが、クリフを見るたびに彼は辛そうな顔をした。目は一度も合わなかったが。

『僕は本当に、邪神の子なのですか?』

 真実を求め、幼いクリフはアーサー王にそう問うた。

『魔脳マグダラに尋ねた結果、お前に神性の反応はなく、紛れもない人間であると判定された。父親の遺伝子は検出されずに不明であったが。しかし……もし、お前を王宮の王子として迎え入れたら、ヘレナの反対派が黙ってはおかない。一日として命はないだろう。生まれたお前には何の罪もないのに、本当にすまなく思っている』

 決して愛はないが、憐みを感じる口調。クリフがアーサー王の声から感じるのはただ、それだけだった。

 自分の子供でもないのだから当たり前だ。生かしておいてくれるだけでも、感謝しなければならない。

 それでも許されないとわかりながら、クリフは頭の中で何度も彼を『父上』と呼んだ。

 父上、父上、父上、父上……。

 呼び続けても、答える声は返ってこないとわかりながらも、呼ばずにいられなかった。それが、昼も夜もなく、ただ一人隔絶された世界で唯一掴める細く……今にも途切れそうな蜘蛛の糸だった。

 クリフは永遠に続く闇の中、閲覧が許された魔脳データベースにアクセスし、数多の知識を得た。母ヘレナは早熟の天才で、たったの十二歳で大学の博士課程を卒業したと言われている。

 自分を一人きりにした原因は不貞を犯した母だ。でも、唯一自分がこの状況を打破できる可能性や光も、その聡明な遺伝子にしかないと思った。

 そのおかげか、魔脳データベースの閲覧と魔脳との対話を繰り返し、クリフはあらゆる知識を幼いながらに身に着けた。政治、歴史、神話学、帝王楽、そして魔脳学と呼ばれる魔脳の根本に迫った学問……。

もし、この知能で父の役に立てれば、こんな暗いところからいつか抜け出せる。

 その希望のためだけにクリフは努力し続けた。だがある日、牢獄を珍しく訪れたアーサー王に(アーサー王は半年に一度程度しかクリフの元を訪れなかった)、魔脳データベースから判断し、国民の状態と数年後に訪れるであろう食糧難、中央集権化による労働人口および暴動の危機を予測して進言した。

 だが、アーサー王は不気味そうな顔をするだけだった。おそらくは魔女と呼ばれた正妃ヘレナの口ぶりを思い出したのだろう。それ以降、一度も尋ねてこなくなった。

 そのときにクリフは直感した。父アーサーは自分を生かしはするが、ここから出す気は永遠にないのだと。

 きっと、邪神の子でなかったとしても不義の子を産んだ王妃を許す気はないのだ。

 でも……元から母ヘレナのことを少しも愛していなかったくせに。クリフはそう思わずにはいられなかった。

 アーサー王は自分が正妃を娶る前に遠征地で『運命の出会い』をした。その相手……自然精霊との対話者、『異国の風語り』と呼ばれるルルドは王を長年献身的に支え続けたのちに寵姫として認められ、やがて第一王子を出産した。

 『風語り』とは、ルルドの出身である南方民族の自然霊信仰に基づいた精霊との対話者。地上の神々が死した後の世界に精霊が存在し、彼らとの対話によるまじないでアーサー王と人々の魂を癒したと伝えられる彼女は、ルルイエの失われた神々を熱心に信仰する王党純血派からは煙たがられつつも、魔脳を神として信仰する革命急進派や一般国民からは愛された。

 身分的に決して正妃になれないルルドはその儚げな外見と美しい声、演説のさいに人の心を動かす温かい言葉で国民から絶対的な人気を得ていた。

 庶子のアダム王子が生まれたとき、本来嫡子ではない王子の誕生においてはあり得ないことだが、国民の強い要望で盛大な祝宴パレードが行われたほどである。

 対照的に、『エーデルヒの薔薇』と呼ばれた完璧な美貌を持ちながらも、誰もよせつけず、大臣だろうが王だろうが議会で言い負かし、大局を見ているがゆえとはいえ、国民には厳しい政策を推し進める正妃ヘレナ。

 かつてはルルイエの宿敵であったエーデルヒ王国の出身であるうえに、正妃とはいえ、政治に口を出す彼女の行動の全てはひどく反感を買った。

 その正妃より五歳年上にはとても見えない、少女のように可憐な顔立ちと優しげな瞳を持った、言葉もおぼつかないままのルルドを国民が愛したのは当然だ。

 七国大戦後の不安な社会で、国民は自分自身を『余所者』と謙遜し、貧しいみなりで慈善活動を行う彼女の姿に一筋の光を見て癒されたのだから。

 高い知性を持っていたヘレナがなぜ、自分にとって不利にしかならない不貞行為を行ったかは不明だ。その美貌や才気に関わらず、王からの寵愛がついぞ得られず、気が狂ったのだろうか?

 だが、ヘレナは自分の罪を否定することは一切なく、魔導書ネクロノミコンを胸に抱き、自らの血で描いた魔法陣の上で哄笑しながら言い放ったと言う。『我が子は邪神が授けし一柱。あなたがたをいずれ滅ぼす禍根となるわ!』と……。

 そして彼女はそれだけを言い残したのちに断頭台に立った。

 その数年後、風語りのルルドは原因不明の病で命を落とす。それは魔女ヘレナの呪いであるとも言われた。

 長い時間のなか、クリフは時に呪いの魔女と呼ばれた母を、そしてどんなに努力をしようと決して振り向くことのないアーサー王を責めた。

 ついには自分が生まれたことを呪うようになった。

 自分が生まれさえしなければ、こんな寂しさを味わうこともなかったのだから。

 そうだ……十六歳になってもここを出られずにひとりきりだったら、死のう。

 死ぬことだけは、誰にも禁じられていない。

 それが自分に与えられた唯一の自由だ。むしろ、父……アーサー王はそれを望んでいるのかもしれない。だから、ずっと僕の存在を遺棄し続けているのだ。

 クリフの思考はいつの間にか、あまりの孤独からそう決意していた。心はもう死んでいる。あとは体を追いつかせればいい。

 眠り……起き……眠り……同じことが繰り返されるたびに気が狂いそうになる。

 死を想いながら、思考はそれに反して願い続ける。一人でもいい。僕を見つけてくれたら。その目に映してくれたら。

 それは一種の生存本能というべきものだったのかもしれない。人は、誰かに見つめられなければ生きていけない。

 そんな日々を過ごしていたある日、地下牢に現れたのがアダムだった。クリフが父以外の人間に会うのは初めてだった。

『ねえ、君は誰? この上にあるマグダラの水晶碑に知らない言葉で合言葉を言ったら、ここに辿り着けたんだけど……』

 柔らかそうな茶色の髪に青い目。

 父であるアーサー王に似た寛大さと冒険心が表れた口元に、死してなお偉大なる国母として慕われるルルドに酷似した可愛らしい瞳。

 魔脳データベースで確認した資料を見ずとも、それが誰かわかった。

 血の繋がらない、義理の兄……。父アーサーと国民皆から愛され、誰からも疎まれ、遠ざけられたことなどない、最も僕と対極にある存在。

 ああ……もし、柵越しにこの首を絞めてやったらどうなるだろうか?

 そう思ってクリフは震える手を柵越しに伸ばした。だが、アダムはひどく優しく言った。

『君、すごく悲しそうだ……今にも消えてしまいそうで、怖いよ。俺でよかったら、なんでも聞くから、話して』

 気づくとクリフは宙に手を伸ばしたまま、堰を切ったように自分の生い立ちを話していた。

 そのときに激しくクリフの中に沸き上がったのは憎しみでも殺意でもなく、ただ話を聞いてほしい……自分ことを少しでも知ってほしいという気持ちだけだった。

 ずっとひとりきりで誰にも届かなかった声は、彼になら届く気がした。

 アダムはただ黙ってクリフの話を聞き、終わりごろには共に涙を流してくれた。

 そして、約束してくれた。いつか、必ずここから連れ出すと。十六歳の誕生日には必ず、父アーサーを説得してくれると。

 だが、出会ってから半年が過ぎてから、ぱったりとアダムは来なくなってしまった。

「どうして来てくれないの? アダム。僕のことを見捨てたの?」

 そしてある日、待っていたものとは違う……だが、聞きなれた足音が牢獄に響いた。

 顔をげっそりと青ざめさせたアーサー王がやってきた。五年近く会っていない父は急に年老いて見えた。かつての若々しく、雄々しい剣聖の面影はない。

「父上……?」

 クリフは思わず、彼をそう呼んでしまった。いつまでも、頭の中でそう呼んでいたからだ。ああ、少しでいいから話したい、そばにいてほしい。

 血の繋がりがなくとも、愛されていなくとも、クリフは彼に対してそう祈り続けた。

 だが、その呼び名にアーサー王は顔をゆがめた。

 世界から愛され、頼られ続けた誇り高き剣聖にはふさわしくない、激しい憎しみと諦めがその表情のなかには浮かんでいた。

 彼はその呼び名を否定する代わりに、それよりもクリフに現実を知らしめる言葉をかけた。

「本当に、お前にはすまないと思っている。頼みがあるのだ。どうか……」

「なんでもします! だから、僕をここから……!」

 クリフの言葉を最後まで聞かずに、七国中で最強……一度たりとも敗北を知らぬと言われた男は一切のためらいもなく膝をつき、柵越しにクリフに向かってひざまずいた。

「クリフ、国のためにその身をささげてくれ。我が子アダムと国民達を守るために!」

 クリフは全身の血が凍りついていくのを感じた。いや……それならとっくの昔に凍っていた。

 ただ……血の繋がらない義理の兄のアダムがわずかな間だったけれど、温めてくれた。

 そのせいで、誤解してしまった。誰かが自分を見て、優しいまなざしをくれると。

 自分は一人きりではないと。そんなこと……ありえないのに。

 アダムはもうきっと、二度とここには来ない。

 この牢屋の鍵は、自分の命を差し出すことによってしか開かない。

 自分は決して、アーサー王の息子にはなれない。

 それらの不都合な現実だけが、まぎれもない真実だった。

「やっぱり、『そう』なんだ……」

 クリフはそう言い、乾いた笑いを浮かべた。

 いつだってそうだ。

 世界最強と謳われた英雄ですら、愛の前ではすべての力を失う。まるで愛した女に髪と髭を切り取られ、無力となった神話の英雄のように。

 だからアーサー王は憎んでやまないはずの不義の子にすら情けなく首を垂れ、膝をついてまで頼んでいるのだ。

 唯一愛したルルドが産んだ、アダムのために。

 ――じゃあ、僕自身は?

 誰からもそんな愛を受けとることができないまま、身代わりになって死ぬのか……? 独りぼっちのままで。

 氷のように冷たい痛みを伴う確信が重くのしかかる。

 クリフはそのとき初めて、最期の瞬間まで王とこの国を呪い続けた母の感情が理解できた。

 母は、幼い頃から七国戦争の英雄としてたたえられたアーサー王に憧れていたのだから。その愛こそが、彼女を追い詰めたのだ。

 人が狂うとき……それは最も愛されたいと願った人間から愛を得られないと確信した瞬間だ。

 魔脳との対話によって、クリフは母がかつて邪神を呼び出したという魔導書ネクロノミコンについてすでに知っていた。

「創生神の求めた代償が『あなたの息子』だから……そうですね?」

 魔導書ネクロノミコンが持つ最大の禁術は創生神クトゥルーを呼び出すこと。そしてその行為を行ったものは最大の代償を払わされるものだと言われている。

「ああ……創生神は『私の息子』と賭けで勝負をし、もし息子が勝てばアザトースの眷属に対抗しうる叡智を与えると告げた。さもなくば、交渉は決裂。脆弱なるルルイエはアザトースが壊す前に創生神が滅ぼすと……」

 創生神は決して人類の味方などではない。魂を分かつヨグ・ソトースの憎しみと暴力性を一身に受け取り、背負ったがゆえに、人を憎む存在だ。

 だが、地上の神々が残した大いなる遺産、魔脳マグダラを失った人類が唯一頼ることができる神は残虐なる創生神クトゥルーのみしか残っていなかった。

 アーサー王の背後には衛兵が控える。ここでクリフが従わないと返事をしたところで、アダムの身代わりになることは明らかだ。

「……わかりました、でも父上、その代わりに一つだけお願いがあります」

「すまない……私にできることならば、なんでもしよう」

「せめて僕を息子と呼んでください。偽りでもいい……一度だけでいいから!」

 柵を握り締め、膝をつくアーサー王と、生まれて初めて目が合った。

 だが、アーサー王は固く黙ったまま。それが、全ての答えだった。体中から力が抜け、鉛のように重くなる。もう、自分の命などどうでもいい。消えたい……。

 ここで舌を噛み切ったらどうなるだろう? そうすればきっと、アダムを差し出すほかなくなる。

 だが、行動に移すことはできなかった。それでもクリフは父を愛していたからだ。

 クリフはアーサー王と衛兵に連れられ、王城の寂しげな塔に向かった。ここは母ヘレナが古代魔術に傾倒してから占有していたと言う塔だ。

 ふと、不思議な香りが漂った気がした。嗅いだことのない、ともすれば異国を思わせる香り……だが、周囲には何もない。

 塔の最上階の扉を開く。すると、見たこともない異形……触手の塊が待ち受けていた。これが創生神、クトゥルー……!

 その恐ろしさを目の当たりにして、全身の血が凍りつくような、世界の終焉を目にしたような恐怖を覚えた。クリフは立っていることもやっとだったが、アーサー王もまた、怯えを隠し切れない様子で顔を青くしていた。

『ほう……血の繋がりのない息子を代償とするか。我を謀ろうとは浅はかな……時だけは我に掌握できぬとはいえ、この事態を読めてはいたぞ』

 瞬時に創生神の触手が伸び、アーサー王は抵抗の間もなく心臓を貫かれた。

「ち、父上……!? 父上―――――!!」

 触手はずるり!! とアーサー王の体から抜け出し、周囲に激しく血が飛び散った。

「王!? よくも……!」

 衛兵が剣を構え向かっていくが、クトゥル―は別の触手を矢継ぎ早に伸ばし、彼らを四方八方から突き刺した。そして触手の一つがクリフの頭の前で止まった。まるで、何かを調査しているかのように。

『さあ、クリフ……ルルイエの血を持たぬ偽りの王子よ。賭けの始まりだ。記憶を見たところ、お前はチェスが得意のようだな。お前がチェスの勝負に勝てば、アザトースの眷属から人類を守る術を教えてやろう』

「それは父、アーサー王の望みだ……僕の望みではない!」

『何?』

 クトゥルーがどう出るかなど、頭になかった。いずれにせよ、死の覚悟はとっくにできていた。

「賭けは受けよう……だが、僕は自分の望みの為に賭けをする! 身命を賭す者に、望みは委ねられるべきだ。あなたはこの世界を創った創生神……ならば、何もかも思いのままだろう?」

『ほう……面白いことを言うな。久しく目覚めた甲斐はあったようだ』

 クトゥルーは触手を楽しげにうねらせ、部屋中が不気味な脈動によって揺れる。彼が時への干渉権を持たぬ神ゆえか、人間の予想外の答えを面白がるように。

『いいだろう。もし我が取引を許すとすれば、お前は、一体何を望む?』

 クリフは一瞬にして殺された王アーサーの血が飛び散った床にひざまずき、飛び散った血を手のひらで撫でる。

 そして手についた血を片手の指でゆっくりと頬に塗り広げる。

 まだ温かい。一度も抱きしめられたことのない父のぬくもりがその中には確かにあった。

 この人はこんなにも優しい体温を持ちながらも、ついぞ僕を包んでくれることはなかった。

 ああ……この血がたった一滴でも、ほんの一筋でも自分の中に流れていれば、父上は僕を愛してくれただろうか? このぬくもりを知ることができただろうか?

 冷たい、悲しい……。それなのに、救いの手は決して現れない。求めて叫べば叫ぶほど、思い知らされる。

 何もかも……僕が僕として生まれてしまったことに原因がある。誰のせいでもない……僕が欲しいものすべてを持ったアダムのせいでも、父のせいでも。

 全部、僕のせいなんだ。だったら……。

「僕は、生まれ変わりたい! 正当な王の血を持った、父上の息子に……僕の全てを書き換えてくれ! 僕と言う存在を世界から永遠に消し去り……かわりに父上の血をもった王子として、新たに生を受けさせてくれ!」

 クトゥルーはその望みを聞き、しばらく黙っていたが、低く……人間には聞き取れない恐ろし気な声で哄笑した。そして『許諾』の言葉の代わりに、闇の中からチェス盤が現れた。

『さあ、深淵なる神と対峙するがよい……永遠の闇に沈む王子、クリフよ!!』

 クトゥルーの触手が禍々しく鼓動する音、恐怖の末に立ち上がったクリフの息遣いだけが、もの寂しい塔に響いた――。

「違う、君のせいなんかじゃない! 全部……約束を破った僕のせいだ!」

 記憶を見ていたアダムは思わず叫ぶ。

 すると、セピア色の世界が再び静止する。アダムはふと、自分の意識が宙に浮いているように感じる。

 どこからか見ていたクリフの記憶と思念そのものから抜け出たようだった。

「クリフ……まさか、君がそんな思いを抱えていたなんて……」

 だが、激しい衝撃と驚愕からは抜け出せそうにない。クリフは、父王アーサーが犠牲にした子供だというのか?

 あんなにも優しい父が……記憶がないせいで思い出せないが、人々に愛され尊敬される英雄が、息子である自分を守るためにクリフにあんなひどいことをしたと?

 アダムは信じられない思いだった。

 だが……父をひどいと言うなら、自分も同じだ。

 クリフを助け出すと約束しておいて、なぜ一切訪れなくなった? 約束したのに。

 また、クトゥルーの声が響く。

『では、記憶を喪う前のお前の『言い分』も見るがよい。それによってお前の罪は暴かれる』

 知りたい……約束を破った理由を、自分の罪を初めから終わりまで。

 セピア色の世界はゆっくりと動き、高速で風景が流れていく。

 アダムはその願いと共に、再び記憶の奔流の中に自分の意識を任せた。


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