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2章12話(30話)

「クトゥルー。盟約は果たしたぞ。今度は君の番だ」

 魔導書ネクロノミコンによって呼び出されたクトゥルー……巨体を溶鉱炉全体に据えた触手だらけの異形の神を見据えてクリフは言う。だが、わずかに手が震えていると気づく。

当然だろう、こんな恐ろしげな異形の髪を目の当たりにしているのだから。

「半神に埋め込んだヨグ・ソトースの肉体……受肉結晶を極限状態まで培養し、この海に溶かした。そして、ここにいる彼……ルルイエの血と、太陽の巫女メルジューヌの魂をその深奥に有するアダムこそがヨグ・ソトースの銀の鍵の保持者だ」

 太陽の巫女、メルジューヌ。そうか、やはりアダムの中にはあのステンドグラスの巫女がいる……?

『我が末端を分け与えた半神クリフよ。悪くない働きだな。世界を構成するための長い長い夢の中……我はお前の触手を通してすべてを見ていたぞ』

 アダムはふと、図書館で見た神話に、創生神クトゥルーの見る夢は世界そのものであると書いてあったのを思い出す。それはこの神が記憶の全てを司るからでもあると言う。

「前置きはもういいだろう。彼の深層意識から銀の鍵を取り出してくれ。『時の改変』の準備はすでに整っている」

『言われなくとも。我はこの時を待っていた。一万年前から……』

 アダムは身構えるが、抵抗の間もなくクトゥルーの触手が何本も伸びてくる。そして一気にそれは、アダムの頭を突き破り、脳の中に入ってきた。

「うぐっ……あああああああっ!!」

 触手が脳髄の奥の奥……そして自分では想像もつかないぐらい深く、奥の方にある領域を侵食していき、好きにかき乱していく。

 抵抗の術を失い、アダムは痛みと脳漿を直接かき乱される恐怖から気を失うかと思ったが、意識はそのままだった。

『ヨグ・ソトースは死した太陽の巫女の魂が存在する深層意識に『銀の鍵』を秘匿した。いかなる記憶の干渉をも防ぐ場所に。だが、我はそこに到達する術を編み出した……』

 アダムの頭の中は白く染まっていく。だが、その一方で青い空が見える。

『すべての人間の深層意識の奥深くには時の流れが並行的に存在し……過去世および未来とを繋ぐ、集合的無意識の領域がわずかに存在する。ヨグ・ソトースが『銀の鍵』を秘匿できるとすれば、そこしかない』

 触手が頭の中で細かく枝分かれしていく。それは脳のはるか奥にある精神の中を直接弄っていく。自分でも知らなかった意識が瞬くように、走馬灯のように瞼の奥に移り込んでいく。

 木漏れ日が差し込む木陰から見上げた青い空。まだユゴスの存在もない、晴れやかな空だ。

 そういえば、地上を神々が守護していたというルルイエは、太陽王とも呼ばれた現人神、ゼルク・ラーの力によって、常に晴れ渡っていたらしい……。

 アダムはひたすら意識を蝕まれながらも『誰か』の目線から、その世界を見るほかなかった。

 この木は確か……ヤドリギだ。立派で大きな樹木の下、『誰か』は寝転んでいる。

 いや、その手に虹色の触手が絡んでいる。

『メル……ジューヌ……』

『寂しい声。あなたも、ひとりきりなの?』

 『誰か』はやさしく虹色の触手を撫でた。

 がるる……!

 そこへ白い獅子が急に現れ、顔を覗き込む。『誰か』は細く白い手を伸ばし、獅子の口元にまるで『秘密』とでもいうように指を一本立てた。

 すると、白い獅子は安心したかのように『誰か』の隣に寄り添って眠る。

「クロノス! 急に走ったと思ったら……やっと見つけたのか」

 草むらを踏みしめる音が聞こえると同時に、そこへ褐色の肌をした少年が腕を組みながら近づいてくる。少し近づいたところで彼は立ち止まり、意思の強そうな大きな目で苛立ったようにこちらを見下ろした。

 まだ幼い。年は十二歳ほどだろうか?

 だが着ている白い装束の仕立てのよさや宝飾品から通常の身分でないことは明らかだ。

『メルジューヌ。お前は一体何度、余の約束を破れば気が済む』

 少年は傍に腰を下ろす。少年の身に着けた純金の装身ベルトが鏡のように桃色の髪の少女を映し出した。

 その姿はバラ色の頬や赤い唇、長いまつげ、華奢な体によって女性らしいものの……アダムに酷似していた。目の前の少年より数歳年上に見える。

『ゼルク、ごめんなさい。友達と話してた。ずっと聞いていたくなるほど、綺麗な声の子なの』

『嘘をつけ。王墓の丘に誰も来るわけがない。このルルイエの王……そして世界ただひとりの荒人神である余が許した者以外はな。それより早く、余の傷を癒せ』

 少女の手が少年の腕に添えられる。くすり、と少女が笑いながら目を閉じる。すると、そのあたりが白く光り、擦り傷が癒えた。

『かすり傷ね』

『余の傷はお前が癒す約束。だからわざわざ来てやったのだ。感謝するがいい』

 少年は高慢な様子でそう言った。本気でそう思っているのか、照れ隠しなのかわからない。

『戦争で毎日ひどい傷を負っているときは一度も姿を見せなかったくせに、少し平和になった途端、修練の傷ぐらいで来るのはなぜ?』

『フン、ほかの約束は何一つ守らぬお前が口答えとは。不敬の罪で処刑してやってもよいのだぞ? 他の者たちと同じようにな』

『そうね、王様の仰せのままに』

 これが『メルジューヌ』の記憶なのだ。クトゥルーが言った、深層意識のさらに奥深くに眠っていた……。

 ビキリ。

 だが、どこからか何かがひび割れる音がした。

『やめて……ぼくだけと話して。ぼくだけを見て、メルジューヌ……そのためならば、ぼくは一万年でも、何憶年でも君を待つ……』

 幾重にもうねる虹色の触手が地面を突き破り、世界を破壊しつくしていく。

 ヨグ・ソトース……?

 虹色の破片で世界は覆われる。真っ暗闇の中に巨大な『銀の鍵』が浮かび上がった。

『やはり、ここに隠したか。集合的無意識の奥深くにある、メルジューヌの記憶と共に……』

 クトゥルーの声が響き、巨大な『銀の鍵』が暗闇の中から現れる。それは黒紫の触手にからめとられ、覆われていった。

 ふと、意識の底にぼっかりとした空洞ができたような気がした。激しい頭の痛みと共に、鍵がゆっくり……どこかへと連れ去られる感覚が襲う。

『ああ……やめ、ろ……』

 だが、この『銀の鍵』しか過去を変えることができない。

 脳の奥からいくつもの触手が絡みあいながら……やがて去っていく。

 アダムは瞬間的に我に返る。

 すると黒紫の触手が、『銀の鍵』をその先にひっかけ、弄ぶようにちらつかせていた。

「ああ……これが時を戻せる銀の鍵か! 早く……それを僕に!」

 クリフが歓喜を声に滲ませてそう叫ぶと、クトゥルーはそれを触手でひどく高く持ち上げた。

『その権利はお前にはない。『銀の鍵』が手に入った以上、貴様にもう用はないのでな』

クリフは驚きながら震えた声を出す。

「な、何……? 鍵は僕に渡すと約定を交わしただろう! ヨグ・ソトースの受肉結晶を集め、『時の改変』を可能にすれば、時を戻す権利を与えると」

『何を誤解している。我は『アダムから鍵を取り出す』ことは約束した。だが……一度でもお前に、時を戻す権利を与える、と言ったか?』

 クリフは明らかに想定外だという顔をしている。いつもは冷静な彼の顔が焦燥感にあふれ、怯えすら見せている。

「どういうことだ? 盟約って……?」

 アダムは鍵を取り出されたばかりで、苦しさに震えながらも問う。すると、クリフは狼狽しながらとぎれとぎれに話した。

「い、言ったはずだ……! だって……僕が、チェスでの賭けに勝ち……願いを叶えてくれと頼んだら……それは記憶の神であるクトゥルーには不可能だと……だから、そのかわりに人の記憶を消せる力を与えると……そして、『時の改変』を行いたければ、半神を作り、彼らの受肉結晶を育て……ここに溶かせと……!」

『ふふ……はははっははは!!』

 クトゥルーは哄笑する。そしてクリフに告げた。

『お前の願いならばとっくの昔に叶えてやっただろう? 『代わりに人の記憶を消す力を与える』。そう言って……』

 クリフは愕然としながら問う。

「で、でも……それじゃあダメなんだ! それじゃあ、僕の血は……物事の根本は変わらない! だから僕は時を戻すために必死で……半神を何人も犠牲にしたのに!」

 クトゥルーは意地悪く触手を揺らし、目を細めて言う。

『それはあくまで、『偶然の目的の一致』だな……我はヒントを与えたに過ぎないからな。クリフよ。『銀の鍵』は決して渡さん!』

「そうはさせるか! 僕はもう、後になど引けないんだ! なんとしてでも、願いを叶えるために!」

 クリフは瞬間、背中から触手を伸ばし、銀の鍵を奪おうとする。

 だが、触手の動きが止まった。そのままクリフの体に吸い込まれて戻っていく。

「え……なぜ? 言うことを聞けぇ!!」

 触手に向かって怒るクリフに、クトゥルーは楽しくてしょうがないというように言った。

『貴様の触手は元々我が分け与えしもの。なぜ、我が動きを制御できぬと思った』

 そしてクトゥルーは触手の一つをこともなげに伸ばし、クリフの心臓を狙う。

「クリフ、危ない!」

 アダムの脳裏に、焼け付くようにある声が蘇る。

『アダム……助けて……! 僕をここから出して!』

 そうだ……もう二度と見捨てちゃいけない!

 アダムはクリフの前に躍り出た。そしてクトゥルーの触手に背を向けながら、クリフを庇う盾となった。向かい合ったクリフは、驚愕で声も出せぬまま、目を大きく見開いた。

 寸分も置かず、触手がアダムの背に勢いよく刺さった。血が派手に噴き出し、向き合ったクリフの顔と服にびしゃりとかかる。

「うっ……がぁぁぁぁっ!!」

 アダムは苦しみ、叫んだ。

 クリフは驚き、自分の盾となったアダムをただただ見つめた。震える声が思わず漏れる。

「し、信じられない……なんで、僕なんかのために!?」

『ほう? まさか、お前が庇うとはな』

 クトゥルーはそう言って、触手をアダムから引き抜いた。その衝撃、そして触手が抜けさる感覚にアダムは激しい痛みを感じ、血を吐き出した。

「がはっ……!!」

 確実に……どこかの臓器に穴が開いた。だが、そんなことを気遣う余裕はない。心臓以外ならば……この体は動く!

 クリフは再びアダムに訴えかけるように問うた。

「アダム……どう、して……! どうしてだ!」

 それは問いというよりも、悲願にも聞こえた。

彼はきっと、何かを自分に望んでいる。だが、アダムはその望みを掴み切ることはできなかった。

「もう、誰も見捨てない。そう誓ったんだ!」

「『誰も』……?」

 クリフは悲しい目をしながら、アダムの頬を自分の手のひらで打った。

「やめろ……! やめろよ!」

 しかし、その力はひどく弱弱しく、アダムは全く痛みを感じなかった。体に筋力がまるでないように……。普段、触手で戦闘を行っていたから気に留めたこともなかったが。

 アダムはクリフの袖から出た腕の細さに改めて気づく。

 クリフはあまりに細く、弱弱しい体をしていた。まるで幼い子供のまま、時が止まっているかのようだ。

「上っ面の優しさなんかやめろ! ガイアを死に追いやったのも、アキリーズもヴァルトロも、みんな僕が殺させたも同然なんだぞ!? なのに、君はまだお得意の偽善と博愛を見せようというの!? そんなの、いらない! いらないよ!!」

「……そう、だよな。君の言う通りだ。俺は偽善者だった! 何があったかはわからないけど、君を助けられなかった。でも……未来は変えられる!」

 アダムはクトゥルーに向き直る。

「クトゥルー! お前にクリフは殺させない! 俺が守ってみせる!」

『ふふふ……ははははは……! 裏切者が、よく言ったものよ。クリフが我の導くまま、闇に堕ちた原因は全てお前にあるというのに』

「なにっ……!」

 溶鉱炉と部屋の空間すべてを埋めるほどに広がった触手が楽し気にうねっていく。

『ちょうどいい。お前に見せてやろう。お前の記憶だけはクリフに望まれ、我が自ら壊して、受肉結晶の果てに沈めた。だが、興が乗ったな……果たしてお前はこの『記憶』の重み、自らの罪に耐えられるか? アダムよ』

 罪……クリフを傷つけたことに違いない。クリフの目は複雑に揺れながらも、独り言をつぶやく。

「どう……して……。過去を変えられないなら、僕は、一体何のために……生きたくもないのに今日まで生きてきたんだ!?」

 クリフの言葉の悲しさに思わず、息が詰まる。なぜ、そうまでして彼は自分の生を否定するのだろう?

アダムは腹を貫いた傷の痛みに耐えながら立ち上がる。そしてクトゥルーに向き直った。

 拒んだところで、クトゥルーは容赦しない。

 この混沌を具現化したような異形の神から感じられるのは激しい『憎しみ』だった。この者は、人間すべてを憎んでいる。善性も悪も何もかも関係なく……奥深くからその無限なる憎しみが永久にくすぶり続ける炎のように感じられた。

 どうあがこうとも、この創生神クトゥルーは自分やクリフを殺す気だろう。

ならば、時間稼ぎをするためにも……何より真実を知るために、クトゥルーの策に乗るしかない。アダムはそう決意した。

『ほう? 覚悟はできているようだな、アダムよ』

「ああ、クトゥルー。俺の罪を教えてくれ! どんなことでも受け入れる!」

『よかろう。さあ、記憶の深淵へと沈むがいい。どこまでも深く、昏き闇の中へ……』

 そして次の瞬間、無数に伸びる黒紫の触手がアダムを一気に覆いつくした……。


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クトゥルーの理不尽さと圧倒的存在感も迫力満点。 希望と絶望がせめぎ合う展開に、目が離せません!
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