2章11話(29話)
グォォォォォ……。どこからか、怨嗟の声が聞こえる。これは半神の声か。それとも、夢見の創生神、クトゥルー……?
いや、違う。この怨嗟は、誰かの声がゆがめられて、変形したものだ。邪神ともよばれる創生神クトゥルーの力によって。
『アダム……助けて。僕をここから連れ出して!』
ああ……この声を、俺はずっと知っていた。アダムはそう思う。だが、ずっとわからないふりをしてきたのだ。
「そうか、ずっと俺に助けを求めていたのはクリフ……君だったんだ」
最初に半神として目覚めた時に聞いた、助けを求める男の子。あの子はクリフだったのだ。顔も、姿も、見えない。暗闇の中にその声だけが響いていた。
暗闇が少しだけほどけ、わずかばかりの光が差し込む。青白い唇と白い顎だけが見える。その唇は何の答えも返すことはなかった。
いや……とっくの昔に、心の何処かでは気づいていた。
でも痛くて、怖くて、拒んでしまった。
そしてそのうちに虹色の粉々になった欠片はガイアの記憶のように気づいて触れて、思い出すこともなく、受肉結晶の糧となって、意識の底深くに沈み込んでしまったのだ。
「夢でも見ていたの? アダム。のんきなことだね」
目を開けると、そこはヨグ・ソトースの肉体の集積場……溶鉱炉だった。自分たちは鉄橋の上にいる。
アダムの腕は拘束具で戒められており、槍は操作盤の近くに安置されている。それも同じ腕を戒めているのと同じ拘束具で近くの鉄パイプに括りつけられていた。
ああ、可哀想に……。冷たい目で自分を見下ろすクリフの中にある寂しさと悲しみを思い、アダムは憐れむように言った。
「クリフ。ごめん……ずっと俺に助けを求めていたのは君だったんだね」
「……! なぜ、それを……?」
クリフは激しく動揺した様子で目を見開き、アダムを見る。そして尋ねた。
「いつから……? 気づいていたんだ?」
その意識と疑念は、アダムの奥底にあった。だがそれは自分が最も触れたくない……逃げたいものだった。だから、ずっと見えないふりをしてきた。
「夢の中で、あの牢獄の中にいる君に会った。やっとわかったよ。いや……本当はずっとわかってた。きっと、見えないふりをしていたんだ。ごめん」
「うるさい……謝るな!!」
クリフは背から触手を出し、アダムの頬をすかさず打った。何度も何度も、アダムを打ちすえ続ける。
溶鉱炉が泡立つ音が聞こえる中、その鈍く悲しい打擲音が薄暗い空間に響いた。
アダムは痛みと共に、ぼっかりと開いた記憶をどうにか反芻しようとする。
俺はあの男の子がクリフだと、認めたくなかったのだ。絶対に……。
自分を守るための意識が働き、頭と心が拒否し続けていた。きっと、かつては脳内にあったであろう、虹色の破片はもう受肉結晶の糧となって残ってはいないに違いない。痛くて、辛くて、見たくなかったから。
アダムは本心から、クリフへの罪悪感を覚える。ガイアの記憶とは逃げずに向き合ったのに、クリフのことは流されるままに甘えて忘却した。
思い出すチャンスは幾度もあったのに……。
忘れた方が楽だから、逃げたのだ。
「頼むから、僕からずっと逃げ続けたままでいて、アダム。そうじゃなきゃ……全部終わってしまうじゃないか。僕は君と、嘘でも友達になりたかったのに……」
クリフのか細く、今にも泣き出しそうな声が地下にただただ反響する。彼はどうにか気を収めたのか、美しい少女のような顔立ちを悲しそうに曇らせながら、触手をゆっくりとしまった。
「クリフ……お願いだ、君が消した記憶について教えてくれ。俺は、思い出さなきゃいけないんだ!」
クリフはそれに対する答えを返さず、冷たい顔でアダムを見下ろす。そして冷酷な王の仮面を張り付けたような表情で告げる。
「どうしてだい? 『時の改変』のために『銀の鍵』を君から取り出せば、君はもう用なし。永遠にこの海の中に沈むんだから、何も思い出す必要なんかないだろう? 君の仲間のアキリーズとヴァルトロの体も、もうすでにこの中にあるよ。……よかったね、沈んだあとはお友達と一緒だ」
アダムは拘束された腕のまま、立ち上がる。神食の影響か、体がひどく重く、常に脳髄の内側が焦げて溶かされていくような痛みが襲う。腕の拘束を解こうとしたが、一切びくともしない。
「ああ、無駄だよ。それは僕の触手の一部を加工して作った拘束具だから、そう簡単には解けない」
そして果てしなく広がる虹色の熱い海を見つめながらクリフは言った。
「彼らには感謝しているよ? 一応、国を支え続けてくれたわけだし。アキリーズも、ヴァルトロも、いい培養体になってくれた。能力は君に引き継がれたとはいえ、神食が進んだ二人の受肉結晶を溶鉱炉にささげ、ヨグ・ソトースの肉体の完成度はかなり上がった。あとは君という培養体を沈み込ませ、君から取り出した『銀の鍵』を使えば完璧だ。ようやく『時の改変』は可能となる」
「ひどい……一体なぜ、こんなにもたくさんの人を犠牲にしてまで、時を戻そうとするんだ?」
「その質問、何度目? それにしても今回の魔物の討伐は散々だったな。予言情報がでたらめになったぐらいであんなにもたくさん殺されるなんて。でもまあ、今回は半神の死体が沢山出て助かったよ。全部回収して溶鉱炉に溶かせたもの」
事もなげにクリフはそう言って笑った。国民の命、半神の命、全てが彼にとってはあまりに軽い存在なのだ。
「クリフ。君は俺の約束なんて、守る気ないんだろう? ガイアの未来を救うと言う……」
半ば絶望と共にアダムは語り掛ける。どうにかしなくては……だが、そう思いながらも、策が見当たらない。丸腰の状態でクリフと戦ったとしても負ける。そして何より、『時の改変』が目的であるクリフに
「約束を守るかどうかなんて、君に言われたくないな。アダム」
クリフは淡々とそう言った。激しい諦めと悲しさが、その声の中にはあった。
アダムは負傷の痛みを抑えながらも追随する。神食の影響か、体がひどく重く、常に脳髄の内側が焦げていくような痛みが襲う。
「アダム。心から感謝するよ。アキリーズ、そしてヴァルトロの分まで能力を引き継いで神食度を増した君は、『銀の鍵』の器というだけでなく、ヨグ・ソトースの受肉結晶にくべる最大の素材になってくれた」
アダムは細い通路の外側を眺める。『銀の鍵』が取り出された後は……この煮えたぎる虹色の海に沈むことになるのか。ずっと自分を求め続けた、ヨグ・ソトースの元へ。
「いよいよお別れだね。まずは君の深層意識の奥深くに潜む『銀の鍵』を取りだすために、『彼』を呼ぼう」
「彼……?」
そのとき、クリフの頬、首、わずかに出た手にぼこり!!と黒紫の触手が浮かび上がった。アダムは思わず、その様子の恐ろしさに身がこわばるのを感じた。
「ああ……もう待ちきれないみたいだ。このままだと、僕の体を突き破って出てきてしまいそうなぐらいに、触手が興奮してる。彼はもう一人の自分であるヨグ・ソトース、そして彼が作り出した神々の一端でありながら唯一自分を封印したノーデンスにはご執心でね……いつも君と一緒にいると、皮膚の中でうごめきまわるんだ」
彼が誰なのか、確信した。
「クトゥルーを呼ぶつもりなのか!? でも、ノーデンスと一緒で、クトゥルーは君の中にいるんじゃ」
「人類を守って殺された神々と違い、夢見の創生神クトゥルーは現存する神だ。僕の体にあるのはその一部。聖遺物ではなく、クトゥルーの生きた触手そのものが体内に埋め込まれているんだ。それにより、僕はクトゥルーの本体と感覚を共有している。常にうごめき、僕を……僕たちを見ている。時の繋がりなしに、僕たちは彼の生きた触手によって結ばれ、一体となったんだ」
クリフは苦しげに青白い顔を歪める。触手が激しく、彼の内部でうごめいているのがはっきりとわかった。
だが、ふと違和感が立ち上がる。クリフはほとんど戦闘を行わず、神食を避けていたのではないのか? アダムの考えを読んだようにクリフは言った。
「僕は自分の命がさほど惜しくないんだよ、アダム。だから毎回、強い魔物を討伐し、くだらないことにばかり能力を使った。それはもうたくさんの人の記憶を消したからね……神食は、すでに極限まで進んでいるんだ」
「なぜ……? 君は王だろう! 王が倒れたら国は成り立たないのに!」
「ああ、君らしい言葉だ! でも、どうせ全部全部、消えるから同じさ……。過去を変えれば、僕は完全に世界からいなくなれる。だから、この体も、この心も必要ないんだ……」
クリフの目には光が灯っていない。クリフの行動を許すことはできないが、アダムはその不安げな表情に思わず寄り添いたくなる。
なんとか、してあげなきゃ。今度は……見捨てちゃいけない。
「必要ないわけないじゃないか。そんなの、悲しいよ」
クリフは一瞬だけアダムの目を見つめ、唇を震わせた。だがすぐにうつむき、表情を隠して言う。
「……君が鍵を持ってきてくれさえいれば、こんなことにはならなかった」
「鍵? 『銀の鍵』のこと……?」
クリフは酷く辛そうに顔を歪め、質問には答えなかった。かわりに彼は溶鉱炉の通路を進み、分厚く古びた革の本を取り出した。
「僕の母、正妃ヘレナの形見の魔導書ネクロノミコンだ。かつて戦乱中にルルイエの国境近くの洞穴で発見され、母の母国エーデリヒ美術館に所蔵されたが、政略結婚によって母が輿入れする際に、和合の証としてルルイエに贈られた。父上はこれを使って創生神クトゥルーを呼び出したんだ」
「父上……アーサー王が?」
「ああ。父は僕を産んだ母を恐れて遠ざけ、処刑までしたというのに、最後はその元凶であるこの禍々しい書物に頼った……というわけさ」
「しょ、処刑!? 父上が正妃を……まさか、そんなわけない!」
「紛れもない真実だ。彼女はルルイエを破滅させる『呪いの魔女』と呼ばれたからね」
クリフのその口調には皮肉と、複雑な悲しみが込められていた。
クリフの母、ヘレナについて、そしてヘレナとアーサー王の関係については書物にも記載がなく、 全く知らないことだった……。当然か、この国の歴史の全てはクリフが塗り替えてしまったのだから。
しかし、正妃ヘレナを母と呼ぶということは、クリフは王族……そして自分の兄弟ではあるのだろうとアダムは考察する。
国民からも自分からも消されてしまった正史の記憶は知りえないが、ガイアの記憶の中で見た映像で、アダムは自分が王子であっても、正妃ヘレナの子供でないことを知った。
自分は……顔も名前も知らないが、アーサー王が愛した『風語り』の子なのだ。
クリフは魔導書を厳重にしばりつけていた紐をほどく。
パラパラパラッ……!
独りでにページがめくれ出した。風も何も無いはずなのに、あまりに不思議でアダムは目を見張る。
「僕は父上や君と違って古代ルルイエ語が読めないんだ。王家の遺伝子記憶があれば、この言葉は脳に自然と入ってくると言われているけれどね……」
アダムはクリフの言葉で、少し前の記憶を思い出す。地下室への階段を開く暗号は自然と読めた。あれがきっと、遺伝子記憶……?
「だからこそ、これを完全解読してみせた母にならって、血のにじむような勉強を重ねてきたんだ。そして、クトゥルー召喚の呪文だけならば読めるようになった!」
あるページで、本は止まった。クリフはそのページの意味不明な記号の羅列を一瞥し、冒涜的かつおぞましい言語で宣言した。
「謌代?繝ォ繝ォ繧、繧ィ縺ョ陦?繧呈戟縺溘〓閠??ゅ>縺九↑繧狗スー繧偵b莉」蜆溘b謇輔≧縺ィ隱薙≧縲ゅけ繝医ぇ繝ォ繝シ縲∝錐迥カ縺励′縺溘″豺キ豐後r縺セ縺ィ縺?@螟「隕九?蜑オ逕溽・槭h縲√◎縺ョ蟋ソ繧堤樟縺(我はルルイエの血を持たぬ者。いかなる罰をも代償も払うと誓う。クトゥルー、名状しがたき混沌をまといし夢見の創生神よ、その姿を現せ!)」
そしてアダムにはなぜか、その言語の意味が理解できた。これが遺伝子記憶……?
そのとき、魔導書のページにブラックホールのような穴が開いた。すべてを飲み込もうとするかのようにそれはぶわぶわと広がっていく。
まずは、一つの触手がぬめりながら本から這い出てきた。
「ひっ……!」
思わず叫ばずにいられなかった。クリフがその身から出す触手と形状は似ているが、明らかに太く、一本一本が生き物であることがわかるような、あまりにおぞましい様相をしていた。
そしてその触手が無数に這い出て、一つの塊となって世界に構成されていく。
「これが、クトゥルー……なのか!?」
その巨大な触手の塊……異形の神クトゥルーは、一瞬にして溶鉱炉を埋め尽くした。どこが頭で、どこが胴体なのかもわからないほどの巨体。触手という触手が部屋中に伸びきり、鉄橋に目のようなものがついた頭のような部分が乗っかり、伸ばされた触手はどれも、どくりどくりと鼓動を立ててやまない。溶鉱炉にその触手の一部が触れているが、その末端は一切ダメージを受けることがないようだった。
どこからか、地響きのような低い声が響く。
『これほどまでに短き眠りは初めてよ。我をもう目覚めさせたとは……もしも野暮用であろうものなら、その命も魂もないものと思うのだな』
世界の記憶を知る創生神。または災厄と憎しみすべてを背負った邪神と呼ばれたクトゥルーは自らの体をうねらせ、全てを破壊するかのような覇気を放った……。




