2章7話(25話)
アダムは走って、ガイアを追いかける。だが、彼女は曲がり角の先に消えてしまった。急いでアダムも追いつくが……辿り着いた袋小路には、誰もいなかった。
代わりに金色の目をした男が立っており、どこか満足気に言った。
「神話語りにつきおうてくれるんやな、どうもおおきに」
アダムははっと我に返る。そうだ、ガイアが生きているはずはないのに……。
影が差す袋小路は静かで人気がない。男に警戒しながらアダムは身構えて、後ずさる。
なぜかあの煙草の香りをかいだ瞬間に、ガイアが見えたのだ。あれは幻だったのだろうか……?
興行師と名乗った男は芝居がかった手ぶりをしながら言う。
「ああ、なんて切ない顔! さては、もう会えぬ愛しい人でも思い出したか? えらい純粋なことで」
「ど、どうしてわかったんだ?」
ふふ、と笑って男は言う。
「魔香を嗅いだ人間が見るものは理想の夢。たいがいが金銀財宝やら、自分にだけかしずく百人の美女を見る。挙句の果てには、寝ても覚めても魔香を寄越せとほざくようになるのがお決まりや」
魔香。図書館で読んだ本の中にそういえば記載があった。魔脳マグダラとの対話によっていつかに生み出されたと言う、人体に安全な人工特殊煙草の名だ。
言葉の通り、身体的影響はないが、精神的な依存症状をもたらすことがほとんどでありあり、下手をすると煙草欲しさに財産を使い果たしてしまう人間もいると言う。
確か……戦後の竜玉公国だけは産業の一環として合法化していると聞いた。
「心配せんでも、これぐらいの量で中毒にはならん。せやけどハマったときは、いつでもご注文を。英雄の息子殿」
「英雄? とう……いや、なぜ俺をそう呼ぶんだ」
父がアーサーだと知っているのか? まさか。そんなことは誰も知らないはずだ。少なくとも、この国では。
「ちょいと、お父上に世話になったことがあってなぁ。大したことやないが、少しばかり話を知っとるというだけや」
そう言ってにやりと不気味に男は笑う。
得体も知れない雰囲気に、魔香まで嗅がせてここまでついてこさせた人間……。一体何をするかもわからない。今からでも立ち去らないと。
「おっと、せっかくやねんからもうちょっとゆっくりしていきぃな」
だが、男はまたキセルに火をともした。一瞬にして先ほどとは違う色の煙が立ち上がり、周囲を包んでいく。
ふと気づくと、あたりは豪華な劇場の風景になっていた。ここはどこだ……? まさか一瞬で移動したのか? アダムは赤い観客席の椅子に座っている。
舞台の中心にさっきの男が現れる。そしてぽかんとしているアダムを面白そうに見た。だが自分で何か疑問を覚えたように顔をしかめる。
「これはどっから『盗んだ』んやっけな? ……有神の時代にあった西方の劇場やったような……まあええか、どこでも」
どこか投げやりに男はそう言い切る。
まさか、自分は瞬間的にどこかに来たのか?
「ま、これはさっきと同じ幻みたいなもんやから、深くは気にせんでええ。ほな、始めよか。神話を……」
すると、照明が消える。
ゆっくりと明るくなっていき……そして、一つのあまりに巨大な触手まみれの造形をした影が浮かび上がった。思わず、その様相に震える。
「始まりは数億光年前……原初の偉大なる創生神は無限の宇宙を漂うなか、この美しく蒼い星を見つけ、一目見るなり愛してしまった」
男は滑らかでよく通るバリトンの声で語りだす。それに合わせるかのように触手の影はぬらりと蠢いていく。
「そして、衝動の赴くままに何もない星に一瞬で世界を作った。人間、動物、海に木々、古代文明、そして人間を守らせるため作った、地上の神々に至るまでのすべてを。これこそが、天地創造」
一瞬で世界を創る……? 想像をはるかに超えた力だ、とアダムは感じた。
触手の影の周りに、動物や人間、木々の影が現れる。
「創生神は『時』と『記憶』を司る存在。ゆえに一瞬しか必要としなかった。なんせ過去・現在・未来に至るまでの結果が見えるんやからな。……あらゆる『失敗』の可能性を最初に潰して、最善の形で世界を作ったっちゅーわけや。ただ……予想外はあったみたいやが」
『時』と『記憶』……。その言葉に疑問を覚え、アダムは思わず尋ねる。
「待って。この世界の創生神はクトゥルーじゃないのか? クトゥルーは『記憶』を司る神で、『時』の力を持つのはヨグ・ソトースであるはずだ」
「どちらも創生神に間違いはないで。なぜなら、クトゥルーはヨグ・ソトースであり、ヨグ・ソトースはクトゥルーやからや。ちょうどこっから説明するから、大人しゅう聞いとき」
すると、触手の影絵が真ん中から色が分かれた。片方は虹色、片方は黒紫に。
「原初の創生神のなかには二つの魂が存在した。世界を実際に創生する荒々しい力と記憶への干渉力を持っていたのはクトゥルー、そして時を操り、世界を維持し、全能の力を持っていたのはヨグ・ソトース」
「二重人格のようなもの、なのか?」
「そうとも言えるな。でもこの頃までは二つの神の魂は同じ肉体の中で共存し、互いの力を使って世界を創造して保っていたっちゅーわけや。そして地上の神々はこの創生神たちの子。まあ、これが有神の時代の始まりや」
蠢く虹色と黒紫の触手の神の影。それらには激しい既視感があった。
そしていくつか、男性や女性に模した大きな影と人間を模しているのか、小さな人々の影が現れる。
「ここからしばらくは有神の時代が続く。人々と地上の神々が織りなす共存社会。人々が間違った道に進めばその都度、地上の神々が導いて守ってやったりと……まあ、そんな具合や。だが、一万年前にその均衡は崩れた。ヨグ・ソトースが恋をしたからや」
影絵に長い髪の少女が現れる。
「太陽の王国の巫女、メルジューヌか?」
「その通り。穏やかなるヨグ・ソトースはその時に初めて、クトゥルーとの完全分離を望んだ。それと同時に世界の均衡は崩れ、クトゥルーは創生神でありながら邪神と呼ばれる脅威となった」
影絵の触手が二つに分かれる。黒紫の個体と、虹色の個体に。
そして青紫の個体の触手が人々に伸び、縊り殺していくさまが影によって表現されていく。
「なぜ……?」
「元が宇宙神であるクトゥルー、そしてヨグ・ソトースは愛情表現が少―し変わっとるんや。愛する者を喰い殺して自分の中に取りこみ、共に永遠に生きることが宇宙神の愛。創生神はそうやってこれまで愛するものを全て飲み込んできた。だが、メルジューヌを愛したヨグ・ソトースの魂は自分が彼女を取り込んでしまわぬように、自分の闇と負の感情、悲しい記憶の全てをクトゥルーに任せ、互いの魂を肉体ごと切り離した」
虹色の触手は巫女の傍に寄り添い、そして黒紫の触手は人を殺していく。影絵ではあるが、クトゥルーのまわりだけが真っ赤な血の色に染まっていく。するとその傍に長い髪の青年の影が現れる。彼の手には……三叉槍が握られていた。
「そこへ現れたのが善神ノーデンス。彼は暴走するクトゥルーと戦い、自分の利き腕と三叉槍の大部分を失ったが、人々のためにどうにか彼を封印した」
黒紫の触手の影が消える。片腕を失ったノーデンスの影は背を向け、老人のように歩き出す。ノーデンス、あの時の君の記憶はそう言うことだったのか。
頭の中でそう語り掛けたが、ノーデンスからの反応はなかった。
「……だが、これこそが不幸の始まり!」
どこか高揚した様子で男は言う。小さい人間の影が武器を持ち、一気に虹色のヨグ・ソトースを取り囲んだ。
「闇と憎しみを背負った記憶の神クトゥルーが眠った瞬間、人間たちの大半から創生神に対する愛と崇拝の記憶が消えた。巫女をかどかわす邪神の化け物と成りさがったヨグ・ソトースは太陽の王国を治める荒人神、ゼルク・ラーによって討伐されかけた」
新たな影が現れる。背に太陽を背負う、まだ幼い少年だ。クトゥルーに向かって手をかざしている。少女メルジューヌの影は戸惑いながらも触手にかけよっていく。
それを見ると、ずきりと激しく胸が痛む。あのステンドグラスの物語は、今語られたこの神話の一部だったのか。
『メル……ジューヌ。また、君に近づけたね』
アダムは再び脳裏にヨグ・ソトースの声が響くのを感じた。そして受肉結晶が埋め込まれているであろう首から脳にかけて激しい痛みが走る。
「うぐっ……」
『思い出してほしくない。いや……でも……忘れないで。僕は君と、永遠に……』
この痛みは、ヨグ・ソトースの心の痛みだ。可哀想に。
助けてあげなきゃ……。
「ヨグ。大丈夫、私が治すから」
そのとき、不思議と、アダムの口から言葉が零れ落ちる。だが、それは自分が言ったと言うよりも、何かがかわりに口を借りてしゃべったように感じた。
間違いない。これは影絵のメルジューヌがヨグ・ソトースにかけた言葉だ。
アダムはそう確信する。
だが、ヨグ・ソトースの触手の影は少女の傍で、苦しむように触手の体を横転させる。
「だが、彼女の声は届かず、クトゥルーに全て押し付けたはずの憎しみと悲しみに包まれたヨグ・ソトースは結局自身の力を暴走させてしまった」
虹色の影は広がり、プリズムのようにすべての光を反射させながら、舞台を覆い尽くしていく。眩しく、目が潰れそうになる。
だが徐々に光が落ち着き、次の瞬間、スクリーンに映ったのは不毛な大地の影のみだった。
「そして人間を守ろうとした全ての神々を殺し、無神の時代が訪れた。神にとっちゃ、元凶の人間は殺さずに迷惑な話やけど。まあ守ってくれて感謝感謝。命さえありゃ何とでもなるからな」
一切感謝していなさそう言い方で男は言った。スクリーンに映った影は全て消え、スポットライトの下にいるのは興行師だけとなった。
前にクリフから聞いた神話とは中身が違う。こんな話はどの資料にも、図書館の本にも乗っていなかった。
「本当なのか? この話は」
「さあ。神話の真髄は教訓として受け取り、真実が何かを見極める事。そうやとは思わへんか?」
嘘っぽい笑顔を浮かべ、男は笑って話を続ける。
「真実は解釈次第やけど、この話の教訓は少なくとも、人に汚れ仕事を押し付けると痛い目に遭うっちゅーのと、一見優しい奴ほど根に持つっちゅーことやなぁ。それと……」
そして舞台を降り、観客席の階段を上ってアダムに近づいてきて告げた。
「優しいヨグ・ソトースがメルジューヌを本能のままに取り込んでおけば、数少ない犠牲だけで済み、神々も死なずに終わった。つまり、煮え切らん優しさや愛は時として害にしかならん。そんな半端者に人を愛する資格があったんやろうか? ……おっと、神に対して不敬が過ぎるな」
アダムは思わず、ガイアの言葉を思い出した。
『私だけに優しくして』。
あの時、国民を助けようとしなければ。ガイアは死んでいない。未来が決まっていたとしても、自分さえ決断を間違えなければ。
でも……自分では戦えない人たちを助けたことは間違っていたのか……?
アキリーズ、そしてガイア。迷っていても何も変わらない。どちらかを決めないと。どちらかを……助けないと。
目の前の男は何かを測るようにアダムを見つめている。
「そうだね、教訓を覚えておくよ。でもなぜ、あなたは俺にこの神話を見せたんだ?」
男はアダムの座る客席に近づいてきてから立ち止まり、アダムと目を合わせて言う。
「ただの教訓話……。もしくは、神と繋がるための橋渡し、どっちやろうなぁ? 神の思考を少しでも理解し、繋がるには神話に触れるほかない」
アダムははっとする。確かに、さっきの神話を聞いてヨグ・ソトースとまた繋がった気がした。
「あなたの目的は一体なんだ?」
男はうやうやしく腕を胸に当て、礼をした。
「あの英雄殿には戦時中、えらい世話になった。朕は善悪、光闇、全ての二極に属さぬ凡夫。せやけど……恩義だけは返す男や」
そして男はまた、キセルに火を灯した。
「語りの清聴、感謝するで。ほな……再見、密友(また会おう、友よ)」
煙がゆっくりと立ち上がり、劇場内を充満していく。
気づくとアダムは先ほどの袋小路にいた。さっきの男は消えているが、煙の香りだけがそこに焼き付くように残っていた。ふと、近くに灰で描かれた円形の魔法陣のようなものが残っていると気づく。
一体、これはなんだ……? それに彼は、父に世話になったと言っていたが、一体何者なんだ? ただの興行師でないことだけは確実だが……。
だが、「朕」という人称は覚えがある。資料で見たが、東方の権力者が名乗る際に使うと言う。東方の権力者といえば……。
「竜玉公国の皇帝……楊炎龍!?」
だが、皇帝がこんなところに来るはずはない。それにあんな怪しげな男だったら何かと困る……。せいぜい詐欺師か何かだろう。
それよりも魔法陣を調べなくては。
だが、そう思って近づいた途端、首輪からサイレンが流れた。
「勅令警報、勅令警報。繭の破裂が確認されました。三十分以内に全半神、広場に集合!」
「!! ……行かなきゃ!」
それと同時に、クリフの言葉を思い出した。
『アキリーズの殺害は3日以内に行え。どんな機会を利用しても構わない。討伐中を狙うのもいい』
決断の時が刻一刻と迫っている。アダムはそう実感しながらも、広場に走って向かうのだった。