1章15話
ガイアは大量出血のためか、震える手で袖をまくった。
すると、そこにはひどくはれ上がったみみずばれがあった。明らかに触手が何本も浮かび上がっている。アダムは思わず驚いた。怖いと思ってはいけないのに、そのおぞましさは想像をはるかに超えていた。
「私は二つの神を宿す二重神性……人よりも神食が早く進み、姿にも表れた。女神二人の加護なのか……顔や首は大丈夫だったけど、ほとんど全身が『これ』に侵されているの。でも、神食された体からは神性の加護が消える。きっと、顔もこれで膨れ上がって変わっちゃう……アダムにそんなとこ、見られたくなかった。だから、アキリーズに頼んでいたの。ずっと前から」
「未来が、わかってたから……? だからってどうして!」
「アダムは私の王子様だから。好きな人に……王子様に醜い姿なんか見せたくなかった……」
アダムは震える手でガイアの彷徨う手を掴む。
「どんな姿でも構うもんか。一分、一秒でも長く生きてよ。今からでも、治療しよう!」
「わかってるくせに、そんなの、できないって」
ガイアの言う通りだとわかっている。神食が進んだ半神はイリヤと同じように処分される。皮肉なことに、首輪に殺されなかったから、わずかにこれでも寿命が延びただけ――。
「こうなるって、いつからわかってたんだ?」
「半神になって、能力を得た時。でも……頑張れた。王子様にまた会える未来が見えたから。ほんの少しの間でも、一緒にいられるってわかったから」
「また……? じゃあ、俺達は前に出会ってたのか?」
「うん……私はずっと覚えてた。一日たりとも、君を忘れたことなんてなかった。ずっと、会いたかった……」
ガイアはそっとアダムの頬に力なく触れる。
「ねえ、アダム。恥ずかしいけど、お願い……最後にキスして」
アダムの頬を涙が伝う。痛いほどにガイアの気持ちが伝わってくる。ガイアを知っていたなら、どうして気づけなかったのだろう。
こんなにも早くこの日が来るなら、どうしてもっと、誰よりも大切にできなかったんだ……?
「俺、初めてなんだ……。うまく、できるかな?」
「よかった……私も同じ」
すべての思考が遠ざかる中、アダムは恐る恐るガイアに顔を近づける。唇が重なる直前、ガイアは小さな声で、しかしはっきりと呟いた。
「モイラ……あなたの力で、彼に私の辿ってきた運命を見せて……初めてのキスの相手に」
『モイラ』? たしか、ガイアの聖遺物である運命の女神の名だ……。
全ての思考が遠ざかる中、アダムはそっと唇を重ねた。
それと同時に頭の中を電流が走った。目の前が真っ暗になり、一瞬でぱっと明るくなる。
視界が変わった。見たことも無い場所……いくつも並んだテーブルでジョッキを掲げた男たち。喧騒とタバコと肉と……アルコールの匂いがする乱雑なところ。
ここは、酒場か?
店の奥からあでやかなオレンジ色の髪をした、美しい女性が歩いてくる。
『なんだあんた、綺麗な子だね。売られてきたのかい?』
ガイアが言った通り、これはガイアの記憶……? ガイアの目から見た世界だからか、首がうなずく動きを感じた。
『このハンター団は腕がへっぽこでね。若い女に体を売らせて稼いでるのさ。あたしも随分とお勤めをさせられた。まあ、ハンターとして身売りの倍稼げるようになってからはやってないけどね。今日は自由にしてもらうために、自分の身請け金を持ってきたんだ。ほら』
そう言って女性は何個もの札束を鞄から出す。
『あたしの十年分の稼ぎだ。体を売って、聖遺物を掘り当ててどうにかこれだけになった。でも、たったのこれっぽっちだ……あいつらにピンハネされまくったからね』
『おい、そのガキにはこれから用があるんだ! 売りもんにする前に味見しねえとなぁ』
下卑た笑みを浮かべた、太った男がそう言って近づいてくる。すると女性は札束を男に向かって投げた。思わず、札束が命中した男は倒れる。
『おわっ……何すんだ、このアマ!』
金がひらひらと酒場の中を舞い散った。
『この子の身請け金だ。あたしはあと五年もかけりゃ、同じだけ稼げる。この子の自由はあたしが買った。指一本手出ししたらタダじゃおかないよ!』
見える景色が変わった。小さな部屋だ。窓からはこの城が見えている。
鏡の前でオレンジ色の髪の女性が、銀髪の少女……幼いころのガイアの髪を梳かしてやっている。
『なんで、私を助けてくれたの』
幼いガイアがそう問いかけた。
『昔の自分を助けただけさ。あたしもあんたぐらいの年で売られてきた。誰一人として、あたしを助けてくれなかったからね』
女性は緑色のリボンを鏡台から取る。
『この色、似合うんじゃないかい? あんたの目と同じ色だ』
『じゃあ、今のあなたは……』
『ママ。名前呼びだったらディアナ』
『ディアナ……今のあなたは誰が助けてあげるの?』
ディアナはガイアの髪にリボンを結びながら言った。
『うーん、そうだね。じゃあその可愛い顔で王子様に見初められて、玉の輿にでも乗っとくれ。そんで、小姑になったあたしの老後を楽にしてくれりゃあいい!』
あっはっはっ、と豪気にディアナは笑う。
『わかった。それでお城って、どうやったら行けるの? 普段は入れる?』
『ちょっと。本気にしたのかい!? 冗談だよ。ま、解放されてるのは年に一度、有神祭の時だけだ』
『有神祭……』
ガイアの目が城を捉える。
また、鏡だ。少し成長したガイアが鏡の前で、きれいなドレスを着ていた。ディアナは目を細めて言う。
『ああ可愛い、どこからどう見ても、いいところのお嬢様だよ!』
『ママ、よかったの? こんな素敵なドレス』
『いいに決まってる。今日は有神祭だからね。年に一度ぐらい、思い切りおしゃれすると気分がいいだろ?』
『でも、普段から私の服とか、たくさん買ってる……』
そう言われて、気まずそうにディアナはオレンジ色の頭をかいた。
『あー……節約するとこはしてるから! 大丈夫だよ、あともうちょっとでハンター団から自由になれるぐらい稼げる。そうなったら、ここも出てもうちょっと広いとこで一緒に暮らそう』
そして、また場面は切り替わる。
独りぼっちのガイアが城の近くを歩いている。
『迷っちゃった……リボンもなくしちゃったし。ママがくれた、大切なリボンなのに……お祭りも、始まっちゃったのに』
しゅたっと音がする。木から少年が降りてきた。
その黒髪に青い瞳の少年は、今日アダムが着た服とまったく同じ色とデザインの、少し小さいものを着ている。そして何より、顔形がよく似ていた。
『どうしたの? 泣かないで、お姫様』
『お姫様……?』
『あれ? どこかから来たお姫様じゃないの? すごく可愛いから、そうかと思っちゃった』
確かに、ドレス姿の幼いガイアはどこかのお姫様のようだった。子供なら、なおさらそう見えるだろう。
『リボンなくしちゃって』
ガイアは否定せずに、そう答えた。
『じゃあ探そう、僕のお姫様!』
幼い少年はそう言って、ガイアと手を繋いで走って行く。
『こっちから歩いてきたの?』
『うん』
『おかしいな、全然ない』
夕暮れ時になってもリボンは出てこない。だが、少年はあきらめなかった。
ふと、目をこらす。すると、岩にかかっていた。
『あった!』
少年はそう言って、リボンを拾い、ガイアに渡す。そのとき、遠くの方から声がした。
『アダム王子! どちらにいらしたのです!』
『えっ……! 王子様!?』
『ま、まずい……抜け出したの、ばれちゃった』
アダム……王子?
『そうなんだ。ねえ君、名前は?』
『ガイア』
『いい名前だね。また、会えるかな? 君の名前、父上に聞いてみるよ。それで……その……いつか僕と、結婚してください!』
アダム王子という少年は顔を赤くしながら、手を差し出した。
『変、だよね。でも僕、ずっと君を知ってた気がする。会った瞬間、どきどきして……好きになっちゃったんだ』
ガイアは思わず小さな手で、少年の手を握り返した。不思議と、心の中にあった寂しさが埋まっていく気がした。
いつもママがそばにいてくれるのに。自分のどこかにぽっかりと開いた寂しい穴が埋まるようだった。
『アダム王子! ここにいたのですか! まったく……庶民の小娘と喋るなど……』
護衛らしき男がやってきて、少年とガイアを引き離した。
『あっ、待ってよ!』
アダム……? あれは僕か? 幼いが、顔はそっくりだった。だが、ルルイエの先代王アーサーの息子はクリフのみのはず……。
映像が切り替わり、おびただしい数の流星群が流れるのが見えた。これもまた、ガイアの記憶なのか、現在なのか……困惑しそうになるが、ディアナが話しかける。
『まったく、心配したんだから』
『ごめんね、ママ』
『でも、よかったじゃないか、王子様に会えて』
『結婚の約束もした』
『どうだか。男はすぐ嘘をつく上によく忘れる生き物だからね』
『そっか……』
しゅんとした声でガイアは言う。
『ごめんごめん、ついおばさんになると現実的になっちまうのさ。子供同士のことだしね。でも、可能性はゼロじゃない』
『ほんと?』
『ああ、忘れられないように、何度も何度もしつこく会ってアプローチすればいい。やりすぎぐらいがちょうどいいんだ』
『じゃあ頑張る。王子様……素敵だし、優しい人だった』
『わかる。あの伝説の剣聖、アーサーって王様の息子だからね。アーサー王の統治になってから、貧しいながらもいろんなものがマシなんだ。あの人は不器用だけど、心ある政治をする。しかも普通は王族同士の子どもを跡取りにするのに、異国で出会った心優しい『風語り』の娘との間に生まれた子どもを選んだそうじゃないか』
『話が難しい』
『まあ、優しい人の息子だし、よく似て優しいだろってことさ。それに家柄にこだわらないからあんたにもチャンスがあるかもね!』
『……じゃあ、いつかまた会いに行く。優しい王子様に』
激しい雨が外に降る中、酒場で怒鳴り声と、殴打する音が聞こえた。
『ディアナ、お前の娘に稼がせろよ、そしたらお前もこいつも自由にしてやる!』
ディアナの頬は殴られ、赤く腫れあがっている。だが、男を激しくにらみつけて反論した。
『何言ってんだ! ガイア、そんな奴らの言うこと聞くんじゃない! その子を今すぐ放しな!』
『魔物があふれかえってから、ろくに聖遺物ハントに行けなくて、俺ら困ってんだよ。懇意にしてくれてる『お偉いさん』のストレスが溜まってる。えらくガイアのことが気に入っちまったみたいだ。随分と大金をはたいてくれるらしい。今はやりの『半神被検体』になるのと同じような額だ』
『ガイアにはそんなことをさせない! あたしが何のためにこれまで働いてきたと思ってる!』
だが、またディアナは殴られる。そして胸元をハンターの男のブーツでにじり踏まれた。
『ママ、もういい。私、この人の言う通りにする……』
『ダメだよ! あんたはあたしのお姫様なんだ! 汚いことなんかさせやしない、一生何不自由なく、幸せに暮らすんだよ!』
『はっはっはっ。泣かせる親子愛だな! いいぜ、一つ提案がある。お前、魔物の囮になれ。そうしたら、娘は助けてやる』
『そんなことで、いいのかい? だったらやってやるよ!』
ディアナの目に希望のような光が灯る。ガイアは腕の拘束を解かれ、ディアナに駆け寄った。
『ママ、ダメ! そんなところに行ったら死んじゃうわ!』
『大丈夫。あたしは生きて必ず、帰るから』
雨音が強くなっていく……。
そしてまた、視界が切り替わる。同じ酒場だが、昼間だ。
『仕方ねえだろ、魔物にやられちまったんだから』
テーブルの上にはディアナがつけていた、ハンティング用の腰ポーチが置いてある。
『死体は……?』
『はあ? 持って帰るわきゃねえだろ。女の死体なんざなんの金にもならねえ。生きてたら稼げるけどな!』
がはははは、と嘲笑する声が響く。
『それでガイア。お前の母親の分の身請け金を払ってくれ』
『ママはとっくの昔に返した。なのにあんたたちは、私を脅しに使って逃げられないようにして、何年も働かせた!』
『何言ってるかわかんねえな。どうする? つっても身売りしてもらうしかねえが』
ガイアは立ち上がり、駆け出して行った。
『ママに言われた……。何があっても、体だけは売っちゃいけないって。でも、どうしたら……? あいつらは、どこまでも追ってくる』
ガイアの目に『半神被検体募集』の張り紙が目に入る。
『国が募集している……。王様が死んで、今はあの王子様が統治しているはず』
ガイアは走り続ける。
『お城に、行かなきゃ。王子様に会えば、助けてくれるかも』
そして……次の場面は玉座になる。
『助かるよ。自ら負担の大きい二重神性の生成施術を受けてくれるなんて。君の献身に感謝する。あの女神たちはどうやら、女性以外受け付けないようだから』
白い服をまとい、玉座で優雅に組んでいたのは……クリフだった。
『王子様……じゃない……? アダムはどこ?』
クリフはその言葉を聞き、表情を凍らせる。
『あれ? おかしいな……全部『変えた』はずなのに』
『私の王子様に会わせて……! 一体どこにいるの?』
『まあいいや。内密に頼むよ。さもないと、君はアダムに会う前に死ぬことになるだろう』
徐々にクリフが近づいてくる。そして彼の触手が一気に背中から生え出て、ガイアの首にまきついた。
『うっ……』
『わかったかい? さあ。一日も早く、僕の役に立ってくれ。未来視と大地変動を可能にした、二重神性の女神として』
なぜ? 僕が王子……? じゃあ、クリフは一体何なんだ!?
アダムの脳内に疑問が去来する。だが、徐々に潮が引くように、ガイアが見せてくれた記憶の臓が薄れていく――。




