1章10話
深く深く……意識がどこまでも深く潜っていく。
湖の底にこのまま沈み込んでいくんだろうか? いや……わからない。
ノーデンスの意識もここのどこかにあるんだろうか? 槍に残ったものとはまた別のもの……? そして、ヨグ・ソトース。
その名前を頭に思い浮かべると、とてつもなく切なくなり、全身が震える。
水の中で目を開けると、どこか透けた、三叉になった金の槍を持ち、蒼い甲冑を着た男が目の前に現れる。
人間離れした美しい顔だ……。そう思う。そして、槍を持っているということは。そうか、折れた刃先は元々、こんなふうになっていたのか。
「ノー……デンス」
距離の近さ、そして彼には右手がないことに驚く。ふと、ノーデンスが『利き手』は使えないと言っていたことを思い出す。
「現身よ、よう来たな……。そうまでして、儂を知りたいか? いや……知りたいのはヨグ・ソトースの方かの」
水の中で話すことはできない。アダムはうなずくべきか、違うと言うべきか迷った。
「気ぃ遣わんでいい。お前の中にいる儂と、この儂は少し違う。なんつーか、ゲームのベータ版とマスター版ぐらい違う。言うとくけど、あいつがベータ版な。儂はマスター版で、あいつよりかなり偉い」
意味不明なたとえだ。有神時代の何かだろうか?
「今の子は知らんか。若いころはよう、人間と遊んどったんじゃけど。まあともかく、あいつは儂の聖遺物に残った一部で、完全ではない。記憶もまばら……ただ、半神生成のため、善神という役目のみを果たすことに特化して絞られた『果実の特別うまいとこ』じゃ。甘~く優しく、酸っぱいとこは知らん」
ノーデンスの欠けた腕の傷は痛々しかった。
『うーん、経緯は知らんけど、そなた、儂の『酸っぱいとこ』を知ったらちょっと強くなれると思って、ここにきたんじゃろ? 適合率を高めるということはつまり、神に触れて知ることじゃからな。そなたは異能にも目覚めておらん。半神としてはかなり不安定な状態ゆえ、わかるぞ。……ああ、ちなみに時の神、ヨグ・ソトースはここにはおらんぞ」
アダムは思わず、がっかりとしてしまった。
『あいつは儂らを殺した超絶憎まれっ子。さすがにルームシェアはお断りじゃ。それに、わざわざ探さんでもあいつから来てくれるわ。良くも悪くも、ヨグ・ソトースはそなたを決して忘れん。過去、現在、未来、全ての時間軸を越えて、どこまでも追ってくるだろう。そなたの魂が、生きておるだけでな。体内に埋め込んだ受肉結晶で奴との繋がりもできてしまったことじゃ』
どこまでも追ってくる。その言葉が、なぜか不思議と納得できる気がした。ヨグ・ソトースはそういった存在なのだと、アダムは当たり前のように受け入れる。
なぜなら、自分が何者かもわからないのに、彼(彼女か?)の目がずっと、自分を見つめていたような気がしたからだ。きっと……記憶をなくす前からずっと。
『というわけじゃ。どうする? 儂の『すっぱいとこ』を知ってみるか? そなたにとってよいかどうかは知らんけど』
強くなれるなら……そう思ってうなずく。
『今より、討伐限界数に近づくのが速くなるぞ。なんちゅーか、便利なアプリ入れたらバッテリーの減りがえげつなく速くなるみたいな感じじゃけど、よいか?』
よくわからない……。だが、これから戦っていくのには必要だろう。
多少のリスクは仕方ない。それに、ヴァルトロが言うように気にしたところで止められることではない。一人でも多くの人を助けて、その中で自分を知らないと。
アダムはもう一度うなずいた。
『フ……よいじゃろう。じゃあ、ちょっと失敬』
透明なノーデンスがアダムをそっと抱きしめる。精神体だから、特に何も触れられているようには感じないが、暖かいような気がした。
『ぬくもりを感じるか? こうして触れることによって、儂の記憶をそなたに送れる。この『酸っぱいの』をどう活かせるかはお前次第じゃが……ほら、目を閉じろ。そうしたら、儂の記憶が浮かんでくる』
ザザ……ザザ……と波音が聞こえた。浜辺に座ったノーデンスの周りには小さな子供達がいる。顔は見えないが、みんな楽しそうに、ノーデンスの話を聞いて笑っている。
ザザ……ザザ……という波音と共にノーデンスは巨大な全身触手の生えた化け物と戦っている。見覚えのある色の触手……。クリフの背中から這い出るものと同じだ!
じゃあ、これはクトゥルー? クトゥルーの触手がノーデンスに勢いよく伸びるが、好戦的な表情でノーデンスは金の槍に触手を巻き付けた。
映像がまた、切り替わる。右腕を失って、傷まみれになったノーデンスが岩場にうちつけられ、血まみれで苦し気にうずくまっている。さっきの戦いのせいなのか……?
だが、誰もノーデンスを助けようとしない。人々は彼を恐れるようにして避け、目が合わないようにして通り過ぎる。
神様だから……? 人間は『善神』であるノーデンスがいいことをしても、当然だと思っていたのか?
片腕になったノーデンスは折れた槍を杖のように地面に附き、独りぼっちで砂浜をさびしげに歩く。姿は若く美しい青年でも、腰を曲げて歩くその姿は老人のようだった。
ああ、この人は疲れ切ってしまったんだ……。無条件に善を為し続けることに。
ひどい……。誰か一人ぐらい、感謝してあげればよかったのに。
『それはおこがましいぞ、アダム。善行というものはどれも押しつけなんじゃ。そなたもわかっておるじゃろ?』
頭の中に声が響く。思えば、ノーデンスに言葉が届くのだろうか?
確かに、人を助けるのに見返りは求めちゃいけない。でも、『ありがとう』ぐらいは欲しいと思うものなんじゃないか?
『まあ、そこが『酸っぱいとこ』なんじゃよ。神様じゃし、求めちゃいけないことはようわかっとるんじゃけどな~』
それでもあなたは、『善神』であろうとしたんだね、ノーデンス? そして今も尚、善を為そうとしている。現身となった俺のために、生き残ろうと必死な人間のために。
『おお、大体正解じゃ。そう……善神とは常に無償で限りのない愛を人に注ぐもの。ようは与えられるだけ与えろ、ケチケチすなって話じゃよ。では、授業はここまで。シーユーなんちゃらウィーク~』
頭の中にいる光のノーデンスと同じで、やっぱり最後の締めが変だ。思わず、呆れてしまう。
でも、話していると温かくて安心した。俺も、いつか人にこんな温かさをあたえられるだろうか……? 今の対話で何かが、本当に変わる……?
そんなことを考えているうちに、体が浮き上がっていくのを感じた。上へ……上へ……どこまでも……。
「ぶはっ……!」
「おっせえな。神との対話なんか5秒で済ませろよ」
湖から顔をあげた瞬間にヴァルトロに怒られた。
「どれぐらい潜ってたの?」
「5分」
「それぐらい待ってよ……。5秒のほうがおかしいだろ」
アダムは湖から這い上がる。体が重く、全身びしょ濡れだから寒い。湖に入るなんて思っていなかったから、替えの服なんか持ってきてない……。そう思って焦る。
だが、ふと確認のためにマリアに声をかけた。
「マリア、現在の適合率は?」
『こんにちは、アダム。ノーデンスとの適合率は45パーセント。対話が成功したようです。おめでとうございます』
「よかった……」
ヴァルトロはフン、と鼻を鳴らして言う。
「そんなに長々と話せば当然だろ」
「ヴァルトロが短すぎるんだって。5秒って何だよ」
「マドゥーサは『偽善はクソ、つまりノーデンスは死ね』しか言ってなかった。俺もそういう奴は嫌いだからすぐに話がついただけ」
「そう……マドゥーサがノーデンスと色々あったっていうの本当なんだな。はっ、はっ……はっくしょん!」
「おい、まき散らすなよ!
ヴァルトロは苛立ったように立ち上がる。ふと見ると、ミミズ腫れのようなものがまくった腕に浮き出ていると気づいた。
「大丈夫? それ、けが……?」
ヴァルトロは自分の腕を見て言う。
「神食の影響だ。体の中で触手が暴れてる。まあだんだん引いてくるだろ。それより、ヨグ・ソトースのほうは?」
「ここにはいないって。でも、ノーデンスとは対話できたけど」
ヴァルトロをそれを聞いて、あからさまにがっかりした顔をした。
「あーあ、無駄骨かよ……。ヨグ・ソトースのことはよくわからねえが、ここにはすべての神が集まってくるもんだと思ってた」
「ごめん……ヴァルトロ、せっかく待っててくれたのに」
「は? あくまでお前は後ろを守る盾。だから待ってただけだ」
「そうなんだ。じゃあ……盾にはなれてるってこと!?」
「喜ぶな。ゴミからカスに昇格した程度だぞ」
そう言いながら、ヴァルトロは先を歩いて行った。アダムはついていきながら声をかける。
「でも、ヨグ・ソトースはきっと俺を追いかけてくるって。そのときに、さっきノーデンスとしたみたいに対話できれば、能力を強くできるかも。そうなったら、お礼にいつか、君の望むことをするよ」
「は? そんなのお前にメリットねえだろ。お気遣いいただかなくても、オレがお前から能力奪ってやってやる」
「いや、グレンさんを助けるためだけじゃない。世界がこうなっちゃう前に戻すんだ。そうしたら、魔物も襲って来ないし、誰も半神にならない。もう……誰も死ななくて済む」
ヴァルトロは驚いたように振り返った。
「お前は今、時間を戻せたとしてもたったの一瞬だろ? 相手から来てくれるったって、そこまで強い力が手に入る保証なんかない。まず、なんでヨグ・ソトースとお前に繋がりがあるかもわかんねえのに」
「うん、わからないよ。でも……頑張りたいんだ、みんなのために! 俺は皆を助けたい、優しくしたい」
ヴァルトロはうんざりしたように頭をかきながら言う。
「はっ、偽善者が。そんな大役、雑魚のお前に任せられるかよ。ばーか」
だが、その口元は笑い、どこか楽しげだった。