プロローグ
「チェック……メイト!」
襤褸のようなフードを目深にかぶった一人の少年が、チェスの盤上で漆黒のクイーンを操り、白亜のキングの首を狩り取った。
少年の手はいまだ畏怖で震えていたが、勝利の証であるキングの駒を離すまいと強く、かたく握りしめる。
勝った……勝ったんだ。
だが、そう思っても言葉はいっこうに唇を割って出てくることはない。想像を絶する恐怖によって体の奥が底冷えし、そのまま血の流れが停滞していくようだった。
なぜなら少年と相対する敗者は、禍々しく湿った無数の触手に全身が覆われた異形の邪神であり、夢見の創生神、クトゥルー。
王の玉座を埋め尽くすほどの巨大な体の中には百の心臓が絶えず鼓動している。それを示すように、触手の一つ一つが常にうごめき、呼吸をしている。
一度見たら忘れ得ぬ、グロテスクで恐ろしげな姿の神は敗北してもなお笑っていた。口らしき部分は触手に埋もれきっているが、は虫類のような瞳は体の中央あたりに二つある。それが細められ、元々開かれていた瞳孔がゆっくりと閉じていく。
そして体のどこからか、地に響いていくような低い声を発した。
「ほう……。ゲームの終わりというのはどうにも退屈なものよ」
クトゥルーはこのゲームに使っていた細い触手の一つを操り、戦いを終えた駒の一つを持ち上げては戯れる。少年は決死の想いで言葉を発した。
「僕の勝ちだ……。願いを叶えろ、夢見の邪神クトゥルー!」
するとクトゥルーは別の触手をそろりと伸ばし、少年の頬をゆっくりとなでた。
その氷のような冷たさに、少年はぞくりと背をふるわせる。だが、彼の瞳にたじろぎは一切無い。クトゥルーは少年を試すように言う。
「覚悟はできているか、人の子よ」
少年は無言でうなずく。すると、クトゥルーの無数の触手の合間から、地の底のように低い声が響いた。
「いいだろう。この遊戯、一万年の眠りから醒まされただけの価値はあったぞ。貴様は我に何を望む」
クトゥルーの触手がさらに少年の腕に、細い首へとからみついていく。少年は決意を込め、言い放つ。
「願いはこの賭けの前に伝えた通り。早く僕の存在をすべて消し去り、僕を生まれ変わらせろ、クトゥルー・グレート・オールドワン!」
クトゥルーが盟約を守る確証などない。このまま、殺されるかもしれない。だが少年は覚悟を持って、頬をなぞっていく神の触手を握り締める。それがまるで、細くかよわい両者の信頼の糸であるかのように。
答えの代わりに、クトゥルーの無数の触手が伸びて少年へと勢いよく迫ってくる。
ああ、これできっと盟約は果たされるんだ……。
頭で理解しながらも少年は恐怖に耐え切れず、目を閉じて救いを求めて祈ろうとした。
だが、一体何に祈ればいいかわからない。神か? それとも、遠い先祖……?
誰か、誰か。そう願うのに、何の存在も思い浮かばない。瞼の奥には深い闇だけが広がり続ける。無……。
だって僕は……誰にも祈りの言葉を、祈る相手の存在を教えてもらえなかった。
頼る者も、愛してくれる者も、短い人生の中でただ一人として現れなかったのだから。
それでも……。
『待ってて。いつか君をここから出してあげる』
脳裏に唯一浮かんだ顔があった。いつしか牢屋越しに伸ばした手を、今にも泣きだしそうな顔で握ってくれた、君だけは。
お願い。どうかもう一度その手を伸ばして、僕を二度と離さないで。たとえ裏切られても、見捨てられても、彼は少年にとって唯一の希望であり続けた。
少年は目を閉じたまま、空中に青白く、ひどく痩せた手を彷徨わせる。
「ねえ、×××。もし生まれ変わったら、今度こそ僕を闇の中から……」
だが、切なる願いを口にし終える前に、邪神の触手は彼の全身を四方八方から一気に貫き刺した。
「ぐっ!! あがぁっーーー!!!」
串刺しにされた少年は、体中から鮮血を噴き出しながら倒れた。
無数の触手が体を貫き皮下へと潜りながら体内を弄ぶようにうごめく。そして少年の脳髄を目指して首の上までぬらりと這い上る。
その一つが、少年の涙と血が伝い落ちる頬の下を無感情に通り過ぎていった――。