浮世の子犬は (潮と木島)
新年会だなんだと、年中行事を細やかに成し遂げなくてはいけないと思い込んでいるお偉方の付き合いから解放されたのは、正月も六日のことだった。
おまけに秘書の中田が「明日は七草粥なので」などというからまた下っ端どもがぞろぞろと事務所に出入りするのだろう。
うんざりしてソファに沈没しているとドアががつんと蹴り開けられた。
「さーくらちゃん、あーそーぼ!」
底抜けに明るい声に跳ね起きる。
ダンボールを抱えた榊原潮が入ってくるなり、ガキみたいな顔でにこにこ笑うのを睨む。
「誰がさくらちゃんだ、誰が」
「いややな。自分の名前忘れたんか、木島さんは」
威嚇してもちっとも答えない横柄な堅気のガキは、さらりと流してダンボールを突き出した。
「凧揚げすんねん」
「誰が」
「俺と木島さんと、中田さんとジローと黒田とぎっちゃんと……」
事務所に出入りしている人間の名前を際限なく挙げていく潮の頭を叩いて、中田を呼んだ。
「どうしました?」
「お前、凧揚げに賛同したのか?」
「だって、こんなに尻尾振ってアピールする子犬を無碍には出来ないでしょう?」
中田はあっさりとそういい、「子犬」はやったーと両手を上げて喜んだ。なんてこった。中田が頷いたということは、この事務所の全員が頷いたのと同じことだ。
ボスは俺だが、かなしいかな、俺は非常事態にしか発言力を持たない。潮はそれを「大阪のおとんやな!」と表現した。何でも差配するのは「おかん」の仕事なのだそうだ。
「くそう! 俺は今日は寝て過ごすんだよ。そう決めてるんだ!」
「何言ってるんですか。いい天気なんだから外に出てください。たまには青空も見ないと」
「うるさい! 年末は年末で餅つきに駆り出され、正月には挨拶回りだの新年会だのしやがって、明日は七草だとか言ってまた騒ぐ気だろう! 一日ぐらい寝かせやがれ!」
力一杯怒鳴ったというのに。
「あ、そうなんですよ、潮さん。明日は七草粥するんでよかったら食べにいらっしゃい。昼に炊き出ししますから」
「ほんまに! やったあ。俺、なんか手伝うことある?」
中田と潮はあっさりと無視しやがった。そっちがそのつもりならとソファに寝転び目を閉じれば、急に腹の上が重くなった。
何だと目を開ければ潮が跨っていて。
「木島さん、寝たら引ん剥くで?」
「は?」
「だってこれ、据え膳ってやつと違うん?」
違うだろ、と突っ込むと中田は至極真面目な顔で頷いた。
「そうですよ。それはまな板の上の鯉というものです」
「おい!」
「木島さんの背中って私でも見たことありませんからね。チャンスがあるならこれ幸いと」
「馬鹿野郎! 見せもんじゃねえぞ!」
潮は俺の背中の彫り物を見たがっているが、そう簡単に見せてたまるかというもんだ。怒鳴ると潮は腹の上に座ったまま小首を傾げた。
「ほな、凧揚げする?」
「そうですね。木島さん、日に当たらないからもやしっ子ですしね」
「中田さんももやしっ子のボスなんて嫌やんな。あんな、俺、凧に絵描いてん。せやから見てえな?」
「……わかったよ。わかったから退け」
引きずり出された先の青空は澄んで雲一つなく、日差しは温かい。少し冷たい風に乗って高く高く上がった潮の凧はくるくると回った。その度に若いもんから喚声が上がる。猫背を伸ばして見上げた先には中田が器用に連凧を揚げていて、感心して眺めていると潮に糸巻きを手渡された。
「何だ、こりゃ」
「蝉凧」
示す指の先には小さい蝉の形をした凧がびぃいいいいんと低音で鳴っている。なるほど、鳴くのか。
「兄弟子がくれてん。しもとくより外に出したれ、いうてさ。よう飛ぶなあ」
青空に薄茶の蝉が映える。それよりも高く上がっているのは潮の描いた「巴御前」だ。
潮の中でいい女にランキングされているのだという。ただの武者絵を描いてもつまらん、どうせなら別嬪さんがええもんという言い草が笑える。
気が付けば近所のガキどもまで集まっていて、潮と転げまわっている上に何やら眼鏡のサラリーマンが中田と意気投合していて。
「……俺たちは本当にやくざなのか……?」
あんまりの青空に目眩を覚えた。