浮世の桜の (潮と木島)
潮がのた打ち回るのを、木島は冷めた目で見た。だがいい加減、腹も立ってくるもので。
「お前、笑い過ぎ」
「ごめっ……、ふっ、あははははははは。これが笑わずにいられるか! あっはははは」
来客用のソファを我が物にして、潮は腹を抱えて豪快に笑った。木島が眉間に深く、深く、しわを刻む。
「殺すぞ……?」
どすの利いた声で脅すも、それぐらいで怯む様な榊原潮ではない。木島がヤクザの割に荒事を好まないことも知っている。それ以前に判明した事実が、潮の顔を緩める。
「あ~、ごめんなあ。久々にこんだけ笑ったわあ。そうかぁ、木島さんはさっちゃんかあ」
「さっちゃんとかいうな」
「櫻チャンの方がええんか?やけど、木島櫻とは恐れ入りました」
「うるさい!似合わない名前で悪かったな!」
噛み付くように言って、煙草に火を点けると潮は柔らかく微笑んだ。
「似合ってるで? いい名前やんか」
「あれだけ笑っておいてよく言うな?」
下の名前を問われてしばらくはぐらかしていたものの、あまりにしつこさに白状すると抱腹絶倒とはまさにこのことであったかと言わんばかりに笑われたのである。木島はご機嫌斜めどころか捩じれの位置だ。
「やって、あんたが名前を言うのにあんだけ溜め渋るさかいによ。どんだけ珍妙珍奇な名前なんかと思うとったら、「櫻」やろ? 女みたいとか、そんなん気にするなんて、ホンマにあんた、可愛すぎやで!」
「馬鹿野郎っ、大の大人に向かって可愛いとかいうな!」
「櫻チャンは繊細やねんね~」
怒声も聞き流して、潮はにこにことしている。木島はがっくりと肩を落とした。
潮も木島が怒鳴ったぐらいで怯えるような性格ならヤクザの事務所に日参したりしないのである。潮は木島がまともに商いをしている方ではなく、最初から組事務所の方を訪れ、暇を見つけては通い、木島がいないときは待っていた。
遠慮のない関西弁で睨まれることもあるが、愛想がいいのでいつの間にか下っ端連中に溶け込んでしまっている。同年代の連中と品のない話で盛り上がっていたかと思うと、帰ってきた木島を見るなり飛びつくので、潮は「木島のもの」と認識されている。
さし当たってゲイと間違われている訳ではないから問題はない。むしろ木島に遠慮して変な遊びに誘われないだけ、潮に利が有るだろう。
ドアをノックされるのに顔を上げると、事務員が「お客さまです」とだけ言った。潮が頷いて立ち上がる。
「ほな、今日は帰るわ」
「もう来るな」
「木島さんはお子様やなあ。あかんでぇ、そんなに天邪鬼なことばっかし言うてたら」
ほなね、とひらひらと手を振って、潮は部屋を飛び出した。
それからしばらく木島は潮を見なかった。
「坊主、来ませんねえ」
木島の秘書のようなことをしている中田が呟き、木島は事務所が静かなことに気付いた。
「潮のことか?」
「そうですよ。ほとんど毎日顔を出してたのに、ここ一週間ばかし来ないでしょう。若いのが張り合いがないのか、静かになっちゃって遣り難いったらありゃしない」
「毒されているな」
「木島さん、何か聞いてます?」
「何も。あいつがどこで何をしようと俺には関係ないしな。それに、もう来るなといった」
「それはいつも言ってるじゃないですか。坊主が聞いたことはないでしょうに」
確かに顔を見る度に「もう来るな」といい、その度に潮は「ほな、またね」と笑うのだ。
「厭きたんだろう。あのぐらいの子供はすぐに厭きて、違うもんに夢中になるもんだ」
言いながら自分で、そんなに厭きっぽい性分の今時の若者なら職人の世界に弟子入りもしないだろうとも思う。
「そんなタマには見えませんでしたがねえ」
じゃあどんなタマに見えるんだと、木島は問おうとして辞めた。何となく、墓穴を掘りそうな気がする。中田は飄々とした顔で木島の揚げ足を取るのが上手いのだ。
「ちっ、そんなに気になるなら若いのに聞いてみろよ」
潮は若い癖に妙に懐が深いから、若い者に好かれている。中田は口元を緩めた。
「木島さんが知らないことをあいつらが知っているわけないでしょう?」
木島は何かを言おうとして、中田の顔に浮かぶ色に口を噤んだ。下手なことをいうと嬲られる。木島は非常事態のときにしか権力を発揮出来ない、二十も年下の潮にからかわれるような情けないやくざなのである。それを口惜しく思うが、中田に言わせると、上に立つ人間はそれぐらいでいいのだという。
「何、拗ねてんの?」
唐突に声を掛けられて、驚いて振り返ると戸口に潮が立っていた。中田が笑いながら退室し、その擦れ違い様に潮の肩を叩いた。
「なあ、木島さん、どしたの?」
「お前、何しに来た」
睨むと潮は笑顔でソファにどかりと座って、担いでいた筒を下ろした。
「何や~、俺が来うへんかったさかい、淋しかったんか~?」
木島が頬を染めて怒鳴る前に、「な~んてな」と独りごちて、潮は木島を手招きした。
「早う、こっちおいでや」
「何だよ。いきなり来たと思ったら……」
愚痴を零そうとして、潮の手の中のそれに言葉を失う。潮は満足げに笑った。
「な、これ木島さんに、思うて作ったんやで?」
「──俺に?」
問い返す声が擦れた気がして、木島は顔を歪めた。何だか頬が熱い気がする。
潮が筒から取り出したのは一枚の和紙だ。
写実性を損なわない程度にパターン化された桜が一面に、柔らかい色彩でグラデーションをつけて広がる。
「これ、版画か……?」
「そ。浮世絵。錦絵って言うた方がええかな。俺が作ったの。木島さんにあげようと思ってな。版木八枚も彫ってしもうたわ」
構成は師匠にチェック入れてもろうたけどな~、と軽く言って、それから潮はにっこりとした。
「こんなん好きやろ?」
「は? 馬鹿!」
「そうか~、やっぱり木島さんは乙女チックやと思うてたよ。柔らかい感じ出すのに苦労してんで~。主版抜いて、七回色重ねてなあ。ちょっとづつ色合い変えて試してよ。予定より時間かかったけど、花見には間におうたし、喜んでもらえて嬉しいなあ」
にこにこと無邪気に笑う。そのまま木島の手を引いて、窓辺に立たせた。
「蛍光灯やのうてな、太陽の光で見てみいや。プリンターから出てくるのと違うてよ、顔料に凹凸があるやろ。そやから光の当て方で、色味が変わる。人肌と同じや」
な、と同意を求められて、木島は我に返った。見惚れてしまっていた自分が気まずい。
陽光にきらきらと顔料が輝くのが美しい。
「確かに、印刷とは違うな」
「気に入った?」
あまりにも至近距離から顔を覗き込まれて、しかもその顔があまりにも真摯で、無邪気な笑顔だったから、木島は誤魔化せずに頷いた。
「ああ」
「良かった。そんなら俺も満足や。あんな、木島さん。俺らは桜の木ぃ、彫ってるねん。浮世絵に使う版木は桜や。そやから俺らにとって桜は一等大事。せやからええ名前や、言うたんは、ほんまやで?」
にっこりと蕩らし込むように微笑まれて、木島は自分の顔が赤くなるのを抑えようと、顔を歪めて無駄な努力をした。
もしかすると物凄く嬉しいかも知れない。
自分の気持ちが本当だと、それを証明する為だけにこんな綺麗なものを作り上げてくる。年を経るとこういうわかりやすいことに心を動かされるのだなあと木島は思い、それから自分が単純な所為かと思い直した。
「手間、かかったろ?」
「うん? 俺、腕がいいからなあ。色摺りは七回しかしてへんし、ちゃんとええ感じにできたのはこれ一枚だけやからね。そんなに大したことはしてへんよ。ものによったら二十回ほど色重ねて、二百枚ほど摺らんとあかんのもあるからね。それに比べたらなンてこたああらへん」
「ありがたく、もらっとく」
「うん。いや~、木島さんがな、あんまり可愛いから」
「は?」
「櫻って名前がホンマに嫌やったら改名でもなんなりしたらええやん? せやけどせえへんということは、そこそこ気に入っているんやろ。そやったら堂々としとったらええのに、変に恥らうさかいに、俺、困ってしまうわ」
きゃっと笑う潮を睨もうとして、木島は無駄なことだと止めた。
「で、どうして戸惑いが絵になるんだ?」
「俺の木島さんのイメージ」
「はあ? こんな柔らかいイメージなのか?」
俺はヤクザだぞ、と唸る木島に潮は頷いた。
「わかってる。そんなにヤクザヤクザって自分で連呼せんでもええって。桜は柔らかいけどなあ、ぞっとするほど綺麗やし。潔いし。桜の木の下にはなんとやら、とも言うしな?」
なんか口説いてるみたいやなあ、とからからと笑って、潮は立ち上がった。
「ほな、今日はこれでお暇するわ。師匠に手伝え、言われとるでな」
「仕事サボってたのか?」
「あはは。ちゃうちゃう。倉庫の片付けや。仕事はちゃんとしとった。合間にそれ作ってたから、ここに来れへんかったけど。ほな、また来るし、皆にもよろしゅう!」
空になった筒を背負って、潮は足取り軽く飛び出した。
「……ちくしょう。覚えてろよ…」
今日も一方的にテンポに翻弄された木島は口惜しがり、それから苦く笑って、煙草を銜えた。
机の上に、桜が広がっている。