排気音 (久我/市川)
短編「海」の久我と市川です。とても短い。
久我さんのポルシェは、とっても我が儘だ。
市川は久我の車をじっと見詰めた。
中古のそれは久我にあまり大事にされていないようで表面が汚れている。その上、中のシートには焦げた痕があった。久我が煙草でも落としたのかそれとも前の持ち主の所為なのかはわからないが、少なくとも「高級車」という扱いではない。
ただ中古ながらエンジンは上等で、低く上品に唸っていた。この排気音は癖があるので近付いてくるとわかる。市川はこの白いポルシェが好きだったし、彼も市川を好いていてくれるようだった。
そう例えるならこの車は男性なのだ。
「市川、乗れ」
仏頂面で久我が言う。やはり年代ものであるので彼の愛車は電気系統が弱く、何かあるとすぐにストライキを起こす。ただ機嫌がいいときにはとても快適に走り、エンジン音も綺麗だ。
「僕にはとってもいい子ですけれどね?」
市川は助手席で首を傾げた。久我がいつもエンストしただのライトの配線がいかれただの愚痴っているのだが、市川が乗っているときにトラブルが起こったことはない。
「車をいい子なんていうな」
久我が眉間を寄せる。市川は器物を丁寧に扱う。それこそ人格があるようにだ。洗濯機にも「頑張って回ってはるねえ」と労ったり、ポルシェに向かって「いい子やね」と宥めたりする。ベランダで育てている植物たちにはそれ以上で、褒めたり叱ったりとまるで自分の子供のようである。
「……だがお前が乗っているとこいつの機嫌がいいのは事実だからな」
久我はアクセルを踏み、溜め息を漏らした。ポルシェは高速道路が好きだ。スピードを出してどこまでも走っていく。直線道路の多い欧州車はそういう風に造られたのかも知れない。だが何度も走っては止まり、走っては止まりを繰り返さざるをえない京都の街中の走行ではいきなりエンジンを停止させたりする。中古であるし、買ったときの値段が破格だったのだから仕方がないといえば仕方がないのだが、その度にJAFに連絡するのに疲れ、久我はどうしても遅刻できないときに市川を隣に乗せて走ることにした。おまじないのようなものなのだが、なかなかに成功している。
久我としてはそんな非科学的なことをするのは嫌なのだが、それ以上に自分の都合で市川を振り回しているという自覚がある。
「まったく! 次に買うときは新車だな」
「僕はこの子好きですよ。だって久我さんだってすぐわかりますし」
吐き捨てる久我の隣で市川が微笑む。
「それに久我さんとあちこちお出掛けできて、楽しいじゃないですか」
買い換えられるのはもう少し先になりそうだった。