鸞
少し前(平成)の時代設定です
「昨日、井関が死にました」
少年はそう告げて、一旦口を噤んだ。
まだ子供ともいえそうな丸みを残した輪郭。喪服なのか上下とも黒のスーツに身を包んで、臆する様子も無くすっと立っている。
目の前には関西でも一二を争う暴力団の会長が座っているというのに。
「そうか、まあ、掛けな」
近藤は自分の対面のソファを勧めたが、青年は首を横に振った。
「長居をするつもりはない。葬式までに帰りたいし、ただあんたにこれを渡しに来ただけだから」
目の前に突き出されたのは黒鞘の日本刀。
それは見覚えのあるものだった。
装飾は少なく、無骨な重厚さがある。かつて近藤が「親父」と呼んだ人間の持ち物で、どれだけ欲しても手に入らなかったものだ。
「あの人は、これを俺にと言ったか?」
「いいや。でもあんたがこれを欲しがっているのは知っている」
そうだった。近藤はずっとこの刀が欲しかった。だが井関は決して手放さず、「古いヤクザはいらねえやなあ」と一人でどこかへ往ってしまった。確かに仁義を重んじることは「古い」時代になろうとしていたのだが。
大正生まれの井関は侠気のある男、いや侠気そのものだった。
「お前は欲しくないのか?」
「……あんたが要らないなら貰って帰る」
少年は初めて表情を歪ませたが、眉間が少し寄っただけで注視していなければわからなかっただろう。
「正直言えば、じいさまのものは何でも欲しい。でも決めるのはこいつ自身だ。縁があればいずれ俺のところに来るだろう」
その目があんまりにも純粋に悲しみに暮れていたので、近藤は彼のぶっきら棒な口調を咎めることはしなかった。
「──じいさまはあんたにこれをやるとは言わなかった。でも、最後まであんたのことを気にしてた。だからあんたのものになるのが一番いいんだと思う。……登録許可証は、見つからなかったけど」
「ああ、別にいらん。そんなものがいるのは堅気さんだけだ」
喉で笑うと少年も口元を歪めたが、すぐに目も一緒に潤みだしてしまった。
「じいさまは、一昨日の晩まで明瞭に意識を保ってた。夜に昏睡して、昨日の朝の六時二十四分に死んだ。医者は年だから仕方ないって、九十七歳だ。……喪主は宮本の大旦那がするといってる。葬儀は二時から、神式だ。俺は、じいさまの背中の鳥が好きだった」
ぼろぼろと涙がこぼれるのに表情は人形のように揺るがない。性別も年齢も、ちゃんと生きているのかさえも曖昧な存在はひどく背徳的な香りをさせていた。
まるで触れてはいけないもののように。
そして禁忌に触れたいと思うのが人間だ。
「……お前さんは」
近藤は自分でも何を言おうとしたのかわからなかった。だから口を閉じ、ただ少年が泣くのを、息を詰めて見た。
ややあって少年は不快そうに近藤を睨めつけた。
「ヤクザは嫌いだ。いつも俺の泣くのを邪魔をする」
「いつも? 親父がか?」
「じいさまはそんなことせん!」
近藤は井関のことを親父と呼んだが少年には伝わったようだ。子供のように足を踏み鳴らす。意外に響いたその音に驚いた部下が入ってきて、刀を持ったままの青年に声を上げた。
「何をしている!」
「かまわん! 下がれ!」
近藤が一喝して下がらせると、少年は少し興奮が冷めたのか再び近藤に刀を突き出した。
「受け取れ。俺は帰る」
「帰るのか?」
「帰る」
少年の返事は素っ気無かったが、そのきらきらとした双眸には、何故そんなことを問うのだろうかという疑問が表れていた。そんなことは近藤にだって判らない。ただ、口を突いて出ただけなのだ。
「お前さん、うちの養子にならんか?」
「ならん」
やはり返事は短く、不貞腐れたような色がある。近藤は笑い出したくなった。
受け取った刀は重い。
渡した手は白く、まだ子供のそれのようだった。指の長さと甲の比率がそうなのだろう。小さく、見えた。
少年はごしごしと袖で顔を拭って、小首を傾げた。
「どうした?」
近藤が声を掛けると彼は幼い仕草で首を横に振り、きちんと踵を揃えた。
何か武道をしているのだろう。背筋がすっと伸びると凛とした顔つきになる。
「突然で、邪魔をした。さようなら」
一礼をしてさっと身を翻す。少年が扉を出る前に近藤はもう一度声を掛けた。
「お前さん、名は、何といったかな」
黒い双眸が一瞬だけ近藤を射抜いた。
「志堂、明」
返事と同時に扉は閉ざされ、部屋には老いた男が残された。
静寂に思い起こす、嵐のような時間。
「……さようなら、か」
近藤はくつくつと喉の奥で笑った。
あの少年の一瞬の躊躇はどうやら去り方を考えていたらしい。非礼を詫びなければいけないが、今更近藤を相手に畏まるのも変だと思ったのだろう。
さようなら、と近藤はそれを何度も舌の上で転がした。愉しい。そう、とても愉しいのだ。あの子と遊びたい。
少年の頃のように、無鉄砲に、力の有りっ丈でぶつかって、そうしたら楽しいだろう。
だが近藤はもう七十を越え、あの頃に親父と慕った男も今朝逝ったという。近藤の腕の中で黒い太刀が重さを増す。近藤は目を閉じ、椅子に沈み込んだ。
――じいさまの背中の鳥が好きだった。
少年はそう言った。
近藤がそれを見たのはもう四十年も昔だ。色艶やかな鳳凰に似た鳥。それを思い出そうとして、近藤は止めた。
立ち上がって太刀を抜く。
そして、切った。
やはりじっとしているのは、性に合わないのだった。