エピローグ、あるいはネクストインシデント
夜闇の森を駆けるのはきもちいい、と彼は思う。夜が何百夜と過ぎ去る前までは考えられなかった贅沢な生活、自然の中にその身一つで乗り出した彼はしゅるりと木々の股を抜き、お気に入りのスポットに立った。
鬱蒼と生い茂る巨木林の中でそこだけは開けていて、中央にはどこからか降ってきた巨岩が鎮座していた。彼の身長数回分はあるだろう大きな岩だったが、登るのはそう難しいことではない。ひょいひょいっと軽い足取りで巨岩を登り切り、その上に鎮座した。
ぽっかりと開いた森林の空洞から天を仰げば大きな光る巨石が見えた。遠い記憶では「月」と呼ばれていたと記憶している。月とはなんだろう。月とは一体なんなんだろうか。石なら石と言えばいい。なんだって月なんていうよくわからない名前をかつての人類はあの光る巨石に付けたのだろうか。
やめよう、やめよう、と彼は頭を振る。くだらない人類のくだらない命名に理屈を求めるのは馬鹿馬鹿しいと彼は思考を中断し、両の瞼を閉じて肌を撫でる風とそのいななきに感覚を傾けた。
肌をなでる風は少し冷たく、肌の隙間を通ってくるような感覚だ。血中を通る冷風が非常に心地よく、いつもは張っている感覚が急速に凪いでいくように感じた。
風のいななきは様々な雑音の中にあって一際鋭く聞こえる。例えるなら、そう下顎の結節点に響くよい音だ。遠い記憶で人類が愛聴していたクラシックだか、ベーシックだかのいくつもの雑音が混じった「音楽」という文化よりもよっぽど清涼感を感じさせる。
まったくどうして人類は、と彼はため息を吐く。小さかった頃からいまいち理解できず、とりあえず愛想良く振る舞っていたが、それでも笑えるんだからやっぱり人類は理解できない。
思い返せば久方ぶりに出会した自分と同じ香りの人類はどことなく、これまでの人類とは違う気配を感じた。上から目線でひけらかすのではなく、下から目線で卑屈に横柄で尊大に振る舞っている人間のきらいがあった。
だから助けたかったのかな、と彼は鼻を鳴らす。人間を乗せて崖を登るなんて芸当はやったことはなかったが、やってみれば意外と楽しいもので、またやってみたくなる。もっとも、やってみたいと思っても人間なんてことごとく死に絶えたが。きっとあの白髪の人間も今頃死んでるだろう。
——なんだか気が沈んだな。
おもむろに彼は巨岩から降り、森林へ再び足を踏み入れようとした。その直後だった。
——分厚く太い腕が彼の目の前を通り過ぎた。
吹っ飛んできた巨腕はそのまま巨木に打ち付けられ、ぐちゃりと潰れた。なんだ、と彼は腕が飛んできた方向を見やる。とんできた腕に見覚えがあったからだ。
数日前に白髪の人間を追っていた黒い生物、人類が熊と呼んでいたそれの太く発達した腕だ。とても強力な生物であると認識している。そんな強大な生物の腕が吹っ飛ぶと言うのは尋常なことではない。驚き視線を暗がりへ向けると、すぐにむせかえるような血の匂いが漂ってきた。
月明かり、ゆらりと暗がりから見知った顔が浮かび上がった。怯え、震えた大熊の死相。彼はそれを見て戦慄し、身構えた。
無造作に揺れた大熊は前のめりに倒れ、腐臭を撒き散らす。それは見るも無惨な有様で、片腕の欠損に始まり、頭部は半分に割れ、腹には風穴が開いていた。自慢の剛毛は無造作に刈り取られ、その内側の肌はめくれて内臓がこぼれ落ちる。
尋常ではない相手であることは間違いない。大熊を足蹴にして現れたソレを彼は睨みつけ、低く唸り声を上げた。
ソレは人類が言うところのライオンという生物によく似ていた。猫の仲間だ、と人類は言っているが、目の前に立つソレと自分が同じ生物だとは彼には思えなかった。
まず体が大きい。大熊も大熊で大きかったが、ライオンはライオンで彼を一回り以上も上回っていた。体毛はもちろん、立派な立髪だって彼にはない。極め付けは背中から生えている巨大な人工物だ。自分にも小さく似たような器官は生えているが、あんな大きな鉞は生えていない。
普段から全く違うだろ、と思ってはいたが、今夜のライオンは飛び抜けて猫とはかけ離れた外観だった。鉞はいつもの倍以上はあるし、体色だって真っ黒だ。仮面も形状が派手に変形し、より一層厳つくなっていた。唯一、その見るからに残忍で獰猛な外見の中にあって落ち度あるとすればそれは黒いライオンが隻眼であるということぐらいだろう。
両者は数秒間睨み合い、まず動いたのは彼だった。
両目を見開き、彼は黒いライオンを押しつぶす。睨んだと同時に黒いライオンの仮面が一部へこみ、軋みを上げる。驚いた黒いライオンは大きく後退し、咆哮を上げる。
咆哮は森林一帯に響き渡るほどだった。威嚇のつもりか、と彼は訝しむが、無論ただの威嚇のための咆哮ではない。直後、自分を取り囲むようにして迫る霧状の何かを視界に収めた彼は軽やかなジャンプで空へと逃げ、次いで空を叩いて樹上へ飛び乗った。
樹上へ飛び乗った彼はそこから何が自分に迫っていたのかを凝視した。見えたのは黒い流砂。まるでハエの群れのように流動的に動くソレは彼を逃すや否やすぐに垂直方向へ進路を変え、樹上に迫った。
防御のため、彼は黒い流砂を睨む。黒いライオンの仮面にそうしたように、黒い流砂を不可視の障壁で包み込み、霧散させた。しかし一度霧散させた流砂はすぐに再び一箇所にあつまり、今度は形状を変化させて襲いかかってきた。
鋭い刃がいくつも付いたコマが二つ、回転しながら彼を襲う。その軌道上にあった樹木は瞬く間に寸断され、彼の逃げ道を塞ぐ動きを見せた。
なめるな、と彼は再びコマを睨み、破壊する。再び流砂は集まるが、それには目もくれず彼は黒いライオンに向かって疾駆する。いくら流砂に攻撃をしても意味がないなら、大元を叩けばいい。その意図を黒いライオンも察したのか、新たな流砂が地面から舞い上がる。
槍の如く射出されるそれらを彼は空を走って回避する。仮面をつけた時に得た不可視の壁を展開する能力、それの応用だ。
距離があと数歩となったところで彼は足を止め、背部の器官を展開する。直後、半透明の青い翼が二対、彼の背中から展開された。それを見て黒いネメアは低く唸る。対して彼は久方ぶりの絶叫をあげた。
「NRRRRRRRRRRRR!!!!!!!!」
絶叫と共に大地が鳴動する。大地が軋む音と共に隆起し、地面を足場にしていたフォールン達は慌てふためいて目を覚まし騒ぎ出した。
規模は巨岩の周辺に止まらず、辺りすべてを巻き込んで被害を撒き散らした。隆起した大地は周囲を飲み込んで膨れ上がり、陥没した地面の中に吸い込まれた樹木はおり重なり合い、噛み砕かれていった。
それはただの自然災害ではない、ただ一つのフォールンによって起こされた明確な人工災害だ。
背中の青い翼を展開した時のみしようできる半透明の壁の規模拡張。彼の切り札である。周囲20キロにわたってその被害は拡大し、彼が流砂や仮面を凹ませた時と同じ状態を作り出す。その破壊力は絶大で、周囲一円がボウル状にくり抜かれた。
黒いライオンも割れた大地の中へと吸い込まれ、押しつぶされていった。どれほど強力な生物であってもその圧倒的な斥力には抗えない。
——そう思っていた。
青い翼を収納してすぐ、突如土埃が起こった。驚いた彼が顔を上げると傷だらけの黒いライオンが宙空を飛んでいた。正確には空気中のプラズマを弾いて跳んでいるだけだが、彼の目には跳んでいるようにすら思えた。
上空から雷撃が降り注ぐ。それを不可視の障壁で防ぐが、直後に黒いライオンはあろうことか障壁の上に飛び乗り、背面の鉞を振るって、障壁を突き破ろうとしてきた。負けじと彼は障壁の出力を上げ、黒いライオンの鉞を受け止めるどころか握り潰そうとする。事実、ベキべきという音を立てて鉞は凹み始めていた。
このまま体をペシャンコにしてやる。そう意気込み、彼は障壁の出力を上昇させた。出力の上昇に比例して鉞はどんどんひしゃげていき、黒いライオンは苦悶で表情を歪ませた。
勝ったと確信し、彼は笑みを浮かべた。
——直後、腹を刺す痛みを感じ、彼は障壁を消した。力が急に抜けてそれまで張っていた障壁の出し方を忘れてしまった。なんで、と腹部に目を向けると黒い流砂がいくつも腹部を貫いていた。
クソ、と彼が悔しがるも束の間、鉞が振り下ろされる。断頭された彼は、キャットシーは絶命し、大地に伏した。それを睥睨しながら黒いネメアは勝利の雄叫びを夜天に向かって上げた。
*
祝!第二章完結!
実に長い二ヶ月と少しでした。最初は毎日投稿しようかな、とか思っていたのですが、そんな余裕はなく、一日おきでの投稿となりましたが、それでも結構ギリギリではありました。
さて、今章「不思議な国の話」はいかがだったでしょうか。未踏破領域、ロジックタワー、フォールンの鋭種と作中世界の新しい事実を盛り込みつつ、実にVainという作品らしい結末を迎えることができたと自負しております。察している方もいるかもしれませんが、本作は基本的にハッピーエンドとなることはありません。毎回何かしら、喉に小骨が引っ掛かるような結末、ビターエンドとも呼ぶべき結末になっています。
しかし、毎回毎回それではここまで呼んでくださった方も飽きてしまうでしょう。やはり「小説家になろう」に投稿するなら、スカッとした物語を求めているはずですから。
続く第三章ではそのスカッとする展開を用意しています。実質的に第一章から続く因縁を清算する、つまりこのエピローグにて初めて名前が明らかになった黒いネメアこと「ツァーヴォ・レグルス」の大討伐を行う、という予定になっています。もっとも、ツァーヴォ・レグルスの討伐だけではさすがに第一章、第二章ほどのボリュームで物語はかけないので、第三章は前半は朱燈の過去編、後半はレグルスの討伐作戦というふうにする予定です。
改めて、ここまで呼んでくださりありがとうございます。第三章は多分、今年の12月の終わり頃か、来年の1月から投稿する予定です。内容自体は一章、二章の総まとめという感じなので、制作にはあまり時間はかからないとおもいます。
ではまたいつか。




