艱難辛苦を乗り越えたその先で
「飽きたな」
深夜、中途半端な時間にベッドから起き上がった千景はカーテンの隙間から漏れ出る光に照らされた病室の天井を仰ぎ見てそうこぼした。
未踏破領域から帰還して二週間以上が経った。千景と朱燈は帰還早々、労いの言葉もおざなりなまま防菌装備一式を揃えた白衣のマッドサイエンティスト集団に拉致され、サンクチュアリの一角にある大学病院にぶちこまれた。そして今日にいたるまで様々な拷問、もとい採血や検尿、検便、唾液の採取、影槍の再固定手術など、それはそれは様々な検査や手術を受けた。
千景などまだ可愛いもので、朱燈は切断された右腕の治療のために傷口を徹底的に検査、調査され病室に帰ってきた時には二日酔いもかくやといった有様でぐったりとしていた。もう義手でいいじゃん、と彼女が呟くが、それには往々にして理由があった。
朱燈の右腕は再生できないからだ。
現代社会において再生治療は高額な医療的措置の代名詞だ。欠損した部位を時間をかけて元に戻す。さながら添木のように、あるいはトカゲの尻尾のように生やすことが可能なのだ。
仕組みとして再生治療は青の錠剤による肉体のフォールン化を生身の人間に当てはめた技術で、再生をするにあたってF因子を投与するようなことはないが、代わりに細胞分裂活性剤という薬剤を多量に用いる。これは人間の細胞分裂を促進させるもので、投与し続けることで従来は止まっていた細胞の再生機能を機能させ続けることができる。
言い換えるならば活性剤は投与し続けなければ効果がない。活性剤自体の値段もバカにならないから、高価な医療措置と言われる所以はここにある。付け加えるなら細胞分裂の回数を増加させているから、おい先短い老人にこの技術が使えないのも欠点と言えば欠点かもしれない。
だが、朱燈の場合はそうではない。健康体、若々しい肉体と再生治療をするには肉体面で問題があるようには見えない。金銭の問題を抜きにすれば決して彼女が再生治療を受けることは不可能ではない。
ならば何が問題か、とマッドサイエンティスト集団に問えば彼らはこう答えた。彼女の切断面の細胞が壊死していて細胞障害が起こっている、このままでは再生治療を受けるどころか感染症で死ぬリスクもある、と。
壊死している箇所よりも上、つまり右手首よりも上に当たる肘から先あたりを再度切断するという方法をとれば、壊死の進行を止めることはできる。だが、細胞障害を起こしている手前、再生治療は受けられない。
だからか、ここ最近の彼女の右手は前よりも短く見えた。そのことが脳裏を離れないまま、激動の二週間が過ぎ去り、ようやくすべての検査を終えたのは今日の夕方だ。検査疲れで自由にしていい、と言われた瞬間、真っ先にベッドに入ったのは千景も朱燈も同じだった。今も朱燈はぐーぐーといびきを立てて寝ている。
おもむろにベッドから起き上がり、千景は窓際による。そうして窓からサンクチュアリの中央部を見つめた。
千景や朱燈が住む住宅地が外縁部にあるなら、中央部には行政機関やサンクチュアリを代表する企業の自社ビルが渦巻いている。二人が入院している大学病院も中央部にあり、その正面にはサンクチュアリ内でも有数の製薬会社の自社ビルが建っている。あからさまだな、と思いながら視線を逸らせばサンクチュアリの先端が周囲のビルに隠れて見えた。
サンクチュアリの象徴、サンクチュアリタワー。全高90メートル、サンクチュアリの全方位から伸びる防護シールの終結点であり、結節点であるそれなくしてサンクチュアリは維持できない。外見からはわからないが、サンクチュアリタワーの内部はそのほとんどがシールド発生装置の維持のためだけに使われている。各行政機関はその維持装置を取り囲むようにして配置されている。その機能が停止すれば一瞬でサンクチュアリは崩壊する。
——なるほど、そりゃ狙うわけだ。
全高150メートルにわたる巨大なシールド発生装置。どこを狙っても、どこを破壊しても致命的な旧時代の遺物ならば、21世紀初頭から見られたドローンによる自爆特攻程度でも簡単に破壊されるだろう。
——だからあの人はそれをした。
自暴自棄でもなければ、幽愁暗根というわけでもない。ただできるから、できる立場にあったから。
未踏破領域で千景は知らない世界を知った。衛星の件、寒冷化の件、降雨量の増大について。真実かどうかはさておいて、いずれも興味深い資料であったことに変わりはなく、サンクチュアリを運営するエデン機関への不信は強まった。
知れば知るほどに歪なディストピアだ、サンクチュアリは。朱燈が感じただろう、セントラルパークへの嫌悪感も決して間違いではない。千景自身もそう感じ、唾棄した歪な場所だ。
明日からは監査が待っている。未踏破領域で遭ったことを洗いざらいすべて話せ、というお達しだ。それは決して形式的なものではなく、ある種の確認も含まれているのだろう。ロジックタワーで何か余計な情報を得ていないか、とかだ。
朝になったら朱燈と相談しないとな、と寝息を立てる彼女の方へ振り向き、千景はベッドのそばに置いてあった手帳を手に取ると、メモ書きを残した。盗聴、監視されているならば、こんなことをしても無意味だろうが、手は打っておくべきだ。
「明日、か」
明日を求めていないにも関わらず、明日を思い描くなんて、馬鹿馬鹿しいことこの上ない。
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