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Vain  作者: 賀田 希道
不思議な国の話
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雨天行軍

 翌朝、朱燈は目を覚ますと同時に雨音を聞いた。


 起き上がり、顔を上げると寝る前は星空さえ見えた空には灰色の雲がかかり、その隙間からは半透明な雨水が矢のように降り注いでいた。滴る雨は窓を伝い、その表面を曇らせ真白(ましろ)の血に染めた。


 暗い空、部屋も薄暗くなり、空気もどんよりしていて、寝覚めが非常に悪い。起きたくないと思いながらも、ふと視線を向けた窓の前で千景が旅支度を始めている姿を見てしまうと、否応なく朱燈は現実に引き戻された。焦燥感にかられた朱燈は起き上がり、掛け布団代わりにしていた防寒ジャケットを羽織りながら立ち上がって、彼の元へと走った。


 「おはよー、ちかげー」


 呼びかけられ、千景は、おう、と返す。未だ寝ぼけ眼の朱燈とは対照的に、彼の目はパッチリと開いていて、とても眠気を感じさせなかった。


 「すぐに朝ごはんの準備すっからな」


 慣れた手つきで朝ごはんの準備を始める千景を尻目に、朱燈は再び窓の外へ目を向けた。曇った窓を擦ると、モヤが晴れて外の景色が顕になる。視線の先には昨日の昼頃に走り回った御殿場市の姿があり、ただ雨に打たれるばかりのその有様はある種の悲しさを帯びていた。


 眼下に広がる大きな街はその形を保ってはいるが、そこに人の気配はない。ぴちょぴちょと滴る雨水に打たれ、ゆっくりと風化していく。かつてあっただろう繁栄の残り香すら雨に打たれる錆びた街並みの中にはなく、灰色に染まってやがてモヤの中へと消えていった。


 普段は物悲しさなど感じない朱燈だったが、いざ出立するとなるといくらか心に陰鬱とした影が落ちた。去りがたい気持ちが波紋となって広がり、苦しいとも悲しいともとれる微妙な表情を彼女は浮かべた。


 「——なぁに黄昏てるんだ?」


 ポンと置かれた大きな手に朱燈は驚き、反射的に振り返ってファイティングポーズを取った。闘争心を顕にする朱燈に面食らったのか、当の千景は少し傷ついたように唇を尖らせ、驚かすなや、と苦言をこぼした。


 「うっさい。いきなり後ろに立たないでよ」

 「へいへい。それよりも朝ごはんできたぞー」


 「缶詰?」

 「缶詰、もあるな」


 朱燈の疑問に答えながら千景は彼女の前に缶詰を置いた。ほんわかと湯気が立つそれは茶色い汁で、その中には濃い茶色の物体や、オレンジ色の物体、木の根に似た物体などが入っていた。液体が入っている缶詰は昨日の朝食、夕食の時に朱燈が食べた缶詰よりも一回り大きく、表面には「ブリの切り身 特大」と書かれていた。


 朱燈の前に置かれた缶詰と同じものを千景は手に取り、口の中へと運んでいく。バクバクと食べるその姿に触発されて朱燈も缶詰の中の液体に手を伸ばした。


 口の中に入れてすぐ、朱燈は目を見開いてその味に驚いた。ずっしりと舌の上に乗る魚の肉の重み、絡められた汁の旨みが一気に押し寄せ、口の中で嚥下するまで彼女はその勢いに流されるがまま味わった。


 「美味しいじゃん!」

 「そりゃ、ブリだからな。この時期に食べるブリは美味いぞー」


 「へー。ブリっていうんだ、これ」


 あと暖かい、と缶詰を持ち上げ、朱燈はその中にあった汁を吸おうとした。しかし、唇を缶詰に付けた瞬間、彼女は体の芯まで届くような暑さを感じ、たまらず唇をそれから遠ざけた。こぼさなかったのがせめてもの救いだったかもしれない。


 唇の芯がヒリヒリと痛み、表面を撫でると、非常に高熱を帯びていることがわかる。からからとそんな様子の自分を千景が笑ったので、朱燈は憤慨し、笑う彼のすねを蹴り上げようとして躱された。


 「ばっか、お前が蹴ったらシャレにならねぇだろ!」

 「なんでこんなに熱くしてんのよ!」


 「やったことえーんだからしょうがないだろ!そんなに汁が飲みたかったらスプーン使え、スプーン!」


 怒鳴りながら千景はプラスチックスプーンを朱燈に手渡す。憤りながらそれをひったくり、朱燈はさっきは飲めなかった汁をすくって口に運んだ。


 「うん、美味しい」

 「ブリの缶詰の中に入ってた煮汁とかも全部入れて煮込んだからな。こういう暖かいものが食えるってのはありがたいよな」


 「そだねー」


 ただ汁が美味しいだけではなく、溶けた野菜類の甘みが味に一種類だけではない多様性を与えている。これがただのブリの煮汁だけだったらきっと飲み干すようなことはなかっただろう。


 久方ぶりの暖かい食事に満足しながら、朱燈はこれといった意図もなく視線を床下に置かれているアウトドアバーナーへ向けた。真新しいそれは昨夜、千景がロジックタワーから降りて街を散策して見つけたものだ。ロジックタワー内にある御殿場市の地図を検索し、大型のモールを見つけた結果の戦利品だ。


 今の時代、サンクチュアリに引っ込んでいる人類にはアウトドアホビーという概念はない。外に出ればすぐにF因子に汚染され、フォールン化してしまうから衰退は必然だ。当然と言えば当然だが、アウトドア用の製品なんてものは需要がないから誰も生産していない。時折、サンクチュアリの地下街で旧時代の遺物を打っている骨董品屋で見かけることがあるくらいだ。


 食事を終えた朱燈は床下のアウトドアバーナーを拾い上げ、興味深そうに覗き込んだ。どことなく盃を彷彿とさせる外観で、鍋を置く鉄の支えの下にはスイッチを入れると火が灯り、うーん、と彼女は唸る。


 「どーしたー?」

 「いやーこれって外で鍋とかやるための道具なんでしょ?」


 鍋ってよくわかんないけど、と現代人らしいことを付け加え、朱燈は続ける。


 「なんで外で食事するわけ?別にこれ使ってる奴らってあたしらみたいな兵士ってわけじゃないんでしょ?」

 「知るか、んなもん」


 朱燈の疑問を千景は乱暴にぶった斬る。趣味と言ってしまえばそれまでで、わざわざ外で食事をすることの意義なんて考えたこともない。せいぜいが、暇を持て余した旧時代の道楽としか思わない。


 「なんていうの?暇人?」

 「俺もそう思うけどさ。そこにとやかく言ったところでどうしようもないだろ。朱燈だって趣味の機械いじりについて聞かれたって困るだろ?」


 「まぁ、そりゃ。でも、機械いじりは実用的なんですけど?」

 「普段は役に立たないではこのアウトドアホビーと共通してるな。こんな状況じゃなきゃ実用性は皆無だ」


 うっせー、とぷりぷり怒りながら、朱燈は乱暴に机の上にバーナーを置いた。叩きつけるという表現がより適切かもしれないが。


 さてと、と食事を終えた千景は席から立ち上がる。空になった缶詰をビニール袋へ放り投げ、その口を縛り、匂いが漏れないように片付けを終わらせた。


 「これは持ってくの?」

 「いやー、使い道ないだろ。置いてくよ」


 朱燈が摘み上げたアウトドアーバーナーを示して千景はひらひらと左手を上下に振る。ブロックフードがほとんどのサンクチュアリでは無用の長物だ。


 「そ。じゃぁそういうことで」


 アウトドアバーナーはコトンと机の上に置かれた。すでに朱燈の興味はバーナーから失せ、手招きする千景の元へと走っていった。


 「昨日も言ったかもしれないが、俺達はこれから街の北東にあるキャンプ場に向かう。予定としては12時ごろまでには辿り着きたい」


 「なんで?ヘリが到着するのは14時30分ごろでしょ?」


 朱燈の疑問に千景は、ああ、と返し話を続けた。


 「本来ヘリを使えばサンクチュアリから御殿場市までは一時間とかからない。朝8時ぐらいに出発したとして、何事もなければ9時にはつく計算だ。ただ、未踏破領域である以上、それはない。空は空で飛行型のフォールンがたむろしてるからな。それをどうにかしようとすればどうしても迂回ルートを取らざるを得ない。そういった要素込みでの14時30分って指定なんだろうな」


 「ふぅん。でもそれって12時ぐらいに到着しようって目標の説明じゃなくない?」


 「雨、降ってるだろう?雨降ってる時に飛ぶ鳥はいないからな。迂回ルートを取る必要はなくなる。予定よりも早い段階でヘリがキャンプ場に到着する可能性がある」


 昨夜のこと、物資の補給のために街へ降りた時に感じた湿度の変化、生暖かくも生臭い、鬱屈とした空気を察した千景はすぐさまロジックタワーの気象予報を確認した。情報の収集範囲は御殿場市に限られたが、周辺一帯が雨天となることはほぼ確実、という結果が出た。


 雨が降ればヘリの航行にも支障が出る。最新のヘリコプターは濃霧でも操縦士にAIによる補正で、クリアな情報を与えることができるし、機体の姿勢制御もしっかりとしていて生半可な雨風にさらされてもコントロールが奪われるということはない。旧時代のヘリコプターとは馬力が違うのだ。


 しかし、事故は往々にして起こる。唐突な落雷、原因不明の整備不良、意図せぬバードストライクなどなど。機械の制御が完璧で、プログラムされたものであってもアクシデントによってヘリが墜落あるいは撃墜されるということはある。晴天ですら油断はできないのだから、雨天となればその脅威は数段、跳ね上がる。科学技術が発達した現代でも、雨天での飛行は推奨されていない。


 「にしちゃぁ、あたしらが遭難した時の任務は雨の時だったけどねー」

 「いろいろ、あるんだろ。政治とかお金とか」


 壁外での調査任務はヴィーザルが請け負う仕事の中でも危険が多く、それだけ防衛軍からの依頼料も高い。傭兵組織である以上、クライアントを裏切ることは許されない。無論、クライアントが金を払う限りは。


 「ふーん。納得できないけど、まぁいいわこの話は。てか、それなら雨だから作戦中止ってことになるかもしんないじゃん」

 「さすがにそれはないだろ。そこまでの不義理はしない、はずだ」


 断定できないことを歯痒く思う千景の目が宙を泳ぐ。良くも悪くもヴィーザルは営利団体だ。傭兵稼業以外にも軍隊の指導者(メンター)や兵器開発への協力などをして金銭を稼いでいるとはいえ、財政に余裕があるというわけでもない。利益なし、リスク大と判断されれば容易く見捨てられる。それこそ、生存が確定するまで千景や朱燈の捜索をしなかったように。


 外と同様に陰鬱な気分になる二人だったが、このまま直立不動を貫けるほど、感傷的でもなかった。互いにハミングするほど正確に同じタイミングでため息を吐き、二人は口角をわずかにあげ、鼻で笑う。


 ——そして安全な住居を飛び出し、二人は雨の街に繰り出した。


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