反動と副作用
地下5階から地上40階へ、どこまでも続く階段を千景は登っていく。
「つか、れる!!」
はぁはぁと息を切らしながら大体12階まで登ったところで、千景は踊り場の上で大の字になった。上を見上げれば階段がまだまだ上まで続いている。上に行くほど暗くなっていくグラデーションがかかっていて、無限に続いているようにすら見えた。
息が切れる。胸が痛い。喉は何かがずれたような違和感がある。胸の動悸はいっそう苦しくなり、階段一段一段を登るたびに体全体の重みが脛部を伝って足裏にのしかかってくる。
登り始めの頃は気にしていなかったが、しばらくすると膝株の腐食が傷み始め、血が滲み出した。包帯で縛っても痛みはなくならないし、気休めにもならない。ゆっくりと体を起こし、手すりに捕まりながら登っていったが、それも12階で尽きた。
一度を腰を下ろすともう起き上がれない。脱力感がどっと雪崩を打って押し寄せ、指先一つ動かせないし、首を少し起こそうとしただけで倦怠感が体に浸透する。瞼は重くなるし、口蓋の筋肉はどんどんと柔らかくなっていく。
——これは、疲労ってだけじゃないな。
足が疲れるのはわかる。怪我をしているし、階段を登ってきたから。だが、どうして上半身までこんなに動かない?
ただの疲労ではないと千景気づいた時、喉奥から込み上げてきたものがあった。たまらず吐き出すと、ドロドロに溶けた肉片が踊り場にビチャっと打ち付けられた。
大きさは一センチにも満たない。気管内の粘膜が胃液と混ざり合い不自然に大きく見えた。
——直後、吐血した。
「くそ、くそ!!そういうことか!!」
体が痛い。腹が苦しい。胸が張り裂けそうだ。絶えず嗚咽と共に血が吐き出され、視界はかすみ、体の異常はピークに達しようとしていた。
自分の身に起こっていることを理解し、千景は歯軋りをした。踊り場の壁に這って起き上がり、手探りで彼は錠剤が入っているケースを探し、取り出した。
取り出したのは青の錠剤。霞む視界の中、錠剤を口の中に放り込んだ千景は全力で薬を嚥下する。飲み込む力すら限界に達していた。
——それほどの衰弱。体内に入り込んだ毒素は体を蝕み、そして尋常ではない苦しみとなって吹き出していた。
それを抑制するための青の錠剤。それを嚥下し、しばらくすると体を今まで感じていた以上の痛みが襲い始めた。たまらず上半身を踊り場に叩きつけ、声にならない悲鳴をあげながら千景はもがき苦しむ。
自分の体の中で二匹の獣が噛み合いながらのたうち回っている。そんないい加減な想像が脳裏に浮かんでは舌を噛み切りそうになり、それを我慢し、やけっぱちになって胸を打つ。
指はありえない方向に回り、肌が勝手に裂けて血が迸る。体中の体液が沸騰したかのように熱くなり、意識がぼこぼこと茹だった鍋のように脈を打つ。思い出が湧き上がったそばから、その思い出が風船のように膨れ上がり、餅のように引き伸ばされ、ジェットコースターにでも乗っているかのような超高速で弾き飛ばされた。
そんな地獄の20秒だった。
意識がはっきりとし始めると、それまで感じてた痛みや倦怠感が体から抜けていき、胸の動悸もいくらか緩やかになっていった。足の疲労は如何ともし難いが、それでも体以上が緩和されていく感覚を覚え、千景は安堵のため息をこぼした。
口元を拭うと唇いっぱいに付いていた血がこすれ、袖口にこびりついていた。拭っても取れる気配はなく、それも仕方ないか、と割り切って袖口にあった手をズラし、自分の脈を測った。錠剤を飲んでそう時間が経っていないからか、脈拍は安定してはいないが、さっきまでと比べれば安定してはいた。
改めて自身の体の異常を把握し、千景は包帯で巻いてある膝株の傷口をさする。触れても痛みはなく、包帯を取ると、その傷は綺麗さっぱりなくなっていた。何度か深呼吸を繰り返し、ライフルを杖代わりにして立ち上がると、腰に手を当てて大きく後ろに向かって折り曲げた。
「ふぅ、なんとか。大丈夫、かな」
そう言う千景の瞳には空色の涙で満たされていた。それに気がつき、千景は涙をこする。
「青の涙か。クソがっ」
青の錠剤、その正式名称は「F因子感応型自己増殖促進剤」と言う。体内のF因子に作用して、通常では不可能な部位の欠損や致命傷の傷を治癒することができる。一言で言えば、再生薬だ。部位の欠損は文字通り、どこにも作用する。例えば脳、心臓といった人体にとっては急所と呼べる部位を失っても生命活動さえ続けていれば再生させることができる。
治癒の代償は無論大きい。
この薬はフォールンがF因子を摂取することで起こす「進化」のメカニズムを応用している。体内のF因子の許容限界を超え、肉体の形を変化させることで、強制的に自分の許容限界を突破する荒技、それが進化だ。それを人間に行うのが青い錠剤の効果だ。
千景の体に起こっていた異常、硫酸とそれによって増殖された毒素の暴発は、しかし彼が自分の体を強引に再生させることで無毒化された。人間が持つ抗体機能の強制的な前借りと言えばいいのか、細胞を含めたあらゆる内器官の代謝を早めて、毒素に適した形に体を作り替えたのだ。
体の治癒能力を高めるどころではない。生命の遺伝子に刻まれたゆるやかな進化の針を早めるに等しいその効果は、時間の流れを無視して人間を殺しかねない。
青い錠剤の副作用は高確率のフォールン化。一瞬ではあるが、人間のF.Dレベルを上昇させ、強引に体を治すことができる極めて危険な代物だ。
この薬を使えば朱燈の欠損部位を治すことはできる。しかしそのリスクを考えればおいそれと使う気にはなれなかった。
「とりあえずは賭けに勝てたか。俺の体のF.Dレベルはっと。うん。順調に下がってってる」
マルチウォッチに浮かび上がった千景のF.Dレベルの数値が下がっていくに連れ、涙も引いていく。副作用の一種とはいえ、目の中に絵の具が流し込まれたようで、なかなか慣れないものだ、と千景は苦笑した。
体が回復し、再び千景は階段を登り始めた。相変わらず両足にかかる負担はすさまじいが、さっきまでと比べればまだ体は軽い。階段を登る足が疲労で痛むことはあっても、それでバッタリと倒れることはない。
——もっとも、30階に登り着いたところで急激な貧血に襲われ、前のめりになってぶっ倒れたが。
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