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Vain  作者: 賀田 希道
不思議な国の話
84/97

魔物との闘争

 瞳からレーザーのように発された光が視界いっぱいに広がる。


 ハッとなってコンソールの影に身を屈める千景は直後、振り下ろされた巨大な尾の一撃を垣間見た。


 コンソールに身を隠した直後、パーンという甲高い音が発電室全体に響いた。タオルで背中を叩いた音にそれは似ていた。ただし、もっと大きな、硬い物同士がぶつかった音だ。タービンの稼働音が鳴り響いているにも関わらず響くほどの大きな音だ。


 ただし発電室がその尾の一撃で揺れたりすることはない。そのことに安堵し、再び千景はコンソールから顔を出し、水路に鎮座しているフォールンの様子を伺った。


 ヘドロのフォールンは変わらず千景を凝視している。覆われたヘドロから覗かせた上下四本の牙をガチガチと振るわせ、口惜しそうに彼を睨みつける。


 天井まで到達するほどの巨体は微動だにしない。巨大な尾だけをぶらぶらと揺らし、千景が元いた岸めがけてパンパンと何度となく腹立たしげに打ち付けるその姿を訝しみながら、どうにかあれを排除できないかを思案した。


 ヘドロのフォールンは制御室と千景が入ってきた入り口の間に陣取っている。尾の長さは発電室の両端に達するほど長く、その速度は脅威的な速さだ。正面突破をしようと思えば瞬く間に進路を塞がれ、その強烈な一撃を矮躯に受けて体が四散することは確実だろう。


 恐ろしいのは眼前のフォールンの身体能力もあるが、その薄気味悪さだ。発電室に入った時から匂う不愉快なまでの激臭を発しているのが目の前で赤い瞳を光らせているフォールンであるのは間違いないのだろうが、その匂いの源がわからないのは恐ろしい。


 匂いというのはある種の警告だ。強烈な匂いを発することで自分を外敵から守るという手法はスカンクやカメムシの例を見れば有効であることは明らかだ。彼らが発する匂いの源は様々だ。分泌液や化合物など、種類によって異なってくる。匂いを体臭として垂れ流すのではなく、明確な武器として扱う生物は、いずれも普段垂れ流している匂いの数百倍、数千倍にまで凝縮したガス攻撃を行うことができる。


 ——つまり、そんなものをこんな閉鎖空間で使われたらまぁ、確実に俺は死ぬわけで。


 マルチウォッチを用い、千景は周囲の空気の成分を分析する。酸素、窒素、水素と代表的な空気を構成する元素が表記されていく。その中にあった「硫黄」の文言に千景は目を細めた。


 硫黄は一般的に火山地帯などで見られる元素だ。クリーンな空気が漂う中では決してありえない。ましてここは富士山からも遠く離れた盆地だ。表記されている数値の高さを考えれば、その発生源がフォールンであることは確実だろう。


 硫黄を周囲の酸素や水素などと組み合わせれば強力な硫酸になる。吸引するどころか、肌に付着しただけで体がドロドロに溶かされる姿を想像し、千景は背筋を震わせた。


 「多分、今もちょっとずつ、俺の肌に硫酸は染み込んでいってるんだろうなぁ」


 明るくなってから気がついたが、肌の表皮がザラザラしている。衣服もところどころにほつれがあり、縛ったはずの左手がやけに痛んだ。喉が無事なのは包帯で鼻も口も覆っているからだ。防菌作用のおかげでかろうじて硫酸ガスの侵入を防いでいる。それでも、体が溶け始めたら意味がない。タイムリミットは着々と近づいていた。


 ただ一つ気になることがあった。千景の知る限り、硫酸は無臭だ。もちろん、相手はヘドロに身を包んでいるのだからその匂いが混ざっているのかもしれないが、とかく激臭を発するような物質ではない。


 マルチウォッチに表記されたリストに再度目を通すが、目立った物質はない。シアン化合物とかだろうか、と首をひねる千景は、すぐにその思考を打ち切った。考えても仕方ないし、それよりもこの場所からの脱出を優先した結果だ。


 視線をフォールンから逸らし、電気制御室の扉に向ける。わかりやすい出口のドアに千景は手をかける。力を入れ、ドアノブをひねる。


 しかし開かない。鍵がかかっているといったわけではなく、扉の向こう側が何かに塞がれている感じだ。


 「ちっ。マジであれをどうにかしないとな」


 なんかないか、とマニュアル本をひっくり返し、千景は方法を模索する。


 「正面戦闘、うん、絶対無理」


 黒い錠剤を使えば拮抗できるかもしれないが、相手が本気を出してガス攻撃をしてきた時点で詰む。真っ先に戦闘をする、という案は却下された。


 試しに相手がどれだけのものか、とF.Dレベルを測ってみると、15と表記された。上位種相当、勝ち目がないことは明白だ。


 「隠れてやり過ごす。明るいから無理」


 マニュアル本をめくり、発電室を照らしている照明を電気制御室から消せないか、と考えたが、そんな方法は載っていなかった。制御室の入り口近くにあった見取り図には元いた岸の入り口近くにスイッチがあるらしい。


 遠隔操作できるようにしとけよ、と千景は愚痴るがそんなことを言っても仕方がない。どうにもならないことに文句を垂れるよりも、次の案を考えた方が賢明だと次案を考えた。


 「超高速ですり抜ける。うーん。無理か」


 一度、否定してみた案を再度検討するが、やはり尾の一撃を回避し、続くガス攻撃を回避する手段を思いつかなかった。入り口は開けっぱなしにしているため、頑張ればできなくもなさそうだが、力任せにすぎる。短時間かつ少量でも肌をボロボロにするガスを大量に浴びればどうなるか。


 ——きっと白骨化が関の山だよなぁ。


 白骨化した自分の未来図を想像し、乾いた笑い声をこぼす。そんなものはなんの気休めにならないが。


 「てか、やっぱり戦闘を回避するのが一番いいよなぁ。まぁそれがどうやってって話なんだけど、ん?」


 戸棚に向き直り、使えそうなものはないかと探しているとそれまで物色していた電気制御室関連のマニュアルの隣、ファイルの色からして違うマニュアルが目に入った。手を伸ばし、そのタイトルを見てみると「水門操作及び開閉作業について」とあった。


 なんで電気制御室に水門の操作についてのマニュアルがあるんだよ、と千景は訝しむ。試しにパラパラとめくってみると、その理由がわかった。


 どうやら電気制御室でも作業の一部を行うことができるらしい。万が一、大電力が必要になった時、水門を開放して大量の水を流し込み、発電量を上げる仕組みになっている。ただし、肝心の水門を開ける最終工程は下に降りてレバーを倒さなくてはならないという面倒っぷりだ。


 ——けど、目処はついたな。


 マニュアルに沿ってコンソールを操作し、千景は窓から飛び出した。マニュアル本が示したレバーの位置はフォールンが鎮座している水路のそぐ隣、壁面に取り付けられているらしい。水門は水路の両端にあり、レバーが取り付けられている側からそうではない側へと水が流れていく仕組みになっている。20年間、一度として放水されずずっと放置されっぱなしになっていた水門が開いたらどうなるか。それは火を見るよりも明らかだろう。


 走り出すと同時にヘドロのフォールンは動いた。絶叫と共に背中を向け、長大な尾が千景めがけて叩きつけられた。


 その速度は図体に似合わず非常に速い。似たような外見のあのカニ型のフォールンの動きが緩慢だったと思うほどの速さだ。


 振り下ろされた尻尾の一撃を軽やかに千景はかわす。軌道さえわかっていれば避けられないわけではない。動き自体は単調だ。


 しかし、尻尾の一撃には続きがあった。


 床に叩きつけられたと同時に尻尾を纏っていたヘドロが飛散する。飛び散ったそれは無論、千景にも飛んでいく。


 背後から迫るそれに気づき、千景は反射的に身を翻す。それでもすべては避けられない。避けられなかったヘドロの破片は二つ、一つは左足の膝株あたりのズボンをかすめ、もう一つはジャケットの背中に直撃した。


 「ぐぅ、ぁああああああ!!!!!」


 直後、膝株から痛みが走った。見ると、ズボンの表面が消失し、その真下にあった膝株は硫酸をぶっかけられたかのように爛れていた。ぐちゅぐちゅと細胞内の水分が泡を吹き、湯立つ。まるでアイスクリームカップの表面をスプーンで巣食うように、どろどろに溶けた表皮を凝視し、千景は身をもってヘドロの恐ろしさを理解した。


 溶解性のヘドロ。顔に塗れば文字通り、お肌真っ白な黒いクリーム状の液体に千景はゾッとする。胸や頭に喰らえば間違いなく致命傷だ。いや、それでなくとも大きなダメージになる。


 幸い、ジャケットに直撃した分は、ジャケットの背中にぽっかりと穴が開くだけで済んだ。ヴィーザル支給のジャケットの防刃性、耐熱性だからこそ、この程度で済んでいる。仮に千景が着ていたものが防衛軍の防護スーツだったら、瞬く間に背中が溶かされていただろう。


 「これは死ぬな、油断しなくても」


 痩せ我慢を兼ねて千景は獰猛な笑みを浮かべる。影槍を展開し、その形状を()()()()()()()、臨戦体制を取った。


 千景が戦う意志を示すと、フォールンは尻尾を引きずり戻して持ち上げると、閉じていた手を開くように、五つに分かれた先端を放射線上に広げた。近くで見るとやはり人間の右手に見える。関節があるようにわちゃわちゃと動く様はまさしく人間の手そのものだ。


 開いた尻尾の先端を手刀の形状へと変え、振り下ろす。速度は先ほどの比ではない。倍以上の速度で放たれた手刀を千景は予備動作の段階で察知して、回避行動を取った。


 そうしなくては避けられない、人間の感知速度を超えた一撃だ。


 振り下ろされた手刀は千景のすぐ隣をかすめ、床にめり込んだ。シューシューと床を構成する物質が溶ける音が鳴り、衝撃でヘドロが飛び散る。速度も範囲も先ほどとは段違いだ。


 ——食うかよ。


 走り出したと同時に、つまり回避行動に入ったと同時に千景は影槍を二つに分けた。片方は分厚い盾のような厚みの大鉈に、もう片方は負傷した左足の代わりに動かすための細い足に変形する。


 分厚い鉈型の影槍で自分の体を隠し、千景は飛散するヘドロから身を守る。ヘドロの直撃で影槍は表面が溶けるが、即座に再生成され、傷口を塞いでいく。


 走る速度は本来の足ではないため、やはり落ちる。走っているのか、歩いているのか当の本人でさえもわからないくらい曖昧だ。


 それでもレバーが見えるくらいに近づき、再び千景は影槍の形状を変えた。二つに分かれていた二本の影槍を一つに束ね、四本指の腕を出現させる。奇しくも天空の戦いで落下しかけた朱燈を助けた時にクリスティナが用いた形状にそれは似ていた。


 「はい、詰み」


 フォールンが次の攻撃に備える間に千景は動いた。限界まで伸ばした影槍を器用に扱い、レバーを引いた。駆け引きも何もない。ただ、自身の影槍が届く距離まで近づけばいい、というシンプル極まりない器用さの暴力。そこには感慨や達成感もなければ爽快感もなかった。


 ともかくも、レバーを引いた。その厳然たる事実を確認すると同時に千景は水路の向こう側で水門が地響きを上げながら開く音を聞いた。


 直後、彼は天井に向かって跳んだ。フォールンの赤い瞳が連動して天井に向けられ、おもむろに口腔を広げた。ショベルカーを彷彿とさせる口腔の内側には誰もが羨むほどに整列した前歯を覗かせる。


 これまでとは明らかに違う挙動。嫌な悪寒が背筋を履い、尾骨にまでむずがゆい感覚を伝えた。


 ——刹那、ダン、という音が発電室内に響いた。


 それと同時に千景から見て右側の空洞から大量の水が流れ込んできた。それは瞬く間に構えていたヘドロのフォールンにかぶさり、その巨躯を包み込んだ。


 流れ込む水の勢いは衰えるところを知らない。抗おうとするフォールンはしかし、そのヘドロを一瞬にして洗い流され、その中身が顕になり、いっそう押し戻された。


 水によって流されていくヘドロの中から現れたのは黒く変色した甲殻をまず覗かせた。白い仮面には黒光りする眼球があり、それまで目だと思っていた部位は光を失い、ただ赤いだけの筋肉の塊と成り果てた。牙のように見えていたものは仮面の一部が融合しており、巨大なハサミを彷彿とさせる。


 顕になったのは体躯だけではない。さんざん千景に振り下ろされた尻尾のヘドロも洗い流され、黒い甲殻に守られた巨尾が姿を現した。先端はザリガニの尾を彷彿とさせ、人間よりもいっとう細かい関節がワラワラと動いた。


 「——まんまザリガニじゃないか」


 天井を這うように移動しながら、顕になったその外観を見て、千景はポロリとこぼす。


 多くがザリガニと言われて想起するハサミを構えた赤い生物ではないが、ヘドロが洗い流されたフォールンの外観はまさしくザリガニだった。ただし、肝心のハサミは口部と癒着しており、上下に動かすくらいしかできないように見える。


 黒い甲殻は無数の粒が浮かび上がり、表面はぼこぼことしていた。眼球は赤く光っていた部分ではなく、その背後にあった黒いガラス状の球体だったようで、顕になると同時にギョロリと動いた。


 やがて、濁流の勢いに負けてフォールンは流されていく。水門から消えていく時、恨みがましくそれは千景を睨みつけていた。


 「こわー。もう2度と現れんなよ」


 そうこぼす千景も決して独り言ではない。天井を伝い、元いた岸に着地した千景は素早く発電所の入り口に走り、扉をくぐると同時にそれをバンと占めた。


 扉の向こう側からは水が流れる音が聞こえ、隙間から水が溢れ出る。慌てて階段を登る千景がふと顔を上げると、それまで非常灯しか点っていたなかった階段は、踊り場を上るごとにライトを灯していった。


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