ロジックタワー地下
最初、ロジックタワーに足を踏み入れた時、違和感があった。全くと言っていいほどフォールンが侵入した痕跡がないことに。
階段を降りる傍ら、扉を開いて確認してみるが、どの階層もガラスの破片や壁が割れた痕跡がある。それは階段も同じで薄暗い中、浮かび上がる瓦礫や血潮の跡に目を伏せながら千景はゆっくりと階段を降りていった。
フォールンは人を襲う。食べる。飲み込む。食い散らかす。このロジックタワーでも20年前に同じことがあったに違いない。壁にべっとりとしみついた血がそれを雄弁に物語っている。しかし人がいなければそれもない。つまり、ロジックタワーが無人だったから、フォールンは入ってこなかったというそれだけの話だ。
これがサンクチュアリであれば話は違ったかもしれない。サンクチュアリであれば外に出てきた哨戒任務の防衛軍兵士だったり、ヴィーザルの傭兵だったりを襲うためにフォールンは廃墟に潜むが、ここは壁外、未踏破領域だ。その必要がないほど、フォールンが強い環境だ。
街中で出会したブラットやその頭目だったスラットがいい例だ。こそこそと隠れるばかりだった都会のネズミは、田舎のネズミになると大手を振って大通りを大股で歩き出す。警戒心が薄れ、狡猾な面が消えてしまう。必然、ロジックタワーにコソコソと無意味に登るようなことはなく、彼らは彼ら本来の住処に根を張る。
ネズミの棲家、つまり地下だ。無論、本来の棲家に根を張るのはブラットに限った話ではない。オーガフェイスであれ、ゴアーであれ、本来は自然の中で生きる生物だ。住み心地で言えば本来なら森の中とかの方が住みやすいは住みやすいのだろう。それでも彼らが時折サンクチュアリ近郊に顔を出すのは人間が出てくるからに他ならない。
人間。どういうわけか、フォールンは人間を食らう。それが使命であるかのように。
違和感ついでに言わせて貰えば、なぜかスラットはロジックタワーに入ろうとはしなかった。その周りに置かれたオブジェに登るばかりで、より上層からブラットを降下させるといった手法を取らなかった。都落ちの個体ならありえないミスだ。
「——ミスでないなら、必然だ。別のやつの縄張りだったって話だ」
ルナユスルの縄張りで他のフォールンが千景達を襲わなかった理屈と同じだ。オーガレイスのような群れで行動し、対抗できるような種でもなければ同格ないし、格上とは争わないという単純な理屈だ。
地下にフォールンが待ち構えていることは十中八九間違いない。それがなんであるかはわからないが、予想はつく。おおかた、ブラットだろう、と。
1階まで降りてきて、千景が扉から顔を出すと、ついさっきまでむらがっていたブラットはいない。代わりにその死体がいくつか残されていた。ボロボロで死臭がひどいそれらの中から一つを掴み、千景はロビーの奥の方へと引きずっていった。
元来獣くさいフォールンではあるが、ブラットはそれに加えて下水と糞尿の匂いが合わさって一層ひどい匂いだ。臓腑に至っては鼻腔が勝手に塞がるほどに臭く、もはや匂いではない。単なる有毒ガスだろう。
顔をしかめながら、千景はポケットからサバイバルナイフを取り出すと、それでブラットの腹を割いた。案の定、腐った生ゴミを500倍くらい凝縮した匂いが充満したが、構わず切り進め溢れた臓腑の匂いをジャケットに染み込ませた。
ブラットはネズミだ。嗅覚は当然、人間より優れている。その嗅覚を駆使されれば狭い屋内では簡単に見つかってしまう。こうして匂いを誤魔化すことでそのリスクを軽減させるのだ。
血液や臓腑のぬめりでぐちょぐちょになり、鼻もバカになった千景は外観だけ見れば、腑から溢れでたかのようだった。無駄に背中に張り付いてくる血液の感触を気持ち悪く思いながら、千景は一階からさらに地下へと降りていく。
そしてB5階と書かれた扉の前で止まると、慎重にドアノブを握り、中に侵入した。
開錠、まず押し寄せたのはひどい下水の匂いだった。糞尿やヘドロの匂いが凝り固まって千景の顔面に直撃し、たまらず彼は鼻を押さえたまま後ずさった。一旦、扉を閉め、彼は息を吸い込み嗚咽を漏らした。
「くっさ。なんだよ、これ」
想像を絶する匂いだ。脱糞した便器に顔を突っ込んでもここまでひどい匂いにはならないかもしれない。慌てて包帯を鼻に詰め、口を覆い簡易的なマスクを作って千景は再び地下に再突入した。
中に入り、千景は左右を見やる。真っ暗で、先も見通せない暗さの道が左右に続いていた。思わず懐中電灯を出そうとポケットに手を入れかけたが、その光で周りにいるかもしれないフォールンに気づかれるリスクに気づき、すんでのところで思いとどまった。
かろうじてわかるのは正面に道が続いていて、かつそこがかなり広大な空間であるということだ。階段から漏れ出る光に照らされて、入り口付近だけがぼんやりと照らされていた。おもむろに振替って上を見上げると緑色のライトが照らされていた。非常灯だ。
「とりあえず、壁伝いに行ってみるか」
言い聞かせるように壁を伝い千景は進んでいく。床はぶかぶかとしていて、水が長年にわたって染み込んだからか、ふやけていた。おかげで何度となく倒れそうになった。
壁伝いに歩いてしばらくすると、何かにぶつかった。角に到達したかと千景は勘繰ったがそうではなかった。なんらかの機械であることに彼が気がついたのは意を決して懐中電灯でそれを照らした時だった。
「なんだ、こりゃ」
それは巨大な柱に似た機械だった。すでに機能は停止しており、ピストンに似たそれを見上げながら、千景はぐるりとそれを周り、天井を照らした。その機械は天井まで達しており、さらに別の機械と繋がっていてそれの表面には「H2」と書かれていた。よく見ると最初に出会した機械には「H3」と書いてあった。
「水力発電か」
ロジックタワーはその性質上、膨大な電力を消費する。それは一都市の電力では賄いきれないほどだ。だから独立した電力供給路を必要とした。そこで目が付けられたのが22世紀前半から行われた上水道の水圧利用による水力発電だ。位置エネルギーと運動エネルギーを利用した高効率の発電方法、山間部に位置している御殿場市の環境を考慮すればその有用性は明らかだろう。
無論、すべてのロジックタワーが水力発電というわけではない。あるものは第二世代型の核融合炉を使っているし、あるものは海洋に建設され、海流発電で稼働している。いや、していたとするのが適切だろう。
ことごとく、そのすべては日本が政府機能を失った時に停止した。今や稼働しているものはゼロだろう。その停止した塔の息を吹き返させる、と考えると自然と高揚感が溢れてきた。なんだかワクワクしてきたのだ。
さてどうするか、と千景は懐中電灯を消して周囲を見る。暗闇に目が慣れてきたおかげで最初に比べれば多少は周りの様子がわかるようになった。周りを見てもフォールンの気配もなければ姿もない。念の為にマルチウォッチのセンサーを確認したが、F.Dレベルは2.8と規定値内だった。
もしブラットないし、フォールンがいれば数値はもっと高いはずだ。ひとまずの安心を得て、千景は目当てのものを探し始めた。
目当てのもの、それはタービンを動かすための操作室である。サーバールームで調べた限り、この階層にあるはずだ。
しかし行けども行けども目当てのものは見つからない。階層を間違えたか、と思い慌てて入り口に戻るも、やはり操作板に表示された階であることは変わらなかった。
「んー。じゃぁこっちか?」
ため息混じりに千景は正面に向かって歩き出す。歩き出してすぐ、倒れた機械が千景の行く手を塞いでいた。見上げると、天井から落ちてきたようで、中からは腐った水の匂いが漂ってきた。
老朽化か、戦闘の痕跡か。なんにせよ、邪魔なことに違いはなかった。影槍で乗り越えようかと思ったが、すぐにその案は却下された。単純に影槍が回復仕切っていないというのもあったが、無駄に使うまでもなく迂回すればよかったからだ。
落下した機械を迂回し、再び千景は歩き出す。よく見ると他にも同じように天井から落ちてきた、あるいは床から生えていたものが倒れたと思しき機械が散らばっていた。中にはとてつもなく巨大な力で引きちぎられたような跡がある機械もあった。それらを通り過ぎ、ある場所で千景の歩は止まった。
「なんだ?」
それまで見えていた暗闇が急に真っ暗になった。何か巨大な壁が進行方向に割って入り、それは同時に強烈な悪臭を放って千景に不可視の攻撃を仕掛けてきた。
「——つ。臭っ。なんだよ、この匂い」
これまでとは違うすえた匂いだ。糞尿のそれとは違う磯の悪臭、泥風呂に入っている猪だってもっとマシな匂いであるに違いない。
たまらず遠ざかろうとするが、その直後、それまで壁だと思っていたものがわずかにだが、揺れた。思わず交代しようとした足を止め、千景は目を見張った。危険覚悟で懐中電灯でそれを照らすと、泥とヘドロにまみれた表面が顕になった。
灰色と茶色がまざった汚泥、ぬるぬるとしているが、流動性のかけらもなくこびりつき、体を動かしてもこぼれることはない。まるで動く石像のようだ。
よく見るとその灰色の塊は進行方向の間に割って入って通っている水路と思しき場所に鎮座していた。一部、欄干がない場所があったが、そこは対岸との連絡橋が架かっていたようで、崩れて瓦礫がその周囲に散らばっていた。
多くはわからない。だが、それがただの壁ではなく、何かの生物だということに気づき、恐怖からではなく警戒から千景は距離を取り、倒れていた機械に身を隠して遠くから懐中電灯の灯りを浴びせ、その全体像を把握しようとした。
「——なんだ、これ?」
直後、こびりついた泥を弾く瞬きと共に芍薬のごとく真っ赤な瞳が姿を現した。




