Fall
号令と共に千景と朱燈は走り出す。
死角からの奇襲を警戒し、二人は大通りに面した建物の屋上を走って渡った。周りの建物はどれも同じような高さで、目立った段差はない。ただ建物の間を飛び越える時、千景はその隙間の暗闇を凝視した。
ブラットは外見通り、ネズミがベースになっている。種類まではわからないが、大方都市に巣食うタイプのドブネズミだろう。そんなドブネズミの本来のテリトリーと言えば建物同士の隙間や路地裏など薄暗い場所だ。人の目が届きにくい暗闇の中からにゅるりと現れ、その中に引き摺り込む。暗闇を好むネズミらしい仕草だ。
だから建物の隙間からブラットが飛び出してこないか、と千景は汗を滲ませ、警戒した。待ち伏せなんて高等な芸当をやってくるブラットならば、トラバサミのように突然建物の隙間から現れることもありえない話ではない。
——いや、どうだろうか。
走りながら千景は逡巡する。
言ってはなんだが、ブラットの知能レベルはかなり低い。人並みの警戒心や学習能力はあるが、それはあくまで動物レベルの話で、待ち伏せを行ったりするほどではない。せいぜいが影に潜んでの奇襲が関の山だろう。オーガフェイスやオーガレイスがそうであったように、彼らはネズミ特有の知能の高さを受け継げなかったのだ。
稀に先祖帰りならぬ、ベース帰りをして頭の良い個体も現れるが、本当に稀も稀だ。なにせもっと手っ取り早い知能を取り戻す方法があるのだから。
「上位個体がいるのか?」
「え、なに?」
背後を一瞥し千景は迫るブラット達を観察する。オレンジ色の瞳を爛々と輝かせ、血に酔った彼らは猛然と本能が赴くままに突き進んでいく。しかしそのあり方はブラットとしてはややズレている。
本来のブラットはもっとずっと臆病だ。千景が暗闇を警戒したように、日中の都市に顔を出すような性格ではないし、まして自己犠牲とか我先にといった本能を優先するような生態ではない。無論、相手が自分達より弱いと踏めば情け容赦なく襲ってくるが、同族が殺されて次は自分かも、と想像しないような愚鈍ではない。
待ち伏せだってするだろう。しかし、あんな血に溺れた状態のブラットがするような芸当ではない。ただし、そこに上位個体の存在があれば話は別だ。
「上位個体?グラッテン?」
「スラットかもしれない。どっちにしろその可能性が大いにある」
四方に眼下に目を向けるが、そういった個体の存在は確認されていない。杞憂の可能性は大いにある。しかし、否定できる決定的な材料があるわけでもない。
「じゃぁ上位個体潰せば群れもどっか行く?」
「さすがにそんな単純じゃないだろ。酔いが覚めるわけじゃないからな」
「なるほど。じゃぁ予定通り」
「ああ、ロジックタワーを登るぞ」
建物の切れ目、大通りが終わりロジックタワーの前にT字路があるが、それを千景と朱燈は飛び越える。影槍を用いて道路を横断する二人はアーチの上に着地する。それを追ってT字路の影からブラットが現れた。数は最初よりも増えていて、百匹は近くはいた。
突撃するブラットの群れはグシャリとロジックタワーを囲むオブジェに激突し、直後、二人を追って垂直にオブジェを登り始めた。彼らの突撃する勢いは衰えるところを知らない。まるで重力など感じさせない動きで次々にオブジェに爪を立てて登り始めた。
登ってくるブラット達に注意を払いながら千景達もオブジェを登っていく。30メートルも登れば風も一気に強まり、横薙ぎの風と上層から吹きつけてくる風が交互に二人に殴りかかり、その行く手を阻んだが、それに物怖じする二人ではない。
朱燈は体を二本の影槍で固定し、千景は影槍の長さを縮めて吹き飛ばないように二人はそれぞれ工夫してその風の猛威に対処した。対してブラット、彼らに影槍はない。その四本足に生えている爪をオブジェに食い込ませて必死に風で飛ばないように踏ん張るが、それは千景達がより上層に登るにつれて無意味と化した。
吹き付ける風がブラットを抱き攫う。突風はブラットの体をオブジェの上からふわりと浮かし、次の瞬間彼らは風の吹く方向めがけて飛んでいった。
60メートルも過ぎれば風は一層激しさを増す。元々、ブラットの体重が軽いことを考えれば命綱なしの登攀は自殺行為でしかない。高所の強風に煽られ、手を離せば即座に真っ逆さまに落ちていく。
ぐちゃり、ぐちゃりと落ちていくブラット達を覗き込みながらふぅ、と千景はオブジェの一角に腰を下ろした。80メートル付近、風自体は依然として二人に吹き付けているが、安定した場所で腰を下ろしている分には重心は固定されて吹き飛ばされる心配はない。
「いい作戦を考えたなぁ!!これなら休みながら敵が自滅するのを待ってるだけでいい!!」
強風のせいで声は届きにくい。必然、声を張る必要がある。投げかけた千景の声に朱燈はまぁーねーとこちらも大声で反応した。
高所に行けばブラットは強風を受けて吹き飛ばされる。
「にしたって、なんで登ってくるのかなー!!いい加減あきらめればいいのに!!」
「無理だな。酔ってる!!」
「酔ってるって!?」
「えーっと。頭がぐわんぐわんって混乱している状態、かなー!!??」
酔ってる、という表現はそのままその通り、眼下のブラット達は一種の酩酊状態にある。まるで強い酒でも浴びたかのように彼の目は焦点が合わず、気味の悪い喉声を混ぜてチューチューと鳴いた。
不快、不愉快、なによりむせかえるような臭いが上昇気流によって漂ってくる。ほとんどはドブの匂いだが、その中にほのかにだが鼻腔に直撃する刺激臭に千景は眉を顰めた。
「これは……汗?いや、なんだろう」
嗅いだことがある匂いだ。ただしそれはここ最近の出来事ではない。
もっと昔に嗅いだ匂いだ。何かを食べた時に嗅いだ匂い、白くて柔らかいブロックフードではないものを食べた時に嗅いだ匂いだ。
「なんだっけ。確か、砂糖、菓子?」
脳裏によぎった白い物体を医者はそう呼んでいた。極めて入手がしにくい、特殊な食べ物だと彼は言っていた。
「——昔はなんてことない食べもんだったんだがね?」
それは美味しかった。味もさることながら、匂いがするというのが画期的だった。鼻腔をくすぐる脳を蕩けさせる空いた匂い。舌先で震えるそれに耽溺したのを今でも覚えている。
だが、今嗅いでいる匂いは微妙に違う気がする。甘い匂いであることに変わりはないが、もっとキツい。例えるなら香水の香りが近いかもしれない。匂いを消すために朱燈や嘉鈴をはじめとした女性の傭兵が使うものとは違う、匂いをつけるための香水、サンクチュアリの上級行政官が付けているようなヤツだ。
「それが操っている?いや、それで操っている?」
「ねぇー、千景ー?」
「なぁ朱燈ー!!!」
「んー。なにー!!」
「この匂いってさー」
声をとどかせようと視線を朱燈に向けたその直後、突如として千景に向かって朱燈が突っ込んできた。左手で彼の胸ぐらを掴み、オブジェから真っ逆さまにダイブするという凶行に走る朱燈に千景はたまらず目を白黒させた。
裏切り、混乱、気まぐれ、様々な思惑が脳裏を一瞬のうちに駆け巡る。そのどれもが一瞬の内に否定され、強風の中、現実を受け入れるために千景は目を見開いた。
直上、それはいた。さっきまで千景が座っていた場所からにゅるりと黒い毛むくじゃらの影が現れた。伸ばされた老婆のごとき萎びた右手をしまい、それは醜面をあらわにする。
現れたのは眼下のブラット達同様、先端が曲がった鼻が特徴的な仮面のフォールンだ。ただしこちらは頭部に王冠めいた飾りがあり、耳はブラットより一回り小さく、体躯は一回りも二回りも大きい。下顎は大きく膨れ上がり、一切の毛はなく、まるで水膨れした皮のようにブヨブヨしている。
腹回りにも体毛はなく、ちょうど人間でいう大腸のあたりの巨大化した乳房が二つ、左右に一つずつ見えた。そればかりか、人間でいう胸のあたりに形は似ているが、こちらは乳輪がいくつも突起のあるスーパーボール並みに生えている色が濃い袋のような何かが見えた。
それは眼下のブラット達同様、オレンジ色の瞳を爛々と輝かせて千景と朱燈を睨んでいた。ガチガチと歯を鳴らし、のそりのそりと緩慢な動きで影の中からその巨体が浮かび上がる。
よく見れば背面には仮面を構成する白い物質と同じ色の棘がびっしりと生えていた。棘と表現するかそれとも甲羅と表現するか、正しい表現方法はわからない。しかし、既存の生物とは異なる特殊な器官であることは明白だった。
「スラット……!」
現れたフォールンの名前を千景は舌打ちまじりにこぼす。スラットはオブジェの中からのっそりと現れると、四つん這いになってその表面に躍り出た。上と下、双方から千景達を挟み撃つ姿勢だ。
なるほど、頭がいい、と千景は苦笑いを浮かべた。
スラットはブラットのメス個体が進化した姿だ。階級は中位。ブラットやオーガフェイスのような小型の下位種、その中でも群衛種という種別のフォールンを統括する個体を群統種と呼ぶが、スラットはその中でも珍しいF器官持ちとして広く認知されている。
そも、スラット自体がだいぶ珍しい個体だ。大抵のブラットはオスが群れを支配しており、その中でもとびきりの個体がグラッテンという上位個体に進化する。こちらはこちらでスラットよりも体躯が大きく、超過激なインファイターとして知られている。
「——なるほど、真下のあいつらはスラットの催淫効果でああなっているのか」
「さいいん?」
「まーようするにのぼせてる状態かな」
スラットの胸部にある器官、それは背中の棘だか甲羅だかわからないF器官内で生成された特殊な物質を気化させてあたり一帯に撒き散らす効果がある。それは麝香のような効果を持ち、嗅いだ対象に強力な媚薬効果をもたらす。要は気が立った状態にさせることができるのだ。
もっとも、その効果は同種くらいにしか効果はない。ある種のフェロモンのようなもので、ハチの放つフェロモンがトンボやアリ、カブトムシなどに効果がないように、生物的にかけ離れた存在にとってはただの甘い匂いでしかない。だから千景達には媚薬効果はない。
「さーてどうするかな。ちょっとキツいか?」
ライフルを使えば撃破は用意だ。絶命させるまでもなく、両手なり、両足のどれかに傷を負わせればそれで勝手に落ちてくれる。問題は弾数と足場だ。残り少ない弾丸を節約する必要があるのは言うに及ばず、不安定な足場で強風が吹き荒れる中、そんな正確な狙撃ができるかという話でもある。
やれないことはない、と経験から千景は即言する。今、捕まっているオブジェよりもはるか上空で戦闘を繰り広げたこともある身の上だ。たかだか風速十数メートル程度、臆するに値しない。
「よし、朱燈。あいつは俺がやる。その間」
「ちょっと待った。ねぇ、千景。あんたなんか言い忘れてることない?」
「え、なに?」
「お・れ・い!!あんたのこと助けてあげたでしょ!?」
ぐぅ、と千景は唸った。
紛れもなく、スラットの爪から千景を救ったのは朱燈だ。彼女の反射神経がなければ今頃、千景はガブリと頭が噛み砕かれていた。それを考えなかったばかりか、あまつさえ助けてもらった恩を忘れていた事実に千景は羞恥心を覚えた。
「いや、ほんと。——ありがとうございます」
千景はおずおずと礼を言う。羞恥のあまり、赤面してしまうほどに自罰的になりながら。
「よろしい。次からは言われる前に言ってほしいなぁ!!」
「おっしゃる通りでございます」
「それで?」
「それでとは?」
「さっき、なんか言いかけなかったっけ?」
言われて千景は思い出したかのように、我に返って先ほど言いかけた話の続きを話した。
「俺があのスラットを地面に叩き落とすから、その間、下のブラットが動かないか、見張っててくれ。もしヤバいって感じたら、拳銃で」
「はいはい。ラージャ」
右の内ポケットから朱燈が取り出したのはいつも彼女が愛用している50口径の自動拳銃ではなく、千景がわたした9ミリ弾用の自動拳銃だ。威力も前者に比べてやや劣る。
「あれ、いつも使ってるやつは?」
「え?あーうー。うーん。いやーあはははは」
取り繕うような空笑いをする朱燈。彼女の目は気まずそうにどこかへ泳いでいた。
まぁいい、と瞑目し、千景はスラットに向き直る。人間とサイズの上ではほとんど変わらなくとも、足場が不安なのか、その動きは緩慢だ。千景達が無駄話をしていても、それほど近づいてはいない。影槍の機動力には遠く及ばない。
——やるか。




