run through the City Field
目を覆いたくなる光景に千景はたまらず舌打ちをこぼした。眼下を見れば、黒、黒、黒。無数の黒い毛むくじゃらの生物がひしめき合い、大通りを埋め尽くしていた。
それは子供ぐらいのサイズで、全身が黒い毛むくじゃらの生き物だった。腕は餓死寸前の老爺より細く、足は水脹れをしたかのように太い。垢まみれ、フケまみれの不衛生な爪と歯を覗かせ、肥大化した頭部をグルグルと回る瞳は爛々と輝いて悍ましさを加速させる。
左右の円形のおおきな耳からは液化した耳垢が溢れおち、それは時に隣の仲間の目に、口に、あるいは鼻にかかり、黄ばんだ液体を被った仲間は怒ったのかチューと気味の悪い不愉快な鳴き声尾を上げて無礼を働いた個体に食いつき、人間さながらの血みどろの争いを繰り広げる。
長く曲がった鼻は魔女の鼻のよう。それをスッポリと覆うように白い、しかし汚れた仮面をかぶるそのフォールンはネズミを彷彿とさせる外見と鳴き声でこちらに更なる不快感を与えてくる。
ブラット。
黒い毛むくじゃらのネズミ型のフォールンはそう呼ばれている。廃墟群などに棲みつき、人知れず勢力を拡大し、時にサンクチュアリ内にすら侵入するフォールンだ。外見は二足歩行するネズミという表現が正しく、基本は四足歩行だが、二足歩行もできるという極めて汎用的な歩行ができる。
特段目立った能力はない。F器官はないし、体も150センチに満たない個体がほとんどで、一体一体の力はそこまでだが、数が集まれば脅威は並の上位種以上だ。ある小規模サンクチュアリを攻め滅ぼしたことがあるほどにその脅威は恐ろしい。
それが目の前で、溢れんばかりの大軍勢で現れたというのはなかなかどうしてひどい冗談だ。もしこの場に神様がいたなら顔面を粉砕し、その群れの中に手足を切り落として突き落としていたことだろう。
目の前に溢れた群れを見て、なるほど、と千景は得心がいった。朱燈が前にいたせいであまり良くは見えなかったが、彼女が覗き込んだ建物の窓は中から外へ向かって壊れていた。中にいた何かが外に出るために窓を割ったということだ。そうなると必然的に中に突然何かが現れたことになる。外から入ってきた何かならばもっと屋内に窓ガラスの破片が飛び散っているはずだ。
その何かの正体はずばりブラットだ。下水道を通って侵入したブラッドの群れがこの周辺のビル群で暴れ回ったのだろう。
どうしたものか、と40は軽く超える眼下のブラット達を見やりながら千景は思考を走らせる。
ブラットを引き連れたままロジックタワーに入るのは非常にまずい。ロジックタワー内にあるだろう衛星通信用の設備が壊される可能性が大だ。
「いや、いや。くそ。また炎使うか?こんな近くで?」
ロジックタワーの近さを考えれば悪手だ。塔そのものは燃えずとも、中の電子機器が故障する可能性がある。そも、コンクリート製のビルばかりの市街では炎だって燃えない。
「千景どうすんの!?」
「今考えてる!」
このまま屋上にいるという選択はない。建物の外壁にある無数の傷跡はブラットが登った跡だ。オーガフェイスのように壁面をすいすい登れる相手に対して高所に逃げたら安全というのはいささか安直にすぎる。
「いっそ」
狼狽える朱燈を千景は一瞥する。彼女の戦闘力は片手を失っても十二分に高い。片手だけでも十分戦えるし、もしそこにライフルが加わればその戦力は飛躍的に増すだろう。
別にロジックタワーに到着する人間は一人でもいいのだ。マルチウォッチを持っている人間なら誰でも。ならば、と千景はライフルをおろし、銃床を朱燈に向けようとした。
しかし彼がライフルを向けるよりも早く、朱燈が動いた。向けようとした銃床を彼女は受け止め、ロジックタワーを指差した。
「ねぇ千景。ロジックタワーって何メートル?」
「ん?489メートルだけど」
「全部ガラス張り?」
「見りゃわかるだろ、んなわけないって」
ロジックタワーはその周りを行使上のオブジェが螺旋を描いており、そのオブジェは大体地上300メートルぐらいまで続いていた。塔自体も別にガラス張りというわけではなく、地上280メートル以上からがガラス張りになっているに過ぎない。地震大国日本でガラス張りの建築物を作ることはほぼ不可能に近い。
千景の返答に朱燈は笑みを浮かべる。さっきまでの狼狽えている様が嘘かのように得意げに笑う彼女はまっすぐ、ロジックタワーに向き直ると一直線にその方向目掛けて走り出した。その後ろ姿を見て、やらんとするところを察した千景は慌ててその跡を追った。
千景と朱燈が移動するに従って、それまで建物に群がっていたブラットも彼らを追って移動を始めた。まっさらだった大通りを黒く染め、退去して押し寄せるその姿は生きた黒波のように見えた。
振り返ればよだれを垂らし、眼孔をカッと開いて、同胞の頭を踏み潰しながら進む悪羅の姿が見える。その速度は千景の予測よりもはるかに早く、影槍を用いた全速力で進んでいるというのに一向に振り払えない。それどころか、背後から強襲したりもしてくるのだからタチが悪い。
「ちぃ!!」
舌打ち混じりに襲いかかってきたブラットの下顎を蹴り飛ばし、千景は影槍でその体躯を串刺しにする。勢いを保ったまま、空中で回転し、穂先に突き刺さったブラットを前方のプレート看板目掛けて投げつけた。看板に叩きつけられたブラットはぐちゃりと潰れ、そのまま息絶えた。
「邪魔!!」
二本の影槍が空を泳ぐ。片方は建物の屋上に突き立てられ、朱燈の体を固定し、もう片方は迫るブラットの体を掬い上げるようにして下から上へ、振り上げられ、軸線上にいたその矮躯を真っ二つに寸断した。二つに分かれたブラットはそのまま朱燈の左右をすり抜け落下し、路傍の染みと化した。
一体一体の強さは大したことはない。徒手空拳で、あるいは影槍で十分に対応できる。しかし、絶対的な数はどうすることもできない。
一体、二体を潰したとて群れは止まらない。むしろ血の香りに酔って、一層勢いを増して迫ってくる。まるで酔漢のように。
「けど。なんとか」
「うん。このまま行けば」
正面に向き直り、千景と朱燈は影槍の伸縮速度を上げた。影槍での移動は総じて二種類あり、一つはターザンさながらに遠心力を利用して空に向かって投げられるようにして行う移動だ。移動距離は長いが速度は出ない。平時ならいざ知らず、絶賛逃走中の有事ならばまず使わない移動方法だ。
現在千景と朱燈が行っているのはもう一つの移動方法。影槍を突き刺した方向目掛けて収縮させることで凄まじい速度で移動する。影槍の収納能力を利用した移動方法だ。これに加えて二人は完全に影槍が自身の腎部に収納される前に突き刺した場所から影槍を外し、再び別の箇所目掛けて射出している。その移動速度は平時の倍以上だ。
ただし弱点もある。移動速度は速いは速いが、何度となく伸縮を繰り返す溜め、燃費はすこぶる悪い上に進行方向は限定される。一度影槍を固定してしまえば近づかない限り、重心や力点などの理由から影槍は引き抜けない。
——つまり、影槍を用いた即応能力は限りなく低い。
刹那、朱燈の側面から強襲をかける黒い影を千景は視界の端で捉えた。それまでは見なかった個体、一体いつから建物の中に潜んでいたのか。窓の暗闇から突如として現れた個体は大きく口を広げて朱燈に襲いかかった。
——それに朱燈は対応する。
余っていた影槍を振るい、迫るブラットを縦薙ぎに切断した。一本の影槍では対応しきれないが、二本の影槍を持つ彼女にのみ許された高速移動時の迎撃方法。そも、普段は三式帯熱刀があるため、影槍で迎撃などしないが。
薄く細い。それゆえに速度が乗りやすく高い切れ味を持つ影槍の一撃はそれだけで軸線上のブラットを寸断する。カパッと開いた体躯を一瞥することもなく朱燈は立ち去ろうとした。
——その彼女を引っ張ったのは紛れも無い千景だ。
直後、朱燈の胴体があった場所にブラットの頭部が現れた。それは大きく口を開き空中でバンと上下の顎を交錯させた。噛み損ねた、と忌々しげにこちらを睨むオレンジ色の眼光が千景の双眸と交錯する。
「SHHHHHHHH!!!!!!」
「ツッ。ぐっ!!」
振り下ろされた爪、それが千景の左腕に引っかかり、しめたと思ったかブラットは再び噛みつこうと口を開いた。回避する暇はない。
苦悶に表情を歪ませ、千景は反射的に左手をブラットの口の中に突っ込んだ。どろりという艶かしい感触が掌に伝わりる。手探りで千景が何かを探そうと掌を開いたその直後、彼の上腕目掛けてブラットの大顎が振り下ろされた。
その激痛が左手に走り、千景は歯軋りをする。クソ、という悪態をつく余裕もない。それでも開いたままの手で目当てのものを見つけると、それを握りしめ、力の限り引き抜いた。
「QEWWWWWWWW」
引き抜かれたのは舌部そのもの。爪を突き立て引き抜かれたそれを放り捨て、落ちていくブラットを一瞥しながら、千景は揺り戻しのように痛み出した左手を庇った。
ヴィーザルの戦闘員用の防寒ジャケットは下位種程度の爪や牙は防ぐことができる防刃機能がある。それでも何度も傷つけられれば繊維は痛むし、機能は低下する。
どくどくと肌が裂けて血が流れ出る。肉の表面を少しばかり削られただけ、神経が切られたわけでもないが、とにかく痛い。久しく感じていなかった痛みに表情を歪ませ、しかし千景は笑みを無理やり作った。
「千景!」
「だいじょーぶ。それよりすぐに移動するぞ。すぐ目の前だろ、ロジックタワーは」
健在をアピールするため、敢えて左手でロジックタワーを千景は指差した。事実、ロジックタワーは目の前だ。少し走ればすぐに辿り着ける。
痛いは痛いが、我慢はできる。出血も微量だ。影槍を動かせば手足が動かなくても移動はできる。
——何より、格好悪いだろ。大の男が女の子の前で泣き喚くってのは。
狙撃の師匠の言葉を千景は脳裏で繰り返す。曰く、人間は守りたいものの前で泣いちゃだめなんだ、と。泣くくらいだったら、顔を上げて天に唾吐け、というのが彼が受けた教えだ。
「——泣くくらいならてめぇの唾でごまかせ。そうすりゃ涙も引っ込むだろうよ」
なにより。
「無力よりも神様への怒りが湧いてくるだろ?」
ひどい他責論、旧時代の宗教家が聞いたら総スカンを喰らうだろう。きっと孔子やブッダだってここまで酷い説法はしない。特にこんな時代では。
けれど、いい論だと思った。自分ではどうしようもないことに嘆いたりするよりも、行動の原動力が湧いてくる。こんな目に合わせたクソ使い物にならない口だけの神様に全部押し付けてしまった方が次はうまくやろう、というモチベーションが出る。
「いくぞ、ロジックタワー」




