御殿場市へようこそ
「いや、富士良瀬じゃねーのかよ」
街へ足を踏み入れ、立ち止まった千景は開口一番、そうぼやいた。彼の目の前には旧時代の街の地図があり、そこには原里地区全体マップとあった。
地図には郵便局と市民公園、小学校、そして公園に隣接している中学校が表記されている。現在地は赤い点で示されていて、その近くには公園があり、その奥には遠目に中学校の校舎が見えた。
公園は中央に幹が太い大樹が生えていた。周囲を覆うほどに大きなそれは樹高30メートルはあり、放射線状に広がった樹脂の上に生えた枝葉が木漏れ日すら通さないほど深く、深く生い茂り、暗い影を公園一帯に落としている。太い幹、たくさんの枝、青々とした照葉とくれば、根も大きく太い。石垣を軽くぶち破り、公園の隅々まで、果てはその外まで広がる樹根はその道中の遊具や草花、樹木を飲み込んで独特の世界を形成していた。
周りに見える建物は一軒家が多く、二階建てがほとんどで三階建はまったくと言っていいほどに存在しない。そもそも遠目に見たロジックタワーとその周辺を除き、いわゆる高層ビルや高層建築物というものを千景は見なかった。
通りを見れば道ゆく先にある家屋はいずれも荒々しく破壊され、電柱は倒れ、道は割れていて、フォールンによる襲撃を受けたこと伺わせる。倒れた電柱はすでに死んでおり、道の上に崩れ落ちた電線を踏んづけても感電することはない。ひび割れた道路の切れ間からは飛沫が迸り、濡れないように避けるのに一苦労した。
足を踏み入れ、少し散策してわかったことだが、この街は広いことには広いが、決して発展した街というわけではない。むしろ寂れているという表現が適切かもしれない。ロジックタワーを目指す道中、より一層それを実感し、なんだかな、とやるせない気持ちを千景は覚えた。
20年以上も昔、旧時代と今では呼ばれる人類の黄金期を今の人類は夢見るが、その実態は果たして黄金なのだろうか。
古めかしい街並みはまるで時が止まってしまったかのようだ。道を曲がって顔を出した町工場のような場所はひどく錆びつき、入り口はチェーンで閉じられていたのか、だらりと入り口の片側から垂れた鎖が足元に落ちていた。少し離れた場所には鉄製の看板が落ちていて、拾い上げるとそこには「操業停止」と書いてあるのがかろうじて読めた。
似たような店構えの建物はいくつもあった。なんたら商店街と書いてある看板の前を通った時、いくつもの店のシャッターが降りていた。その商店街は天井に穴が空いていて、穴を通ってぼんやりと日光が中を照らしていた。
町工場などは苔まみれ、雑草まみれで、道の左右に見える家屋の何件かからは屋根を突き破って幹が曲がりくねった木が生えている。中には家屋そのものを持ち上げてしまっている大樹もあった。
千景が歩く道には人気はない。人の死骸も血痕もない。代わりに得体の知れないキノコや巨大化した樹木が所狭しと生えていて、苔や雑草が道路の割れ目から顔を出していた。かつての人類が生きた面影はなく、まるで違う別世界に来たような異質感がこの街にはあった。
「なーんか、懐かしさも感慨もないな」
「なにそれ?」
少しだけ元気のない声に千景は足を止め、通り沿いでひっくり返っていたソーラーカーの上に朱燈を下ろした。額に手を当て、次いで手首に触れて熱と脈を測る。
「ちょっと熱が高いか?」
「はぁー、ちょっと息苦しいかも」
そうみたいだな、と声音を押し殺して千景は応える。
熱が高い。脈拍も荒れている。汗も出ている。ただし咳はない。素人判断でもわかるくらい典型的な風邪の症状だ。咳なんかをしないだけマシではある。
「解熱剤でもあれば多少はマシなんだがな」
「そういうのはいいから。早くロジックタワーに行ったら?」
「そろそろ日が落ちる。早めに寝床を探さんとまずい」
千景が危惧しているのはフォールンだけではない。夜になれば気温は5度を切る。ここが山と山の狭間にあるのなら、気温は周囲と比べて数度から10度近く下がることは十二分にありえる。
幸い、周りを見てみれば雨風を凌そうな家屋は山ほどある。ひょっとしたら布団なんかも残っているかもしれない。久方ぶりに寒い思いをしなくて済むぞ、と千景は朱燈を鼓舞した。
「そいつはいいね。早くみつけよ」
そう言う朱燈は重そうに瞼をパチパチとさせる。眠そうに見える彼女は、ん、と手を差し出し、千景に手を貸すように求めた。その手を握り、千景は彼女を背中に背負い、いい場所はないか、と家屋を探し始めた。
意外にも家屋自体はすぐに見つかった。近くに穴が潰れたコンビニエンスストアがある好立地の建物で、二階建て、建物自体の破損も少なくガタガタと床が揺れることもなかった。
恐る恐る中を覗き込み、フォールンがその中にいないか、千景は目線を左右に揺らす。一階の調査を手早く済ませ、二階に駆け上がってそこにもフォールンがいないかを確認した。
どこにもフォールンがいないとわかり、ふぅと千景は息をこぼした。その後、屋根裏や床下を探ったが、やはりどこにもフォールンの気配はなかった。
「なんとか、かな」
「いいことじゃん。いやー快適快適」
腰を下ろす千景に対して、先ほどとは打って変わって元気な声で朱燈は労いの言葉をかける。振り向くと朱燈は水を飲みながらこの家の押し入れから引っ張り出してきた布団にくるまっていた。一枚二枚ではない。見つけてきた掛け布団や毛布を片っ端から自分の周りに敷いて、それをさながらミノムシのように着込んでいた。
首には冷却シートが貼られており、手元にはタオルに包まれたカイロがあった。いずれも千景がコンビニから見つけてきた代物だ。どろぼーと朱燈はやじったが、千景はいいんだよ、とそれを受け流した。なんならコンビニの近くにあった薬局から解熱剤をちょろまかしたのは千景ではなく朱燈だ。
冷却シートやカイロの他にもいくつか、使えるかわからないライターやガーゼ、ハサミ、消毒液、懐中電灯、電池など、色々なものがビニール袋の中に入れられていた。それらを古めかしいちゃぶ台の上に並べ、次いで彼が取り出したのは円柱上の物体だった。
「なーにそれ」
「缶詰。賞味期限は、まぁ大丈夫」
千景が取り出したそれは15個の缶詰が重ねられてひと束になっているセット商品だ。ビニールの包装を破り捨て、その中の一つを取り出し、缶切りでそれを開けると中からほのかに何かの香りが漂ってきた。
「何の匂い?」
「えーっと。サバって書いてあるっぽい」
これがサバの匂いか、と朱燈は興味深そうに缶詰の中で汁に満たされている茶色い食品を覗き込んだ。揺らすとチャプチャプと汁が跳ねる音が聞こえ、香りがより強くなっているように感じられた。
缶詰の中には五つの「サバの切り身」が入っていた。切り身がなんなのか、千景はわからなかったが、多分この魚の肉の塊のことだろうと考えた。
恐る恐る千景はプラスチックフォークをサバの切り身に突き刺し、口へ運ぶ。舌先に触れるとまず感じるのは「味噌の味」だ。やや濃いめ、しかしこういう状況では濃い味付けの方が腹にたまる。次いで押し寄せた「魚の味」、それはこれまで味わってきた「魚味のブロック」とは違う何かを感じさせた。ずっしりと魚の旨みが舌に伝わり、咀嚼し、嚥下する。
肉とは違う感覚に千景は目を丸くする。さっくりと歯で割れて、咀嚼するたびに魚の身の隙間から旨みが汁と共に溢れてくる。嚥下すると同時にずっしりと腹に確かな重みが落ちていき、それとは別に口の中にいっぱいの旨みが広がっていった。
「これが、魚」
「美味しい?美味しい?匂いは美味しそうだけど」
「食ってみれば?」
身を乗り出す朱燈はパクパクと釣り堀の鯉のように口を動かす。片腕がないから缶詰を持てても取り上げることができないのだ。
嘆息し、千景は残った切り身をフォークで刺し、朱燈の口に放り込んだ。もぐっと可愛らしい擬音が聞こえるくらい期待で頬を膨らませてフォークを飲み込んだ朱燈は、直後これまで見たことがないくらい目を輝かせ、咬合力だけで千景の手からフォークを取ると咀嚼しながら、ペロペロとフォークに絡みついた汁を舐め始めた。
絡ませた舌は器用にフォークの汁を掬い取り、その都度彼女は両目を閉じて咀嚼する。口腔を閉じ、舌で何度となくその上の切り身を味わい、何度となく声にならない声をあげて、肩を左右に揺らした。
「——うんま!!」
「な。いいよな、魚」
朱燈は満面の笑みを浮かべて、美味しかった、と訴える。そいつはよかった、と千景ははにかみ、缶詰のふたに残った三つの切り身の内、二つを取り出し朱燈の前に差し出した。
「え、いいの?」
「病人が栄養をいっぱい取るのは常識だろ。それにここまでくれば俺がいな」
「アホなの?さすがのあたしもそこまで意地汚くないって」
不快そうに朱燈は顔をしかめる。直後、彼女は持っていたフォークで切り身の一つを半分に割った。
「ほら、これで半分こでしょ。つまんないことやってないで千景も食えば?」
「どーも。にしても、あるところにはあるものだな、まだ」
「それってその缶詰とか?」
切り身を咀嚼しながら朱燈はフォークを持っている手で器用に千景の後ろにある缶詰セットを指差した。ああ、と千景は首肯する。
現在では食糧事情の変化から、多くの人間が口にするのはブロックフードだ。味の再現だけに注力したそれ以外には文字通り味気ない合成食品で、無臭な上食感は全部同じという体たらくぶりだ。生産が容易だから、という理由は千景も理解できるが、時折市場に下される天然食品の数々を味わってしまうと一気にその味だけの食品が陳腐なものに見えてしまう。
天然食品も天然食品で、市場に下されたものはパサパサしていて、みずみずしさがない。料理に加工されていれば多少はそういった瑞々しさも戻るのだが、そういったケースは稀だ。
対して缶詰は?
もちろんこれだって旧時代の人間からすれば大してうまくはないのだろう。あるいはリッチな食品というわけではないのかもしれない。しかしこの時代を生きる人間からすれば値千金の一品だ。有体に言えばすごく美味しく感じられる料理だ。
「他には何があるの?」
「いろいろ。豚とか牛、鳥、あとこれはサンマ?サンマってなんだ?」
「イラスト的には魚っぽいけど」
缶詰の横に描かれた魚のマークを指差し、朱燈は「どんな味なんだろ」と千景に問いかける。あいにくと千景も缶詰自体そんなに食べた経験はない。彼の食べてきた缶詰のレパートリーにサンマはなかった。
「食べてみたい気もするけど。まぁ明日に持ち越しかな。今日はもう寝よ」
「オッケー」
「一応扉は閉めるぞ」
窓をカーテンで閉め、その上光が漏れないように襖を被せているから、中に誰かがいるとフォールンに気取られる恐れはないに等しい。それでも例えば缶詰や人の匂いを嗅ぎつけられれば色々と面倒だ。
万が一を考え二階に通じる階段にはバリケードを設置した。二階の他の部屋の窓もカーテンがあるならカーテンを閉め、ないなら襖で塞いだ。
暗闇の中、光源は懐中電灯一つだけ。それを天井に向け中を照らしていたが、それも千景がスイッチを切ればパッと消えた。幸い、電池はまだ生きていたようだ。
「おやすみ」「やすー」
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