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Vain  作者: 賀田 希道
不思議な国の話
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希望へ向かってレディ・ゴー

 朝、山の尾根越しに指す日光で千景は目を覚ました。


 鼻腔をくすぐる朝露の香りと喉をぬるりと伝う生暖かい唾液の味で目を覚まし、目頭を撫でる朝の日差しは一度開いた千景の瞳を再び閉ざした。視線を遮り、天井を見上げ、背中を壁から離して自分で立とうとしたその瞬間、おっととと千景はバランスを崩して前のめりに倒れかけた。


 トイレの入り口に立ち、背中を壁に預けたまま寝ていたからか、目が覚めるとまず両足に走る痺れが足の裏から脛にかけて伝わり、目覚めて早々、千景はぉおお、と鎮痛な表情を浮かべてその場にうずくまった。意識すると余計に痛み、血の巡りをよくするために屈伸を繰り返す。


 何度か繰り返すと足の裏の痺れも取れてきて、スーっと両足を包んでいた不愉快な感覚が引いていった。それまでは足を動かすたびに変な声をあげ、言い表せない羞恥によって顔を赤くしていた。


 おかげで絶妙に感じていた眠気もいい感じに取れ、凝り固まった肩の肉をほぐすために千景はうんしょと大きく天井に向かって両手を伸ばした。体全体の筋肉が上向きに引っ張られる時、気持ちよさから思わずうーんと上擦った声が漏れ、人知れず千景はうへぇ、と自己嫌悪を覚えた。


 「って、こんなことしてる場合じゃないか」


 楽になった体をブンブンと振り回し、千景は朱燈を起こすため、彼女が寝ているトイレのドアを開けた。中では朱燈がスヤスヤと眠っていた。多少、汗はかいているが肌艶は昨日の目が冷めた時と比べればマシというくらいにはいい。寝る前に食事を取ったからだろうか。


 寝ている姿はまさに可憐な乙女そのものだ。目鼻立ちは元々整っている方ではあったが、しかし泥中であってもなお衰えず、異質さを感じさせたまらずその肌をなでたくさせる。長い眉毛に、きゅっと引き締まった唇、その全てに触れ、愛おしみたくなる。


 だが、目と口を開けばその実態はいらないことしか言わないクソガキだ。日がな一日オーバル端末を片手に椅子に腰掛け、食っちゃ寝をしているだけの駄馬でしかない。できることと言ったらフォールン退治くらいで、それ以外にできることがマジでなにもない。


 ——ぶっちゃけ起こしたくないなー。


 彼女の肩に伸ばした手を引っ込めたくなりながら、辟易したように千景は嘆息する。ここまでおぶってきた時は彼女のことを大事に思えたものだが、いざ目覚めて口を開いてギャンギャンとあれこれ言われ始めたら、なんだかそういった甲斐甲斐しい気持ちとか、博愛精神とかも根こそぎ削ぎ落とされていったような気がした。朱燈に抱いていた憐憫やらの気持ちが音を立ててガラガラと崩れようとしていた。


 やっぱり起きる前に背負うか、と千景は回れ右して、便座に座っている朱燈の細い腰へ手を回し、そのまま背中に乗っけようとした。直後、後ろから伝わった強い衝撃によって千景は前のめりに倒れ、トイレの床と熱烈な接吻を交わした。


 「なにやってんの?」


 不愉快だ、とばかりに千景を蹴った張本人は彼の尻に片足を下ろし、文字通り足蹴にして千景を睨みつけた。


 「いや、起きそうにないからもうこのままおんぶしようかなって」

 「起きてるっての、バーカ。てかさ、あんま喋らせないでよ、頭痛い重い吐きそ」


 なんならあんた背中に吐いてみせよかっと朱燈が言い始める前に千景は距離を取り、ほら、と仏頂面を浮かべながら彼女に手を差し出した。差し出された手の手首を朱燈は握り、上体を起こした。無論、便座から。


 「ん……」


 不意に艶かしい声で朱燈は顔を赤くする。上気しきってなおわかるくらいに赤い耳たぶを隠し、彼女はおもむろに右手で足首に触ろうとして、その様に顔をしかめた。


 「ぁあ。ずっと便座の上に座ってたからな。足が麻痺してんだろ」

 「なんで、便座なんか座らせたのさ!」


 「トイレの床の方がいいか?」


 そう言って千景はたんたんと足元のタイルを靴で軽く踏み、ステップを刻んだ。長年放置され続け、ところどころ腐食している上に変な雑草まで増えている。水を多分に吸って変色し、触ったら変なウイルスに感染しそうな独特の異臭まで放っていた。


 それに比べればまだ便座の方がマシだと言える。異臭を放つのは変わらないが、便器に顔を近づけなければ臭ってはこない。便座カバーがないせいで腰掛けようと思ったら便座に直接臀部を下す以外に方法はないが、別に直接肌を晒すわけではないのだから、そこまで声を荒げることもないだろ、と千景は嘆息する。


 確かに誰だって一度は便座に座ったまま長い時間、オーバル端末を覗いていて足が痺れたことがあるだろうが、そんなものはすぐに治る痺れだ。それを説明してもどーせ納得しないだろう、と千景は結論づけ、悪かったと空返事でを返した。


 不満げな顔を朱燈はそれでも浮かべ続けるが、きっぱりと無視して千景は腰のポーチから今日の分のレーションを取り出し、半分を朱燈に手渡した。手渡されたレーションはusbメモリくらいの長さしかなく、とてもボソボソしていた。熱に浮かされている朱燈でも噛み切れて、彼女が噛むたびにクズが飛び散った。


 「大事に食えよ、今日の分なんだから」

 「ねー、また狩りにはいかないの?」


 「行ってもいいけど、それはお前の安全が確保できたらだな。あと単純にこの辺は食えるフォールンが少ない、気がする」


 朱燈の疑問に答えながら千景はトイレの奥にある標識へと足を向けた。長年の経年劣化でところどころが錆びたり、剥がれたりしているが、かろうじてここがどこなのかはわかる。


 「静岡県新富士良瀬市管轄」という文字と「一級市道神◾️川行き」という文字を読み、現在地を千景は頭の中で修正した。


 新富士良瀬市という名前に千景は心当たりはない。新というからには合併かなんかで新しく作られた街なのだろうことはわかるが、それ以上はなんとも言えない。未だにここが静岡県から脱していないことにちょっと暗鬱な気分になり、同時に市道という文言を彼は頭の中で反芻する。


 「神奈川行きの一級市道」


 確か一級市道は国道に隣接している市町村道だったか、と曖昧な記憶を頼りにしながら、おもむろにc以下げはトイレの外へと出た。


 いつのまにか山の尾根が顔を出した朝日は空高く登っていて、昨日の夜は見えなかった外の景色をつぶさに照らし出した。正面にあるガードレールからその景色を覗いた時、思わず千景はあっと声を上げた。


 木々の合間に広がっている光景は山麓に広がる都市の姿だった。遠目に見えた海岸線沿いの富士市とは違う低階層のビル群が目立つ()()()()、一際大きなロジックタワーが頭一つ抜けてその中で目立ち、まるでその周りのビル群は添え物のようだった。


 眼前に見える都市が新富士良瀬市なのだろうか。新と言うにはロジックタワー以外に現代的な建築はなく、やはり合併などで新しくできた街なのだということがわかる。だが、今は都市の成り立ちなんてものはどうだっていい。


 ——ロジックタワー。それがまさしく千景の意識の矛先だった。


 全高489メートル。ビリヤードに用いられるキューを彷彿とさせる外観の塔は、全身がほぼガラス張りで、その中心に硬質な鋼の柱、心柱によって支えられている。中には行政機関や各種観測施設が収納されており、同種の建物が日本各地に点在している。


 旧時代、人口減少に伴う人材不足や電送網の管理を担うため、多くの地方自治体に設置された統制管理AIが収められた建物だ。地方行政や電力事情の細かな把握のみならず、詳細な気象データの観測、地質データの計測、果ては人間一人一人の移動傾向や経済貢献度まで数値化しているとまで言われている「合理の塔」であり、旧時代の支配者層の恐れの表れでもある。


 富士良瀬などという名前も聞いたことがない場所にもあったのだから、当然富士市にもあっただろう。しかし千景はそのことを失念していた。なんで忘れてたんだろう、と舌打ちをする千景はしかし、ロジックタワーの発見に期待で胸を膨らませた。


 ロジックタワーの主な役割はデータの収集とその管理だ。地方行政の人材不足を代替するためなのだから、その役割は当然のものと言える。だが、それ以前にロジックタワーには、というか現代的な行政の建物であれば必ずある機能があり、それこそが千景の目的だ。


 すなわち、衛生とのリンク機能。ロジックタワーの内部にまだ生きている端末や回線があるならば、マルチウォッチを介した通信が可能になる。いわゆる衛星通信というやつだ。旧時代は広く普及していたが、衛生のほとんどが()()()()()()()現代では大分廃れた技術である。


 ロジックタワーにまだ生きている端末や回線があるかはわからない。回線を繋げられるかどうかも未知数だ。運良く衛生と繋がれたとしても、今度は衛生からサンクチュアリまできちんと電波が送られそれを受信できるかも不明。よしんば受信されたとしても機械の故障と職員が勘違いする可能性もある。あるいは、あるいは。


 ——いや、違うな。そうじゃない。都合の悪い想像は一旦、隅に置こう。


 悪いことしか浮かんでこない頭をピシャリと叩き、千景は踵を返してトイレの中へと入っていった。そこでは待ちくたびれたといった表情でいつにも増して不満げな朱燈が便座から腰を浮かせてぶらぶらと両足を宙空で揺らしていた。


 「時間取らせた。飯は食い終えたか?」

 「とっくに。それで?なんかいい顔になってるけど、なんかあった?」


 「ああ。今からそれを説明する」


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