サバイバー
——話を始める前にこの世界についておさらいしよう。
西暦2275年、地球。かつて人類が栄華を築いたその大地に、今人の居場所はない。人類の先祖が飽くなき探究心と好奇心から踏みしだいた大地は、海は、空はその侵入を拒み、はるか天空へ至った人類は、ことごとくがそれゆえに壊死した。
人類の前に現れた脅威の生物たるフォールン、そしてフォールンに由来するF因子による汚染は瞬く間彼らを駆逐し、地上のあちこちで断末魔を響かせた。ある悲鳴は悲哀が、ある悲鳴は歓喜が、ある悲鳴は狂乱が込められ、その悲鳴に歓喜するようにフォールン達は笑いながら、その肉を食らった。
フォールンという存在はある日突然現れた。初めて確認されたのは西暦2253年のことだ。現在ではウグと名付けられた犬型のフォールンで、それからほどなくしてブラッドが発見された。当初は数も少なく、何かの実験動物なんじゃないか、なんて言われていたが、しかしそんな楽観は「ベルリン・トロイメライ」によって破綻した。それまでは単なる獣害事件だったものが、全人類を標的とした虐殺へと変わったのだ。同じ頃、F因子によるフォールン化も確認され始めた。
人類は敗北し、サンクチュアリに引きこもった。地上の覇権はフォールンに握られ、彼らは多種多様な生物へ変化し、独自の進化を遂げ始めた。ネメア、オーガフェイス、ルナユスル、ゴアーといった元となった生物を予感させる外見の種からハルピーのような何を起源とするかよくわからない種まで本当に多種多様だ。
だから、一概に外見だけでフォールンの能力や強さはわからない。特に普段は基幹領域に近づいてこないフォールンの実力は未知数と言える。見た目が弱そうでも、上位種だった、最上位種だったというケースは枚挙にいとまがない。
勾配が少しある道路を歩き切り、その頂上でふぅと息を吐く千景は疲れた目で森林地帯を睨んだ。樹高20メートルを超える巨木が群生している富士山麓の原生林、一度足を踏み入れれば方向感覚がたちどころに狂い迷ってしまう。
それを超えた朱燈は大した野生の勘を保っていると言える。おかげでどうにか正規の道に戻れたのだから。ただ、結果として状況は悪くなった。単純に目的地から大分遠のいてしまったのだ。
現在の二人の位置は旧富士市に程近い山林の中を走っている古い道路だ。国道ではなく、おそらく県道だろう。これといった根拠はないが。
東に進めば箱根に出る道で、日暮まで歩けば越前岳がある山をぐるりと回ってどうにか箱根の手前まで辿り着ける。何事もなければそうなる計算だ。
ただ、とそこまで考えて千景は目を伏せた。
ここは未踏破領域だ。フォールンの本拠地、根城といって差し支えない。そんな場所で人間のチンケな時間計算がうまくいくことはない。
視線を東に向け、坂道を千景は見下ろし、はぁ、とその予想通りの隠れる場所がどこにもない吹きさらしの街道をみてため息を吐いた。
視線の先にあるこれから歩く道は文字通り、何もない。何もないというと語弊があるが、とにかく上から視線を遮るようなものが何もないのは確かだ。代わりに進行を妨害する瓦礫は腐るほど散見される。山林の木々が開けた場所に道を作ったからか、見晴らしがよく下からの奇襲は察知できるだろうが、上からの攻撃には対応できない。
いざ追いかけっこになればオーガフェイスあたりの平地での速力のたかが知れている種ならいざ知らず、ゴアーやオーガレイス、果てはルナユスルなんかに追いかけられたら逃げ切れる自信はない。無論、樹林の中での影槍を用いた三次元機動ならいくらでも逃げる手段はあるが、そんなものはたれらばか、最後の手段でしかない。
よしんば時間通り、箱根山の麓に到着できても野宿する場所を探さなくてはいけない。昨日までいた洞穴のようなちょうどいい宿泊地がそうそう見つかるわけもなく、なるべく獣が近づかないような場所を見つけなくてはいけない。
うまく感知領域に辿り着いても見つけてもらわなければどのみちフォールン化でお陀仏だ。もちろん、その前に体力切れで倒れてしまうことも、空腹で倒れることもあるのだが。
悪い想像は立ち止まればいくらでも湧いて出てくる。ため息はいつでもつきたくなる。精神はどんどんすり減り、このまま拳銃自殺をした方が楽になるんじゃないか、と思ってしまう。
「——ざけろよ」
唇に痛みが走る。強く噛んだせいで、肌が裂け、血がこぼれた。
「それはお前の話じゃないだろ」
朱燈を担ぎ、千景は再び歩き出した。この程度で弱音は吐けない。吐いていいはずがない。昨日、朱燈がどれだけ必死になってここまで来たのかを考えれば、ただ担がれていただけの自分がそんなことを言っていい道理がない。
べき論で自身を叱咤し、千景は震える太ももをパンと叩く。こういうことは何度もやってきた。その度に自分を奮い立たせ、立ち上がってきた、と言い訳をしながら。
気分を変えようと思い、空を見上げると晴れ渡る蒼穹が雲の合間に見えた。五日以上振り続けた雨が止み、暖かい陽光が濡れた千景の黒髪に、額に、鼻先に触れた。
しかしてそんな暖かさとは裏腹に周りの空気はすこぶる冷たい。陽光の暑さを感じた側から千景は肌を寒風になでられ、ブルリと震えた。強化兵である千景も寒いと思うくらい空気が凍てつき始め、心なしか息を吐くたびに白い息が漏れた。
今は9月だ。壁外の平均気温は約10度で、雨あがりで湿度が上がり、体感温度は高く感じているが寒いことに変わりはない。晩夏でこの気温だ。秋や冬になれば東京サンクチュアリ周辺でも−20度になるような土地なのだから、より離れた富士山麓の気温は一桁になっていてもおかしくはない。
ため息を噛み殺し、千景は前に向き直る。夜になればより一層気温は下がる。もう雨が上がったせいで湿度は上がらない。恒温動物である以上、外気温一桁程度で凍死するリスクは低いが絶対ではない。できるだけよりリッチで休みたいと切実に願った。
坂道を降り、曲がりくねった山沿いの道を千景は歩いていく。時折立ち止まり、周囲へ目を向けるが、フォールンの気配は感じられなかった。雨上がりにも関わらず未だに寝ぼけているようなきらいを感じさせる不気味な印象を覚えた。
ふーむ、とその状況に対して千景はいぶかしんだ。おもむろに彼はライフルのボルトを引き、いつでも1発は撃てる状態にした。
なにかが出るとすれば、それは一瞬だ。一瞬の行動でその後が決まる。その何かを気にかけながら千景は再び前進を始めた。
ひたすらに東に向かって歩く千景はしばらく歩くと、ふと背負っている朱燈に意識を向けた。何度か挟んだ小休止の際、彼女の利き腕に巻かれている包帯を取り替えたが、その時に見た彼女の両手両足には痛々しい傷があった。それはもう知っていることだから今更驚くことでもないのだが、一体どういうルートを辿ればこんなに手足が傷つくんだろう、とふと疑問がよぎった。
朱燈は強い人間だ。肉体面以上に、心が強い。くだらない自己嫌悪で気絶した自分とは違って、メンタル面ではるかに優っていると千景は考えている。
無論、肉体だって強い。一度として千景は朱燈に腕相撲で勝った試しはないし、それは冬馬や苑秋のような体格では彼女に優っている人間も同じだ。おおよそ人類という枠組みで朱燈に身体能力で優っている人間はそうそういないだろう。
その彼女であってもこうして長期間眠ってしまうほどに疲労するのが壁外、未踏破領域だ。そこに迷い込んで、あまつさえお荷物まで抱えて生き残ったというのは讃えてしかるべきだ。この場にクラッカーがないのが惜しいくらいだ。
だいぶ下らないことを考えだしたと千景は苦笑する。それは心に余裕が生まれた証拠だ。いい兆候だとニヒルに笑い足にいっとう力が入った。
その直後、不意に地面を伝う振動を感じ、千景ははっとなって視線を足下に向けた。
足の裏から伝わってくる振動は一過性のものではなく、持続的に伝わってくる。千景の足がただ震えているわけではなく、地面全体が揺れていた。
なんだ、と思い千景は周囲に目を向けた。周りを見回すがフォールンの姿はない。フォールンが移動する時の振動ではないということだ。フォールンではないなら振動の原因は一択だ。
はっとなって千景は頭上を見上げ、道路に面した斜面を見つめた。直後、斜面の頂上から何かが爆ぜて押し寄せてきた。茶色の液体、土砂だ。
「うっそだろ」
反射的に千景はガードレールを飛び越え、眼下に見える山林へ身を投げた。同時に影槍を用いてガードレールの直下にあるコンクリート舗装された斜面に体を固定し、遠心力を利用してその身を投げる。ぐるんと体が回転しカーブに似た軌道を描いて千景は土砂の進路よりも先にある道路へ向かって千景は飛んだのだ。
飛距離にして14メートルほど。標準型である千景の影槍は持久力に優れ、耐久値もそれなりにある。多少とっぴな動きをしても折れることはない。
ヒュンと空を切って飛んだ千景は土砂を飛び越え、岸から岸へ飛ぶように斜面の片側へ着地した千景はふぅと息を吐く。もし直撃すれば今頃、人間としての形状すら保てていなかったはずだ。土砂崩れを回避できた安堵から、千景が立ちあがろうとした時、彼はその身軽さに違和感を覚えた。
——あれ?
あるはずのものがない。いるはずの人がいない。なんで、と思い千景は眼下へ視線を向ける。山林へ、そしてそれを見つけた。
探していた少女が引っかかった樹林が土砂によってはるか山麓へ流されようとしていた。




