熟考道中
大事なことはまず朱燈自身と千景の安全を確保することだ。フォールンを退治するのはその後でいい。というか、傭兵なんて大概そんな思考回路だ。
心臓の動悸が収まってきたことで、体もかなり動かせるようになった。相変わらず両足は棒切れのようで感覚は薄いが動かす分に支障はない。走れと言われれば走ることはできる。それでも逃げ切れるとは思えない。白銀のフォールンの恐ろしさはある程度、朱燈は理解していた。
白銀のフォールンは戦闘もせずにルナユスルを追い払った。しつこいまでに朱燈を追いかけてきた上位種であるルナユスルが目の前のフォールンとの戦闘は割りに合わないと判断したのだ。それは生物の本能として至極真っ当で、決しておかしなことではない。
例えば、午前中に遭遇したオーガレイスとゴアー。オーガレイスはゴアーに吹っ飛ばされて手酷い傷を負っても立ち向かって行った。あの時点でオーガレイスは自分がゴアーに勝てると判断した。その結果、敗北してしまった。
フォールンの知能は下位種だから低い、上位種だから高いというわけでもない。同一種であってもその知能には大きな個体差があるし、一概にあの種は総じて知能が高いという種も少ない。ただ、オーガレイスに関して言わせてもらうなら、オーガレイスは総じて知能が高い。判断能力は小学生並みで、それは決してバカとかいう意味ではなく、人にとって脅威という意味での小学生並みということだ。
知能という意味で言えばオーガレイスはゴアーよりも上で、手負いでもゴアーに勝てる、と判断した。しかしそうはならなかったということはなんらかの思い違い、考え違いをオーガレイスはしていたということになる。
転じてルナユスルはどうか。ルナユスルは戦いもせず、白銀のフォールンから手を引いた。口惜しそうに何度となく朱燈を見てはいたが、それでも最終的には森の奥へ消えていった。つまり、戦っても抗えないくらいの力量差が両者にあったのだ。
——そんなフォールンから逃げる、いや無理でしょ。
上位種が逃げるくらいだ。最上位種、あるいは上位種の覇種に決まっている。そんなのから逃げるなんて不可能だ。じゃぁ戦うか、いやそれも無理だ。
上位種以上ともなればその表皮が外見以上に頑強だ。ネメアなど象のように分厚い皮膚を持っているし、体躯が大きくなればなるほど銃の痛みは通じにくい。
一般に急所を射抜かれた以外で生き物が銃によって死ぬ原因は2パターンある。出血死と窒息死だ。体躯が大きなればそのいずれも難しくなるというのは言うまでもない。
そもそも目の前の上位種以上のフォールンにはそもそも銃弾が効くかも怪しい。フォールン大戦開戦初期、ネメアの電磁防壁によって何十、何百という歴戦の猛者が銃弾を逸らされて死亡したように白銀のフォールンもそういった特殊能力があるのではないか、と勘繰ってしまう。よしんばそういうのがなくても表皮なり体毛の分厚さで弾丸が届かないこともザラにあるのだが。
行動の不可解さが状況のややこしさに拍車をかけていることも相まってせっかく冷めてきた頭がまた沸騰してきた。鼻の根本がむず痒くなり始め、途端にそれまで身軽だった双肩がずっしりと重くなったように感じられた。
こんな状況でも相変わらず千景は目覚めない。呼吸はしているから死んだわけではないが、死んだようにピクリとも体を動かさない。生きているのに全く反応がないというのが返って不気味で、なんだかとても不安にさせられた。
グー。
不安ついでに言わせてもらえれば腹も減ってきた。
見上げれば夜天にはまばゆい星空が宝石箱のように輝いていた。旧時代のグルメネットサービスの残留データかなんかで見た金箔というものが散りばめられた食品によく似ている。ホログラフィックメモリアで一度その料理を味わったことがある朱燈は、唐突に胃の中が寂しくなっていた。
「腹減ったなー」
相変わらず白銀のフォールンは前を進み続けている。時折立ち止まって朱燈の様子を伺うが、それ以上のことはしない。そんな中、不意に朱燈は立ち止まり、森の中へ目を向けた。
視線の先、森の木々をかき分けた先に何かが見えた気がした。月明かりに照らされ、その何かが顕になる。それは赤い艶やかな色合いの木の実だった。
ちらりと朱燈は横目で白銀のフォールンを一瞥した。白銀のフォールンは相変わらず前を向いている。こちらには意識を向けていない。
よいしょっと。
足元の雑草を乗り越え、朱燈はその木の実が生えている木に近づいた。手の届きそうな位置にいくつも赤い木の実が生えていて、もっと上を見てみれば同じような実がいくつも生えていた。よくよく周囲に目を向けてみればこの木以外にも同じような赤い木の実が実っている木々がいくつも見えた。
外観はそれまで横を通り過ぎた木々と変わらないが、葉っぱの色合いが少し違うように見えた。葉っぱの形も異なっている。その葉っぱに隠れて生えている木の実はラズベリーを思わせる外見で、粒々が可愛らしかった。
それに朱燈は手を伸ばす。とにかく腹が減っていたし、何より美味しそうに見えたから。
うーん、うーんと爪先立ちになって手を伸ばすがあと数センチのところで届かない。ジャンプをしてもやっぱり届かない。ちょっと重いな、と千景を降ろし、再び朱燈は手を伸ばす。そうすることでようやく指先が木の実をかすめ、ぶら下がっている枝が揺れた。
よしもう一度。
もう少しだけ力を入れて跳んでみよう。両足に力を込め、朱燈は跳躍する。
——その刹那、一陣の風が朱燈と木の実の前を通り過ぎた。
「ぅあ!!」
突然のことだったにも関わらず、朱燈はその風に反応し、中空で体を丸め、重心を移動して無理矢理体を後方へひねった。
うぶ、と肺から空気が漏れ、朱燈は地面に尻もちをついた。片腕で、かつ疲労困憊した彼女はまともに受け身お取れなかった。
何が起きた、と朱燈は尻餅をついてすぐに顔を上げる。直後、蒼銀の瞳と目が合った。白銀のフォールンがすさまじい眼力で朱燈を睥睨していた。
「なに……さ……?」
言葉など通じないのについつい朱燈はそのフォールンに疑問を口にした。行動の意味がわからなかったし、何を思ってそんな、まるで路傍の釘を取ろうとする子供を叱る親のような目で見てくるのか、気になったからだ。
朱燈が疑問をこぼすと、白銀のフォールンは尾を持ち上げ、それを彼女がジャンプしていた木に向かって叩きつけた。バチンという音と共に木の幹が揺れて伐採される。
その直後のことだった。
倒れた木から無数の緑色の何かが飛び立った。月夜、満月へ向かって無数の木の葉が飛翔する。幻想的な光景、しかし月を背景に渦を巻くその群体はいずれも白色の仮面を付けており、それだけで幻想もへったくれもなかった。
月に照らされることでその輪郭が顕になる。空いっぱいに広げられた若葉色の双翼には葉脈が浮かび上がり、仰ぐと同時に溜まっていた水滴が霧散した。赤いベリーのように見えていたのは脚だった。皮膚病を思わせるほどに膨れ上がった六本の脚がぶら下がり、その先端が機敏に動いていた。
白色の仮面は先端が尖っており、その表面積はほとんどないに等しい。そのフォールンの頭部はまるで守られておらず、後頭部から伸びる触手とその付け根にあたる部位が大部分を占めていた。
「——フォールン!?」
反射的に朱燈は腰に手を伸ばす。しかし彼女が勢いよく伸ばした手は空を切った。そこにあるはずのハンドガンがなかったからだ。
舌打ちをこぼしながら、彼女は空中で渦を巻くフォールンの群れを睨みつけた。見た目からして蝶か蛾なんだろうということはわかるが、それがよもや木の実に擬態しているなんて予想外だった。なるほど、それがわかっていたからあのフォールンは、と朱燈は白銀のフォールンを一瞥する。その白銀のフォールンはと言えば警戒心を顕にし、不愉快そうに太い尻尾で空に軌跡を描いていた。
気がつけば、倒れた木だけでなく、その周りの木からも無数の同じ外見のフォールンが飛び上がっていた。百をはるかに超えるとんでもない数だ。月光を遮る勢いで無数の木の実のフォールンが群がり、その羽音が響いた。
「なに、これ」
眼前の光景は生物が群がっているというよりかは雲を思わせる。生きる雲だ。満月に照らされて暗雲が地上に降りてきたのだ。
「いや、無理。無理でしょ、これは!」
一体一体は大したことはない。多分、素手で掴んでむしるくらいは造作もない。だが、それが百や二百、三百と増えればもう勝ち目がない。一体をむしっている間に十体がこちらをむさぼるだろう。その証拠に朱燈達を睨む木の実のフォールンはガチガチと縦向きに生えた歯を耳障りなほどに鳴らしていた。
——終わった。
一瞬にして朱燈はそう直感した。自分の不注意でまた死地になってしまった。せっかく、ルナユスルからどうにか逃げられて、わけのわからない白銀のフォールンに対応できるかもって時だったのに。
くだらない不注意、くだらない空腹、くだらない好奇心。くだらないことを繰り返す自分の人生は一体どんな価値があるっていうんだろう。せっかく、自分の命を救ってくれた良い奴一人に恩も返せないで——
ふわりと体が浮かんだ、
「はえ?」
思わず間の抜けた声が漏れてしまった。急な浮遊感が朱燈の体を包み込み、その体が宙に浮く。最初は目の前のフォールン達に捕まったのかとも思ったが、そうではない。木の実のフォールンは何もしていない。相も変わらずブブブと羽を鳴らし、ガチガチと歯を擦り合わせているだけだ。
よく見れば浮いているのは朱燈だけではなかった。彼女が降ろしたはずの千景も彼の愛用しているライフルと一緒に宙に浮いていた。じゃぁ、と朱燈はいたって冷静にある方向へ目を向けた。
その時、朱燈は蒼銀の瞳と目が合った。怒りを滲ませて震える瞳と目が合った。
怒っていると直感できた。それがなぜなのかはわからなかったが、怒っているなら、返す言葉を朱燈は一つしか知らない。
「——ごめん、軽率だった」
直後、宙に浮いていた朱燈の体から浮遊感が消失した。ほんの1メートルほどしか浮いていないわけだが、それでも落ちるという感覚にたまらず朱燈は目を瞑った。
しかし1秒後に走るはずの地面を打った衝撃は襲ってこなかった。代わりに朱燈が感じたのは非常に柔らかで、同時に獣臭い感触と匂いだった。
なに、と朱燈は体を起こし現状を理解した。
「うっそー」
朱燈と千景、二人を白銀のフォールンはその背中に乗せていた。まるで風の中を進むように軽やかに白銀のフォールンは木々の合間を抜けていく。それを追って木の実に擬態していたフォールンの群れが追翔するが、羽虫の速度よりも白銀のフォールンの方が速い。瞬く間に木々を抜け、崩れた崖を登っていき、その追跡を振り切ってしまった。
「すご」
目指していた公道の上に下ろされた朱燈は眼下の森林を覗きながら感嘆符をこぼした。信じられないことの連続で言語野がはちゃめちゃに壊れていた。もう何も考えられないくらいに。
「——う」
ガードレールに身を預け、はぁ、と朱燈はため息を吐き、いまだにぐーすか寝ている千景を一瞥した。一体どうしてこうなったんだろ、と思いながら。
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