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Vain  作者: 賀田 希道
不思議な国の話
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蒼銀の瞳

 死を覚悟した朱燈はその異様な行動に気がつくまでに数秒を要した。頭を八つ裂きにするはずのルナユスルの爪がいつまで立っても飛んでこないことに気がつき、恐る恐る彼女が目を開けるとすぐ目の前でルナユスルが直立不動のまま仁王立ちしていた。


 上げていたはずの腕も下ろしてずっしりと、構えるようにしてルナユスルは一歩、後ずさる。まるで何か恐ろしいものでも見たかのように。


 朱燈は慄くルナユスルを目にして、ただただ困惑した。絶対捕食者、森林をナワバリにする絶対の王が恐れているなんて悪い冗談だと思えたから。だってそれはルナユスルよりもさらに強力なフォールンが近くにいるという証拠だ。そんなものに出てこられては勝ち目がない。


 絶望の果て、それはより一層困難な絶望が待っているだけだった。森を出ること、出口を見つけられなかった朱燈はただただ震える。震えて、上がりかけていた腰から力が抜けて地面にへたり込む。泥の水気が衣類に沁みたが、もうそれは今更だった。失禁しないだけまだ自我を保っていられた。もっとも影槍がある以上、朱燈が失禁するということはないのだが。


 意識をルナユスルへ向ければ、喉を鳴らす音が聞こえた。恐ろしくて顔を上げることができなかったが、何かに向かって威嚇していることだけはわかる。刹那、その何かに対してあらん限りの大轟音でルナユスルは咆哮する。鼓膜を破きそうな大音響、思わず朱燈は耳を塞ぎ、地面にうずくまった。そしてただひたすらにその音が鳴り止むまでガタガタと怯えながら身を震わした。


 「GRRRR!!!!GRRRRRR!!!!」


 ルナユスルの咆哮は続く。朱燈が恐怖に屈し地面にうずくまってもなお続く。双眸を血走らせ、空に向かって何度となく両腕を振るっている光景が脳裏によぎり、朱燈は怖い、怖い、とより一層体を丸め、早くこの咆哮が収まってくれと願った。


 その祈りが聞き届けられたのか、ひとしきり叫び終わったルナユスルは前足を下ろし、四足形態に戻ると、のそりそりと足音を響かせながらその場を離れていた。


 伏せていた顔を持ち上げ、朱燈はその後ろ姿を確認する。口惜しそうにちらちらと振り返ってはこちらを一瞥するルナユスルは、しかし森林の闇の中へと消えていった。


 再び訪れた静寂に安堵するも束の間、朱燈はそれはまだ早いと背後を振り返る。そう、何かに怯えていたルナユスルを退けた存在に目を向けた。


 背後には大きな岩壁があった。岩壁と言ってもその向こうに岩ばかりの大地があるわけではなく、その巨大な岩だけが森林の中にいっそ、不自然なまでにぽつんと埋まっていた。


 もし千景が起きていればこの岩はどこから飛んできたんだろう、とか言い出しそうな不思議な大岩だったが、あいにくと朱燈の興味はその大岩にはない。彼女の意識は大岩の頂上に鎮座している一頭のフォールンへ向けられた。


 大きな満月を背後に抱えてそのフォールンは岩の上に座っていた。白銀の毛色の大きな猫だった。尾まで含めれば全長は裕に8メートルを超えるかもしれない。尾を含めなくても4メートルほどはあった。


 瞳の色は蒼銀。仮面は口元以外を覆うオーソドックスなタイプで猫のヒゲを思わせる細く先端が鋭利な飾りが左右に四本ずつの計八本、生えていた。毛並みは美しく、色艶もよい。おおよそ仮面以外でフォールンらしい要素はほとんどなく、あるとすればそれは体とほぼ同じ長さの尻尾が、非常に太く毛量が多いことくらいだろう。


 フォールンであるのに関わらず神聖さすら感じるそれを朱燈は最初、スフィンクスの鋭種か覇種かと思った。だがすぐに体のどこからもF器官が生えていないことに気がつき、それはないと首を横に振った。そもそもスフィンクスなら単独行動をしているわけがない。ましてルナユスルが怖気付く道理がない。


 ならなんだ、目の前のフォールンは。少なくとも朱燈は見たことがないフォールンだった。見たことも聞いたこともないフォールンの出現に朱燈は両足を振るわせ、そして立ちすくむ。


 対する白銀のフォールンは朱燈を睥睨するような目を向け続ける。蛇睨まれたカエルのように、その鋭い眼光に射抜かれた朱燈は動くことができず、白銀のフォールンが腰を上げ彼女の前に降り立った時も何もできなかった。それこそ、左手のライフルを構えることすら。


 地面に降り立った白銀のフォールンはぐるぐると朱燈の周りを値踏みでもするかのように回り始めた。視線は彼女から欠損した右手、ライフルを持つ左手、血色の悪い両足、そして背負われている千景へと流れるように移っていき、何周か回ったあと、そのフォールンは朱燈の正面に立った。


 軽やかに白銀のフォールンは岩の上に飛び、少し高い位置から朱燈を覗き込んだ。朱燈と白銀のフォールンの体格差は2メートル以上ある。すらりとした長い四脚だけで朱燈の身長を裕に超え、ボロボロの朱燈は軽い猫パンチで五臓六腑が吹き飛ばされるだろう。


 しかしなぜかそのフォールンは朱燈を襲おうとはしなかった。明らかにボロボロで、反撃能力なんて皆無な彼女を、そのフォールンは襲うどころか、物珍しそうに見つめるばかりだった。


 ——わけがわからない。


 千景が気絶してからそんなことばかりだが、ここまででとびっきり何がどうなってこんな状況になっているのか、全くわからなかった。どうしてそんな奇異の目で自分を見ているのか、どうして襲ってこないのか。混乱することしか起きていない。


 反撃がないとわかっているから油断しているとか、襲うまでのモラトリアムを楽しんでいるなんて人間的な感性では断じてない。獣の持つ警戒心とも違うと断言できる。


 ——なんだ、こいつ?


 わけがわからない、わけがわからない、と言葉にはせずとも頭の中で朱燈は疑問を浮かべ続けた。それこそ脳みそがショートするほどに。挙句、乾いた笑い声が漏れ出てきた。もうどうでもよくなってきていた。


 「Mew」


 刹那、そのフォールンは鳴いた。重さなんてまるで感じさせない軽やかさで岩の上から降り立ち、何度となく白銀のフォールンは鳴く。首を振って、時に尻尾を動かして呆然と立ち尽くす朱燈を手招きしながら。


 「は?なにそれ?」


 行動の意味が理解できなかった。まるでこちらを案内するかのような白銀のフォールンの行動が、メルヘンチックすぎてもうわけがわからない。


 一体今日の内に何度わけのわからない事態になったことだろう。とびっきり訳がわからない事態があったと思ったのに、すぐさまそれを飛び越えるくらい訳がわからないことが起こったのだから、もう朱燈の頭の中はお祭り騒ぎだ。


 正常な判断をしようよ、とメガネをかけた理知的な印象の朱燈が言ってくるが、それをびんぞこメガネをかけ、大きなハンマーを持った朱燈がうっせー消えろ、と大声を上げて吹き飛ばし、理知的な印象の朱燈はそのまま櫓の上に吊るされた鐘にぶつかって、ゴーンゴーンと盛大に鐘を鳴らした。櫓の周りではこれまで出くわしたフォールンがたくさんの朱燈にまじってよくわかんない踊りを踊っている。


 ちっちゃな朱燈がその集団めがけて、ダムの放水を行って洗い流したかと思えば、今度は水面を割って右手を天高く掲げ、仁王立ちしている朱燈の銅像が出現した。わーと水面に生じた渦の中に朱燈達は吸い込まれていき、青かった水面はなぜか赤くなった。


 とどのつまり、朱燈はもう考えるのが面倒くさくなっていた。脳みそが正常に作動していなかった。精神が磨耗していた。


 「もういいや」


 よしんばこれが罠でももうどうだってよかった。ここに至るまでのチェイスで使える武器はあらかた使ってしまった。熱に浮かされ、思考もまとまらず、影槍は使えず、両手両足いずれも傷物とくれば考えて動くなんてバカバカしい。


 ゆっくりと朱燈は歩を進め始めた。


 朱燈が歩き始めると前をいく白銀のフォールンも歩き始めた。白銀のフォールンが朱燈を先導する形で夜の森を進み、彼女はその後を無心で追従した。


 白銀のフォールンは決して走ったりすることはなかった。ゆったりゆったりと朱燈のペースに合わせて前を歩き、時折ちゃんと朱燈が着いてきているかを確認したりもしていた。まるで園児を引率する保育士のような甲斐甲斐しさだ。


 そんな状態がしばらく続き、麻痺していた思考がだんだんと正常に機能し始めてきた。不思議と白銀のフォールンが歩いていると周囲の空気が凪いでいるのかと思えるほどに静かで、葉っぱが風で擦れる音以外は何も聞こえない。


 空気が凪いだばかりではなく、不思議と息苦しさや体の気だるさもなくなった気がする。それまでは砂利混じりの空気を吸っていたのが、どういうわけか新鮮な流水でも呑んだかのような清々しさだった。


 「なんなんだよ、あれ」


 フォールンであることは間違いない。顔に付けている奇抜な仮面が何よりの証拠だ。一般的な猫よりもはるかに大きく毛量も多い。正面から見た時は気が付かなかったが、後ろから見ると背筋の周りが少し隆起していた。左右二つずつ、よくは見えなかったがささくれのように体毛の一部がめくれていて、その裏側には硬質な円盤状の部位が隠れていた。


 ——あれがあのフォールンのF器官か。


 その背中を追いながら、朱燈は万が一に備えて思案を巡らせた。もし騙されたのなら、誘い出されたのならどうすればいいか、それを真剣に考え始めた。体調が落ち着き思考がクリアになったおかげだ。

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