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Vain  作者: 賀田 希道
不思議な国の話
59/97

Dark chase

 気がつけば、朱燈は腰から影槍を生み出し、樹上へ飛んでいた。残り少ないエネルギーを消費して、枝の上に降り立つと同時に怒声が背後でこだました。


 「GRRRRRRRRRRRRRRRR!!!!!!!」


 獣の咆哮で空気が震え、静寂が逃げ去った。さっきまでの静けさが嘘だったかのように急に森が慌ただしくなり、空気が加速する。それはまるで世界そのものが朱燈に逃げろ、と訴えているようだった。


 だから迷わず朱燈は樹上へ逃げた。千景を背負ったままの全力疾走よりも一旦、安全な木の上に逃げた方がいい、彼女はそう判断した。何よりこれまで朱燈のアクロバティックな動きを助けていた影槍は彼女が樹上に降り立ったと同時に雲散霧消してしまったのが大きかった。


 舌打ち混じりに朱燈は腰のポーチに手を伸ばす。千景とライフルが落ちないように手早く、それでいて慎重に。彼女が取り出したのは栄養補給用の活性剤入りゼリーを飲んだ。しかし影槍はもう生まれない。わずかに腎臓まわりの筋肉が動いたが、それっきりだ。


 影槍は汗や尿素、糞などといった老廃物や排泄物をスーパーマグネタイトという合成物質に変換することで生成される。正確には加熱分解だが、老廃物などからマグネタイトを作り出すという点では間違いない。


 そのために必要なのが瞬間加熱基質という特殊な化学物質で、これは有限である。影槍を生成すれば生成するほどこの物質は減っていき、ゼリーを飲んでも素になるものがないから、影槍はもう生成されない。


 直後、朱燈は迷わず胸ポケットに入っているファンデーションケース大の入れ物を引っ張り出し、並んだ青、赤、白の錠剤の中から赤い錠剤を取り出した。錠剤が無事であることを確認すると、迷わず朱燈は錠剤を嚥下する。ゴクンと喉を鳴らし、それが胃の中へ落ちていくのを感じていると不意に体が熱くなった。体内に新たに瞬間加熱基質が生成され始めた兆しだ。


 朱燈が飲み込んだ赤い錠剤、それは高F因子活性剤という、言うなれば毒薬だ。彼女の腎臓を改造し作られた影槍の発生器官を強引に動かし、瞬間的に瞬間加熱基質を作り出すことができる。


 代価は大きい。言うまでもなく体から熱量を大きく奪うし、足りなければ体力が消費される。体内のホルモンバランスや栄養バランスはめちゃくちゃになるし、心臓の鼓動も血圧も血流もかつてないほどに高鳴り、高まり、速まった。鼻血もこぼれる。毛が逆立ち、それまで流れなかった汗も吹き出した。


 熱で意識が飛びそうになるところを朱燈はどうにか我慢し、汗ばんだ目で眼下を見つめた。


 時間にしてわずか数秒、朱燈が活性剤入りゼリーと錠剤を飲んでいる間にもう巨大な黒い毛むくじゃらの獣は木の根元に到達していた。


 間近で見るとその大きさがよくわかる。地上10メートル以上の高所にいるにも関わらず、目の前のフォールンの姿がよく見えたから。


 顔面を覆う白い仮面は骨格そのものを形どったとてもオーソドックスなもので、牙を思わせる長い突起が先端から伸びていた。チンガードとも言うべき発達した下顎の仮面が上顎を飲み込む形で前に迫り出しており、正面からではわからないが、横から見れば臼を思わせる平べったい白い歯を覗かせる作りになっている。


 首元には灼銀の三日月模様が見え、それが前掛けのようにぐるりと首を一周している。何より目を引いたのはその獣の前足を覆っている籠手(ガゥントレット)だ。さながらボクサーのグッローブのように見えるそれこそがF器官なのだろう。


 ルナユスル、その鋭種。


 見たことはなかったが、見ただけで察した。千景をして逃げたいと言わせしめた上位種のフォールン。5メートルを超える巨躯、それが朱燈の登っている樹木を支えに立ち上がれば、それだけで幹が揺れた。


 太く20メートルはあろう樹木がメキメキと悲鳴を上げる。その理由は明々白々、ルナユスルが木に登り始めたからだ。5メートルを裕に超える筋肉の塊は1トン以上に相当する。雨で中身がボロボロの木などポッキーにだって劣るだろう。


 ——てか熊って木登りできるんだ!?


 木が揺れることよりも朱燈にはそっちの方が予想外だった。熊の映像は古い資料で見たことがあるが、それはどれも山の中だったり沢の付近を歩いている絵ばかりだ。走れば早いというのも一応、知ってはいたが木登りまでできるなんて聞いていない。


 ついつい「旧時代の人類どうやってこんなのに勝ったのよ」とつまらない考えがよぎるが、それも近づくルナユスルを前にしては域外へ追い出されてしまう。それよりも今は逃げるのが先決だ。


 沸る体の不調を抑え、朱燈は影槍を展開する。二本の細い槍は先ほどとは打って変わってにゅるりと勢いよく生成され、彼女の意思のままにくねくねと空中で弧を描いた。


 生成された影槍を用いて朱燈は近くの樹木へ跳び移った。影槍を伸ばし、ターザンさながらにその身を引き寄せ、樹皮に着地する。近くの枝を足場にして体勢を整えようとするも束の間、背後から巨大な咆哮が轟いた。


 「は?」


 振り返ると、さっきまで朱燈がいた樹木を登っていたはずのルナユスルは中空にいた。文字通り、忖度なく、誇張なく、虚飾なく、数メートルを超える黒い肉だるまはそれまで登っていた樹木から手を離し、大ジャンプをかまして朱燈が乗り移った木に飛び移っている真っ最中だったわけだ。


 あまりのことに朱燈は言葉を失った。全長5メートル、体重推定1トン以上の怪物がジャンプするなんて、想像外だ。咄嗟に彼女は再び別の樹木に乗り移る。直後、朱燈がっさきまでいた樹木はルナユスルのベアハグによって粉砕された。幹の中間部が根こそぎなくなり、樹冠が大地に崩れ落ちた。


 木片が飛び、それを回避するため、さらに朱燈は遠くの樹木へ移動する。呆れ果てた破壊力を前にして、早々に彼女は戦闘を諦めた。あるいは千景が無事ならまで戦おうと考えたかもしれないが、一人では無理だ。例えこの場に愛用している三式帯熱刀があっても無理だ。


 恐ろしいのはその破壊力もだが、闘争心だろう。追跡本能と言い換えてもいい。高木を易々とへし折り、地面に打ち付けられたルナユスルは朱燈が体勢を整える時にはもう地面を蹴って動き出していた。


 「速いっ」


 ルナユスルの足はその体躯に似合わず、極めて速い。もちろん、それは人間目線ではあるが、地べたを走っていたら間違いなく後ろから爪で八つ裂きにされていたと朱燈が直感できるくらいにはやはり速い。


 樹木を乗り移り、どうにかして逃げ切ろうとする朱燈に対してルナユスルは大地を走り猛追する。ゴアーなど比ではない突進力で、道ゆく高木をぶつかっては砕きぶつかっては千切りを繰り返すその威容はなるほど、森の支配者という評価がふさわしい。


 対する朱燈はどうか。


 時に影槍を用いて遠くの樹木に跳び移り、時に空いている片手で彼女は樹冠に向かってよじ登った。それも千景と彼のライフルを抱えて、熱に浮かされながら。


 いつもより体が重いせいで、影槍にかかる負担が大きい。重心が不安定になるせいでバランスを保つのが難しい。視界が時々ぼやけるから、樹木にぶつからないかが心配になる。


 ひどい戦場だ、と心の中で何度となく朱燈は繰り返した。


 自分の体重に倍する重量をたった二本の影槍に預ける。それもいつ自己崩壊するかもしれない危うい産物に。それがどれだけ怖いか、一度輸送機から落下しかけた朱燈は身を持って知っている。


 朱燈の影槍、俗に刃型(ブレード・タイプ)と呼ばれるそれは高い切断能力と速度を有する代わりに非常に脆く、持久力がない。有り体に言えば攻撃能力に特化しすぎたタイプだ。


 薄く、平べったく、それでいて繊細。刃とはよく言ったもので、きちんと扱わなければ下位種の仮面すら切れないのだから、基本型(プレーン・タイプ)装甲型(シェル・タイプ)と比べると使い勝手も悪い。そのくせすぐにエネルギー切れになるものだから、より一層悲惨だ。薄くなるということはそれだけ外に向かって膨張しようとするエネルギーを抑え込んでいるということで、必然持久力はあってないようなものになる。


 朱燈の影槍の最長展開時間は約23分。一度の戦闘なら十分な時間だが、連戦となれば十倍の時間があっても足りない。あまつさえ連続稼働などすればもっと時間は短くなるだろう。


 実際、彼女の影槍はガタガタと嫌な音を発していた。それが影槍の本体からマグネタイトが剥がれかかっている合図であるということは明々白々で、本体は外気に晒されればすぐさま雲散霧消してしまう。


 影槍がなくなればもうチェイスは続けられない。機動力を失った朱燈にはルナユスルから逃亡する手段はないのだ。


 追跡をかわすため、朱燈もただ逃げるだけではない。時折、影槍で枝を切断して目眩しをしたり、千景がぶら下げていたゴアーの肉を投げつけて鼻を効かなくさせたりと色々と策を弄した。


 小賢しく、無礼なまでに生き汚く。それでもどこまで遠くに逃げ、彼女の視界からルナユスルの姿が見えなくなってもその咆哮はどこまで聞こえてきた。


 ——そして綻びは唐突に訪れ、彼女の翼は儚くも砕け散った。


 墜落し、しかし苦もなく着地した朱燈は遠くからのルナユスルの激昂を聞いた。影槍が崩れ機動力を失い、あまつさえ熱で意識が朦朧としている朱燈はそれを回避する術も対峙する術も持たない。持たないから、彼女は全力で走り出した。


 走り出してすぐ、急に視界が暗くなっていたことに気がついた。熱で視界が霞んでいるのとも違う。単純に木々の間からわずかに漏れていた()()()地面にまで届いていないからだ。


 樹上、木々の枝葉もなくすっぽりと開けたスポットを見れば、うっすらと星空が見えた。雲が去っていくその後を追って濃い青の星空が迫っていた。


 ああ、とそれを見た時、心が洗われたように感じた。今まで拝んだことのない綺麗な鮮やかな星の海、ただ星がまばらにあるわけではなく、藍色の空にグラデーションを幾重にも描いて、星はどこまでもどこまでも広がっていた。


 その感動も背後から迫る強襲者が台無しにしてしまう。星空の下、轟くルナユスルの咆哮を浴びて朱燈は止まりかけていた足に鞭を打ってまた走り出した。


 もう一体どれくらい走っているかわからない。影槍を連続稼働させて飛んでいた時間だって23分を裕に超えている。限界を超えて、少なくともその3倍は長い時間にわたって稼働させていたからか、もういくら力んでも腎臓周辺の筋肉はピクリとも動かなかった。


 足の感覚もだんだんとなくなってきていた。爪先から始まり今はもうすねのあたりまで感覚が失われていた。だからか、今自分が走っている場所だってもうわからなかった。


 「あ!」


 何かに足が引っかかり、朱燈はこけた。前のめりになって倒れ、その背中から千景が乱暴に放り出された。夜闇の中、パチパチと落ち枝を踏む音がそんな中、確かに背後から聞こえ、遮二無二立ち上がった朱燈は彼を助け起こした。


 そうしている間に獣が喉を鳴らす音が聞こえた。振り向くと両目を血走らせた獣がいた。何があったか、出会った時は綺麗だったその体躯は泥に塗れ、月明かりに照らされ光沢を帯びていた。


 歯軋りしながら朱燈は千景を抱え、後退りをする。ゆっくりとルナユスルは距離を狭め、シューシューとよだれを垂らし鼻息を荒くした。


 ああ、終わる。せっかくここまで逃げたのに。


 ——終わる。


 ルナユスルは大きく、片腕を持ち上げる。ゆっくり、のっそりとその体重を乗せんばかりの鈍重な動作で朱燈の頭を掬い上げようとした。


 ——刹那、ルナユスルは動きを止めた。

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