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Vain  作者: 賀田 希道
不思議な国の話
57/97

ちょっとそこ通りますよ

 ——刹那、視界が暗転した。


 コンピューターの待機画面を思わせる世界の変形、ぐにゃりと視界が歪んだ直後、遅れて彼らの体は宙に浮かんだ。


 衝撃が体に走り、千景と朱燈の体はその場から吹き飛んだのだ。千景は吹き飛んだまま地べたに尻餅をつき、朱燈は受け身を取りくるりと翻って体勢を整えた。


 両者はそれぞれ、その両目に入ってきた光景を凝視する。だが、凝視するまでもなく聞こえてくる猿共の奇声が状況が予想外のものであることを物語っていた。


 首を起こし、千景は正面に向き直る。オーガレイスが立っていた場所、しかしそこにオーガレイスの影はなかった。代わりにあったのは赤茶けた体毛の巨大な壁だった。鮮やかな緋色の太い線がその壁の左から右へ流れており目で追うと、それが壁ではないことがわかる。


 一目では収められない巨大な図体、大きく隆起した前半身とその先にある太い首のない頭部があり、そこには三つの瞳が横一列に並んでいた。しかしすぐにそれが見掛けだけのものだと千景は気づいた。一番左の眼球のみが機敏に動き、ゴキュゴキュと肉をしぼる音が聞こえた。それ以外の目に見えていたものはすべて目と鼻の間にある模様だ。


 それを覆う仮面は人間が付けるマスクによく似ていた。上顎を覆う巨大な白い正体不明の物質の塊はそれの眼球周辺まで伸びており、額は大きく開けその両脇にはうねった角を思わせる形状をしていた。生物が生きる上ではひどく非合理な、いっそそんな角を付けるくらいなら額を覆えばよかろうに、と思う不可思議な仮面だった。


 ゴアー。それがこのフォールンの名前だと特徴的な目玉模様を見てから、ようやく千景は思い出した。昨日、千景が撃ち殺した幼体とは違う5メートルを超える巨躯の成体だ。牙がないからメスだろう、と千景は推測するが、それは今はどうでもいい。


 重要なのはその行動だ。ありのまま、起こったこと、それが起こしたことを説明すればそれは非常にシンプルだ。


 千景と朱燈、二人の遭難者に迫るオーガレイスに突撃した。それだけだ。


 今日日、サンクチュアリでもなかなか見ることがないダンプカー、あるいはトラックによる追突事故をまさか文明とは縁遠い未踏破領域で見ることになるとは千景も思わなかったのか、その単純でシンプルな出来事を理解するまでに時間がかかった。況や、オーガフェイス達は理解なんてできず、ただキィーキィーと叫ぶだけだった。


 ちなみになぜ近くにいただけの千景と朱燈が吹き飛ばされたのかと言えば、彼らが伸ばした影槍がゴアーに触れ、そのまま振動が伝い吹き飛んだからだ。おかげで彼らの影槍は展開して間もないのにもうボロボロだ。


 そんな千景達には目もくれず、ゴアーはのそりのそりと動きだし、吹き飛んでいったオーガレイスと対峙する。さすがに中位種だけあり、衝突一回では絶命しなかったのか体をピクピクと痙攣させながらも起き上がり、気丈に雄叫び上げる。


 空気が張り詰める絶叫を上げ、オーガレイスはゴアーに迫る。跳躍し、ゴアーの頭部にのしかかればがっしりと掴み掛かり巨大なアギトを広げ、食いかからんとする。遠ざけようとゴアーは必死になって首を横に振り、オーガレイスを振り落とそうとする。


 逆にオーガレイスは振り落とされまいと必死にしがみつき、より両手両足に力が入りそのためかゴアーの仮面にヒビが入った。自身の弱点をなでられ、気が立ったのかゴアーは大きくクールベットに似た体勢で後ろ足立ちをするや否や即座に前足で大地を踏み、オーガレイスの両足がゴアーの仮面から浮かび上がった。


 直後、いきなりゴアーは走り出した。周りの木々に自身の頭部をぶつけ、その衝撃をオーガレイスは真正面から受け奇声を上げた。木の破片がオーガレイスに刺さり、その絶叫が森林にこだます。


 何度も何度もオーガレイスが体を打ち付けられる度に、樹幹が震え森が鳴動する。ハラハラとその様子を見守るオーガフェイス達はパニックを起こし、逃げようとするがその矢先、掴もうとした樹木が根本から削り取られ、樹上にいたオーガフェイス達は混乱するがまま地面へと転落し、大樹の下敷きになった。


 グシャっと潰れるオーガフェイス、それを踏みつけ次にゴアーはなおも食い下がるオーガレイスを今度は左右に振り回し始めた。ただ振り回すだけではなく、やはり樹木に叩きつけ直後前半身を振り上げた瞬間、意識も絶え絶えのオーガレイスを鋭く尖った樹枝に叩きつけたのだ。体が枝に刺さり、痙攣するオーガレイスをゴアーは執拗に攻撃する。


 その凄惨な光景を前にして千景も朱燈も言葉を失った。人間をなぶるとはまた違うフォールン同士の熾烈な戦闘を前にして、喉から込み上げてくるものすら枯れてなくなり、わずかに酸味を感じる濁った息がポロリと漏れた。


 感情では動かなくてはいけない、この場から一刻も早く逃げなくてはいけないとわかっている。しかしなぜか二人の両足は動かなかった。まるで金縛りにあったかのように食い入るようにしてなぶり殺しに合うオーガレイスを見つめていた。


 恐怖。そんな独自性もへったくれもない言葉が千景の脳裏をよぎった。目の前で繰り広げられている凄惨な光景に意識を奪われている。心が呑まれてしまっている。思考が追いつかない。


 ——ふざけろ、クソが。


 刹那、朱燈が千景を抱えて踵を返した。先に動いたのは千景ではなく朱燈だった。彼女は立ち尽くす千景を肩に担ぎ、ゴアーに背を向けて走り出した。それまで山中を走り回っていたとは思えない健脚で走れば瞬く間に千景の視界からゴアーは遠のき、その咆哮だけはしかしいつまでも緑林の中で轟いた。


 まったくなんて体たらく。朱燈の肩に担がれながら、千景はため息を吐いた。


 遠ざかっていくゴアーの血走った瞳が脳裏に焼きつき、依然としてライフルを構える手は震えたままだ。震えるだけマシだと言うべきなのかもしれないがそれにしたって、酷すぎる。


 ゴアーを睥睨しながら千景はその理由を考える。たかが中位種、上位種の足元にも及ばない雑魚相手になんだって、自分はあんなに震えたのだろうか。


 考えても答えは出なかった。まるで霧がかかったように考えがまとまらない上に、朱燈が跳んだり跳ねたり回転したりとアクロバティックな動きをするものだから、ようやく彼女の肩から下ろされた時はもう完全にグロッキー状態になっていた。


 「おぇ」

 「吐くならあっちで吐いてよ?」


 「んなもったいないことするか。それにゲロとかからフォールンが俺らのこと嗅ぎつけるかもしれないだろ」

 「え、キモ汚な」

 「人間だって動物の糞とかから色々察するだろ?それと同じだよ」


 「いや、知らんし。てか、その」


 もじもじと朱燈は言いづらそうに視線を千景から逸らした。なんだろう、と千景は一瞬、頭の中にクエスチョンマークを浮かべるが、すぐに朱燈の言わんとするところを察し、身を正して彼女に頭を下げた。


 「ごめん。取り乱した。いや、ビビったって方が正しいかもしれない。俺はあのゴアーにビビってた。怪我人に担がれるなんてどうかしてるよ、ほんと」


 できる限り、誠心誠意謝るなら土下座するべきだ。しかし土下座のままでは万が一の事態に対応できない。そんな事故保身の弁を誰となしにくっちゃべりながら、千景は数秒、あるいは十数秒の間、頭を下げ続けた。


 その間、朱燈は一言も発さなかった。よほど気分を害しているのか、顔色を伺うため、下げていた頭を少し持ち上げ、上目遣いで千景は彼女に視線を向けた。


 しかし予想外にも朱燈は怒ってはいなかった。むしろ困惑した様子で首を傾げていた。


 「え、は?え?何やってんの?」


 ようやく口を開いた朱燈の口から疑問符が漏れる。何やってんだこいつ、というニュアンス、いや聞いた通りの疑問に今度は千景が首を傾げた。


 当惑する二人は互いに首を傾げて、唸り合う。なんだかそれがおかしくなって、不意に朱燈は観念したのか、はたまた飽きたのか、ため息をこぼした。


 「んー。誤解があるよーなら断っておくけど、別にあたしは千景になんか怒ってるとかないよ?まーなんで動かなかったんだーとかは思わんでもないけどね」


 朱燈の返答に千景は安堵し、胸を撫で下ろした。同時に自分の不甲斐なさが情けなくて仕方なかった。


 もし先に動いていたのが自分だったら、きっと自分も朱燈を背負うか担ぐかしてあの凄惨な殺獣現場から逃げ出したことだろう。朱燈ほどの健脚でも、まして肉体強者でもない自分でも遠くに逃げることくらいはできる。


 だがその後、こうして一応の安全地帯に逃げてこれた後、冷静でいられただろうか。冷静に彼女のことを糾弾せずにいれただろうか。


 無理だ。それは千景自身がよく理解している。少なくとも、自分がそんな責任感のある人間ではないことを千景は知っている。十分すぎるほどに知っている。


 「えっとね。あたしが言いたのはその、謝罪なの」

 「謝罪?」


 なんで謝罪をする必要があるんだ、と千景は憤る。むしろ、恥じるべきは自分なのに。千景の怒りを他所に朱燈は謝罪を続けた。


 「あのーさー。さっきのフォールンから逃げるために結構てきとーに走ったから、まーそのー」

 「ここがどこかわからない、そういう話か?」


 「えーあーはい」


 苦笑しながら朱燈は肯定する。怒らないでね、と朱燈は付け加える。


 千景は怒ることはなかった。というか、怒る気力もなかった。自分の自分に対する怒りを抑えることで彼はもう精一杯だった。


 ——プツン。


 張り詰めていた糸が切れた音がした。視界は暗転し、暗闇が意識を飲み込んだ。


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