強襲
踵を返し、二人は斜面を横切っていく。瞬く間にオーガフェイスを三体、駆逐したにも関わらず脱兎のごとく。
「なんで逃げんのさ!」
「アホか、こんなところで戦闘なんぞしてたら、他のも寄ってくんだろーが!」
真っ先に走り出した千景は背後から飛ぶ巨大な怒号を聞き、ああ、確かにと朱燈は首肯する。背後を見るまでもなくワラワラと溢れてくるオーガフェイスは8体を裕に超え、10、11とその数を増していた。
斜面を登ってくるもの、斜面から滑り落ちてくるもの、後方から走ってくるもの。仲間の死を悲しんでいるのかギャァギャと耳をつんざく叫び声をあげてオーガフェイスは追ってくる。ダッダッと泥を跳ね飛ばしながら。
オーガフェイスの走る速度は人間とそう大差ない。むしろ足の形状からすれば人間よりも遅いほどだ。マカク属に近い骨格である以上、そも猿という人間のできそこないである以上、足が速いということはあり得ない。しかし、彼らにはその足の遅さを補って余りある高い機動力があった。
地べたを走る千景達とは対照的にオーガフェイスは樹木を伝って彼らを追っていた。パルクールさながらに斜面に生えている木々によじ登り、体をひねって中空を跳ねる彼らの機敏さは人の領域にはない。人間がやろうものなら平衡感覚を失いそうな急制動でありながらオーガフェイスは体幹を崩さず次から次へと枝から枝へと飛び移っていった。
速度という意味では千景達を凌駕している。走る彼らを飛び降りて背後から強襲することなど朝飯前な機動性だ。
——しかし襲いかかってこない。逃げる獲物を痛ぶるような行動だ。
「追い立ててるのか?」
「え、なにが?」
「オーガフェイスさ。俺らに追いつけるだろうに追うばっかで襲ってこない。なんかあるって思う方が普通だろ」
オーガフェイスの悪辣さは時に想像を絶する。地形を利用することもあれば、待ち伏せをすることもある。単体の弱さを集団でカバーする。人間に近い集団行動能力がある種なのだ。
「つまりなんかあるってことさ。まだオーガレイスも見てないしな」
一瞬足を止め、振り返りざまに樹上のオーガフェイスの一体を撃ち落とし、千景は息を吐く。
状況はよくない。斜面をこのまま走るにも限界がある。このまま走り続けても遠からずスタミナ切れになるし、近隣のフォールンも寄ってくる。
「オーガフェイスだけならこんなに悩まねーんだけどなー」
「ほんとそれ。てか、いっそもう下行く?」
朱燈に言われて千景はおもむろに斜面の真下で目を向けた。なだらかな傾斜とそこに生えている無数の木々を抜け、その先にある樹林を見た。
雨足が緩いからか、霧も薄く直進すれば山道に面した崖側へ走り切ることもできるだろう。樹林を駆けるのはきついだろうが、斜面を走るよりははるかに気を使わない。
だが、それでもなんとなしに気乗りがしなかった。なんだか誘導されているようでならなかった。
「——死中に活か」
「え、シチューにカツレツ入れるの!?」
「21世紀じゃねーんだよ!」
朱燈の冗談なのか真剣なのかわからないボケに千景は思わず突っ込んだ。危機的状況のはずなのになかなかどうして普段のノリは忘れないらしい。この時ばかりは朱燈のノリの軽さ、心の強さに感謝してし足りない。
意を決して千景は朱燈を伴い斜面に沿って走り出した。走り出した彼らを追ってオーガフェイス達も斜面に沿って動き出す。しかし、その時、彼らの背中ははるか先にあった。
「「ぅああああああああああ!!!!!」」
悲鳴を上げながら二人は坂道を走っていく。いや、滑り落ちていく。
坂道を走る時、人の走る速度は加速度的に増していく。まして滑りやすい泥道、何より影槍の保持者の筋力が上乗せされればその速度は韋駄天のそれだ。
——要するに足がもつれるくらい速くなりすぎて二人のコントロールをすでに離れているということだ。
景色が次々と変わり、向かい風が強くなっていく。視界がホワイトアウトを何度も何度も繰り返し、描画が追いついていない旧時代の低スペックゲームのように景色が置き去りになり、ところどころに空白が生じた。
吹き荒ぶ雨水が目の中に入ることがあった。その度に両目が痛くなり、目を瞑りごしごしと擦った。走っていると木の根につまづくこともあった。勢いに飲まれて跳ね飛んで木々の合間をくるりとすり抜けることもあった。
それでも立ち並ぶ木々にぶつからないのはぶつかるギリギリでなんとか二人が飛び退いたり、木の枝を掴んでパルクールしたりとその余りある身体能力を用いて回避に徹したからだ。そして飛び退き、着地した側からまた走り出す。ギャーという悲鳴すら置き去りにしてどうにかして斜面の麓にまで降りたった。
「はぁ。死ぬかと思った」
「アホやった」
互いに片手が使えない上に転べば一瞬でオーガフェイスに捕まる状況にありながら、しかし二人は口元に笑みを浮かべ、肩で息をした。そして呼吸を整えながら、改めて周囲をぐるりと見回した。
——そこは斜面に生えていた木々よりもなお樹高が高い木々が入り乱れた樹木立ち並ぶ場所だった。
不思議とその場所は雨音が遠くに聞こえた。さっきまでは耳元でジャケットに跳ねていた雨の音が消え、はっとなって千景は樹上を望んだ。樹枝と木の葉がいくつも重なり合い傘のようになっている。そのおかげで雨音は遠のき、それまで降り注いでいた雨は彼らを濡らすことはなかった。
雨から逃れられたことに安堵するが、しかし脅威はすぐ後ろから迫っていた。ギィギィと猿の鳴き声に似た雄叫びを上げてオーガフェイスが迫ってくる。姿は見えないが、もう近くまで来ていることを肌で感じ、千景はすぐに朱燈に走り出すように目配せした。
しかし彼女は不意にうずくまり、鎮痛な表情を浮かべて足首をさすった。千景の視線に気づいたのか、朱燈は愛想笑いを浮かべて立ちあがろうとした。それを制し、彼女の足首を見てみれば軽く紫がかっていた。
「ああ、ねんざしてるな」
神経が切れてるとかじゃなくてよかった、と千景は安堵する一方、どうするかと背後から迫る音に耳をすましながら考えを巡らせた。有体に言えば、朱燈を捨てるかそれとも連れていくかの二択、もし連れていくなら背後から迫るオーガフェイスはどうするかという話だ。
オーガフェイスを迎え撃つのは現実的ではない。一体一体は取るに足らない相手でも集団で襲い掛かられたら二発目を撃つ前に食い殺される。なら逃げるのはどうかと言えば、薄暗い森を怪我人を抱えて逃げるなんて不可能なのは言うまでもない。追いつかれてやはり殺される。
クソが、と悪態をついた。もちろん心の中で。
仲間を見捨てるか否かそんなことに頭を悩ませる、思考を巡らせるなんていうのはクソの所業だ。おおよそ、文明人がするようなことじゃない。しかし現実問題としてやらなくてはいけない状況にある。それは理解しているからこそ、余計にクソが、言いたくなった。
「捨てなよ」
悩む千景をよそに朱燈は真剣な眼差しで彼に訴える。驚く千景はしかし、表情にはそのことを一切出さずに、口元をきつく締めた。
自己犠牲のくだらなさは身をもって知っている。黒いネメアに襲われた時、少しでも隊員を逃がそうと単機でスフィンクスの群れに特攻したのだから。そしてその結果、朱燈は助かったのだから、結論など初めから決まりきっていたのかもしれない。
——気分がよかったから、俺はこいつを助けたんだったな。
ならその責任を負うべきだ。助けた責任それが自分にはある。自分をそう言って納得させ、千景は足元の泥をすくい上げた。
次の瞬間、千景はその泥をしおらしくしている朱燈の顔面目掛けて思いっきりぶつけた。泥だらけの顔は泥パックにでも浸かったかのように抹茶色になっていく。驚く彼女をよそに千景自身も同じように自分の顔に、手に、泥を浸けていった。
「ちょっと何して」
「あんましゃべんな。泥口に入るぞ」
驚く朱燈の上に覆い被さり、さらにその上から泥を被せていく。泥だけではない。落ち葉やその辺りに生えていた雑草なども影槍を変形させて自分達に被せていった。瞬く間に二人の姿は泥の中に沈み、その姿は外からは見えなくなった。
その直後、それまで遠くからしか聞こえなかった。オーガフェイス達の声が真上から聞こえた。しかしそれは耳元で囁かれているようなものではなく、もう少し遠くから、おそらくは樹上から響いていた。
樹上、それまで移動していたはずのオーガフェイス達はピタリと静止し、何かを騒いでいる。ギャーギャーとやかましく、喧騒とはかくあれかしと言わんばかりにけたたましく。
そりゃそうだよな、と千景はほくそ笑んだ。彼らからすればそれまで追っていたはずの獲物がどこかに消えてしまったのだ。驚くだろうし、仲間内で相談だってする。もっとも、そんなことをしたって見つかりっこないが。
オーガフェイスの五感は猿と大差ない。視力は人にやや劣る程度、聴覚、嗅覚は野生動物らしくすぐれていて、それ以外の二つはよくわからない。人で見分けのつかない偽装なら、まず視力で泥の下にいる千景達は見つけられない。聴覚、嗅覚は雨音と雨の匂いのせいで使い物にならない。
——だからそのままどっかに行ってくれ。できれば別の場所で反省会なり井戸端会議なりしてくれ。
そう千景が念じ始めた頃、不意に地面を伝う振動が伝わってきた。何か巨大な生物が近づいてくるその足音が、泥を伝って、落ち葉を伝って聞こえてきた。
途端にそれまで樹上でやかましく井戸端会議をしていたオーガフェイス達は沈黙した。近づいてくる生物の気分を害さないように、口元に丸太でも突っ込んだんじゃないかってくらい鳴き声一つ上げずにいる。
ヤバいと感じより一層深く、千景と朱燈は息を止めた。口元を手で覆い、近づいてきた生物に感づかれないように。
足音は不意に止まった。その直後、千景達が寄りかかっていた樹木がメキメキという音を立てて倒れた。
たまらず、起き上がる千景と朱燈は同時に自身の目の前にいるソレと目が合った。
発達した後ろ足、オーガフェイスに倍する巨躯、より変形した鬼の仮面。さながら古代の恐竜を思わせるシルエットのそれは現れた千景達を見て、満足げに歯を鳴らした。
「オーガ、レイス」
オーガフェイスの上位個体、中位種のその一角は現れた千景達目掛けて突進する。避けることなんてできない。その暇もない。
それでも争おうと二人はとっさに影槍を展開する。突っ込んでくるオーガレイスに一体どれだけの傷を負わせられるかなんてもう脳みそになかった。無我夢中で展開した影槍はしかし、振り下ろされると同時にその仮面と衝突し、砕け散った。
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