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Vain  作者: 賀田 希道
不思議な国の話
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脅威

 「——ねーちかげー」

 「肉ならまた後でな。ほら、もう発つぞ」


 ブーブーと文句を言う朱燈は千景の手を握って立ち上がりがてら、邪な目を彼のジャケットの裏側に向けた。そこには昨日の夜、千景が狩ってきたゴアーの肉がまだたっぷりと残っていた。ビニール越しでもその血臭は漂ってきていて、血生臭い匂いであるはずのに自然と空き腹をグゥグゥと鳴らして刺激した。


 ——ちなみにビニールパック越しに肉の匂いが漂ってくることはない。朱燈の気のせいである。


 「早いとこ移動しなくちゃいけないんだって。昨日の夜に説明しただろ?」


 洞穴の入り口を背にして、千景は背後を睨む。鬱蒼と生い茂る大樹林。もう何度見たか知れない深い森は相変わらず不気味な緑に覆われており、朝を迎えてなお暗い嫌な雰囲気を漂わせていた。ところどころで霧が発生しており、昨日に増して濃さが増しているように思えた。


 木々の隙間を目を凝らして見ていると、昨日の夜の出来事が脳裏をかすめた。朱燈がグースカと惰眠を貪っていた頃、夜闇の静寂を破る獣の慟哭を千景は聞いた。獣の慟哭自体はさして珍しくないが、それが断末魔であれ歓喜の遠吠えであれ、聞けばなんとなく何を思って鳴いているのかが千景にはわかる。


 そして昨晩、彼が聞いた鳴き声に込められた感情は哀傷だった。何かを失ったものが恨み節を混ぜて雨天の叢雲に向かって叫んだ悲鳴だ。


 「なーんか、嫌な予感がするんだよなぁ」


 獣の慟哭やら悲鳴なんて聞き飽きた身の上ではあるが、哀傷を感じる慟哭はいつだって悪い未来の前触れだ。ジンクスと言ってもいい。自然と首筋に鳥肌が立つほどに嫌な予感がして仕方ない。


 その緊張の糸はしかし、朝っぱらから肉食べたい肉食べたいとわがままを言う朱燈のせいで完全に断ち切られた。有体に言えば雰囲気もムードもなく、空気はぶちこわしだ。


 ただ炙っただけの塩も胡椒もない肉塊をよほど気に入ったのだろうことは想像に難くない。これまで食べてきたサンドイッチなんかとも違う乾いていない瑞々しい肉を頬張った彼女は心なしか極限状況にも関わらずどこか肥えて見えた。


 「あんまり長居もできないんだよ。今日中に公道に出たいし」

 「そーは言うけど、公道がどこにあるかわかるの?」


 「ああ。それはもちろん」


 洞穴から顔を出した朱燈に千景はある方向を指差した。霧が濃くほとんど前は見えないが、その先にうっすらと錆びたガードレールの輪郭が見えた。


 「この斜面を道沿いに歩いていく。そうだな。二時間も歩かない内に公道に出ると思うぞ」

 「斜面歩くだけでいいの?」


 「んー。多少の上り下りはするだろうな。でもロッククライミングまがいのことはしないんじゃないかな」


 もしそうなったら千景自身はともかく、朱燈には難しい。彼女の影槍を使えばどうにかなるだろうが、体内のカロリーを大幅に消費してしまう。栄養剤を節約しなくてはいけない環境で、不用意に影槍を使わせるわけにはいかない。


 目線の先にある山沿いの道は山間部を隔てた先にある。このまま斜面沿いに歩いていてもたどり着くことはできない。どこかなだらかな地形で下に降りてから再度、登りやすい場所を見つけて登る必要がある。幸い、長い間なんの維持・管理もされていなかったからか、車道の下にある斜面には登れそうな崩れ方をしている箇所が複数あった。


 「——よし、いくぞ」


 雨やまぬ中、二人は意を決して歩き始めた。相変わらず千景が前、朱燈が後ろだ。


 雨足はそれほど強くはない。季節を考えれば小降りなほどで、地面の柔らかさも足をすくわれるほどではない。それはそれとして、すっ転んでいる白髪の同僚もいるわけだが、生来の体幹は健在でごろごろと斜面を転がっていくようなことはなかった。


 地面が柔らかいということは足跡が残りやすいと言うことでもある。柔らかすぎれば雨水で流されてしまうがそういったこともなく、くっきりとした足跡が進行方向の道を横切る形で残されているのを千景は見逃さなかった。


 爪先が二つに分かれた足跡、そして五又に分かれた足跡だ。


 前者は猪の蹄によく似ている。というか、猪の蹄そのものだった。ただし、とても大きい。少なくとも縦幅が30以上あり、爪が地面に深く沈んでいることから相当な体重の持ち主だということがわかる。朱燈に周囲を警戒するように指示して、千景は近づいてそれを注視した。


 「これは……ゴアーの足跡か」


 猪型のフォールンと言えばゴアーというくらいには代名詞的なフォールンだ。それが真っ直ぐ斜面を登っていっていた。ゴアー、その成体が登っていったからか、通り道にあった草花は泥の中に沈み、木々はほとんどが幹が折れ、あるものは根本からひっくり返されていた。荒々しく何かを打ち付けられた跡もあり、そういった木々は総じて幹の中でも一際深い場所が衝撃に耐えられずに陥没していた。


 ゴアーの成体は時にネメアを超える大きさにまで成長する。フォールンのランクの上では中位種だが、身体能力の潜在能力(ポテンシャル)は上位種に匹敵する。パワーでゴリ押ししてくるタイプだから、明確な弱点や欠点というものがなく、一度攻勢に回られればこの上なく厄介な相手だ。オスかメスかはわからないが、どちらにしても厄介な相手であることは間違いない。


 それよりも、ともう一つの足跡に目を向ける。


 五又、つまるところ五本指の足跡だ。


 人の掌に似た形のそれは等間隔で並んでおり、斜面を上から下へ移動していた。それが多数、一つ二つではなく、いくつもの五本指の足跡が重なり合い、斜面の麓に向かって伸びていた。


 ——そしてその中には一つだけ、一際大きな足跡があった。他の足跡が縦幅20センチ程度なのに対してその足跡だけは25センチを超え、30センチに迫っていた。ゴアーの成体と同じ縦幅だが、横幅も広いせいで五本指の方が大きく見える。実際に大きいのだが。


 「ちっこいのはオーガフェイス、大きいのは」

 「オーガレイス?」

 「多分。群れの規模は10匹前後かな」


 オーガフェイスという名前に朱燈は反応し、視線を千景に落とした。そしてつぶやいたその上位個体の名前に千景は小さく頷き、立ち上がった。


 オーガレイスとはオーガフェイスの上位個体だ。一言で言えば大きくなったオーガフェイスで、相変わらず巨大な鬼の仮面をしている。テナガザルなんかを彷彿とさせる長いしっぽを生やし、より一層後ろ足は発達し巨大化している。


 言わずもがな、脅威という意味ではオーガフェイスの数段増しで厄介だ。身体能力もさることながら、その知能は人間でいう8歳児に相当する。個体によっては10歳児並みの知能を有している場合もある。


 「——しかもこの足跡、まだ新しいな。形がはっきりとしてる」


 ゴアーの足跡の形が崩れているのに対して、オーガフェイスらの足跡はくっきりとその跡が残っていた。足跡に触りながら、その進行方向を見つめながら千景はどうしたものか、と顎を撫でた。


 「ほんと、なんでこうも脅威が増えるんかねー」

 「そりゃ未踏破領域だからでしょ」


 「それもそうか。よし、進軍再開」


 一歩足を踏み出し、千景は視線を斜面の麓におろす。


 ——そこには無数の幽鬼が漂っていた。深い緑の中に漂う赤色の鬼火達、雨天の中にあって彼らは消えず、ゆらゆらめらめらと燃え続けていた。獰猛なまでに剥き出しになった錆色の歯茎を覗かせて。


 「——いや、駆け足で行け。まずい。長居しすぎた」


 駆け出すよりも早く、オーガフェイスが緑林から飛び出した。一つ、二つ、三つ。都市部とは毛色が異なるオーガフェイス達は泥だらけの斜面を駆け上がり、咆哮を上げた。


 「GRRRRRRRRRR!!!!!!」


 「うっせぇ!!」


 雄叫びを上げるオーガフェイスの口腔めがけて千景は引き金を引く。対物ライフルを遥かに超える威力の銃弾は一瞬にしてオーガフェイスの背骨を貫き貫かれた個体は雄叫びを上げ終わらぬままに斜面から滑り落ち、真下から伸びていた樹木の枝に突き刺さった。


 仲間が死に、オーガフェイス達は一瞬、その動きを止めた。その隙を突き、朱燈は腰から二本の影槍を発生させ、呆けた様子のオーガフェイスめがけてそれを振るった。


 細く、薄い荒縄程度の厚みしかない影槍。槍というよりかは刃に近いそれはキィーという風切り声を上げて雨中の空間に軌跡が描かれ、その軌跡上にいたオーガフェイス達はあわれ、瞬く間に寸断された。


 「——よし、逃げるぞ!」

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