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Vain  作者: 賀田 希道
不思議な国の話
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斬爪

 一時間ほど山道を歩き、ちょうどいい雨除けの窪地を見つけた千景達は警戒しながらその中に入っていった。


 くぼみと言っても実態はちょっとした洞穴だ。深さは5メートル程度、鍾乳石が天井や地面から突き出しているというわけもなく、極めて簡素な、これといってなんら特筆すべき風景のない洞穴だ。


 ライトで中を照らし、何もいないことを確認して二人は中に入り、ふぅと息を吐きながら腰を下ろした。しかしすぐに緊張を解くわけもなく、腰を下ろすとすぐに千景は自身の銃器の点検を始めた。その間暇を持て余した朱燈は何を思ったか、千景にさきほどの木を剥がしたあとについて聞いた。


 「——ねぇ千景。あれってさ、なに?」

 「あれって?」

 「ほら、あの木だよ、木。木のとこにあったなんか、剥がれた痕。あれってなんの痕なわけ?」


 その話題を振られた瞬間、千景は銃をいじる手を止めて顔を上げた。そして何かを逡巡する表情を浮かべながら、再び視線を銃器に落とし、点検を続けながらで朱燈の疑問に答え始めた。


 「あれは、ルナユスルの爪痕だよ。クマハギってやつ。知らない?」

 「なにそれ。てかルナユスルって?」

 「フォールンの名前だよ。固有名詞、通称、ゴリラ・ゴリラ・ゴリラに対するゴリラ、みたいな」


 それはわかってる、と不満顔で朱燈は吐き捨てる。


 「あたしが聞きたいのはそれはどういうフォールンかってこと。聞いたことないんだけど」


 だろうな、と銃の点検を終えた千景は背後の石壁に背をもたれかけながら、肩をすくめた。千景自身も本物を見たことは一度しかないし、その時はそれがルナユスルと呼ばれる上位フォールンだとは思いもよらなかった。


 ルナユスルはクマ型のフォールンだ。等級は上位、平均身長は5メートルから6メートルほどで、ツキノワグマがフォールン化したからか、特徴的な銀色の三日月模様が首周りにある。


 分布は東アジアから中央アジアとかなり広く、日本列島にいる個体は原種ではなく、鋭種というその風土に特化した種とされている。原種の三日月模様が銀色であるのに対して鋭種はうっすらと赤みがかった銀色であるのが両者の違いだ。


 「体は鋭種の方が原種よりもちょっと大きい。まぁユスル系は全部体大きいから誤差レベルだけど」

 「じゃぁ、さっき見たのってそれが?」

 「ああ。縄張りのアピールのために木の皮を剥いだんだろうな」


 ため息混じりに千景は語り、外を雨天の森林地帯を睨む。ざぁざぁと降る雨は生き物の活動をにぶらせ、普段は騒がしい森の中に静寂をもたらす。ここまで一度もフォールンと出くわさなかったのはこの雨のせいか、と考えていたがルナユスルがいるとなれば話は変わってくる。


 ——誰も暴れん坊の隣で騒ぎたくないという話だ。


 フォールンに限らず、肉食性の生物は少なからず縄張りを有している。その縄張りに異物が入れば彼らは烈火のごとく怒り狂い暴れ始める。オーガフェイスなどの中位種でもそうなのだから、より上位のルナユスルの怒りはまさしく大火に等しい。


 「どーすんのよ。そんな化け物の縄張りなんて」

 「ルナユスルは夜行性だ。雨で数日太陽が見えなくなったからっていきなり昼行性になるわけじゃないから、昼の間は大丈夫だよ、多分」


 「多分て」

 「寒冷化で地球の気候も色々ぶっ壊れてるからなー。冬になったら冬眠、みたいなのもないから大変だろーぜ、色々と」


 元になった生物がツキノワグマであっても、フォールンはやはりフォールンだ。その生態は読みにくく、常識が通用しないことがほとんどだ。かろうじて夜行性、昼行性の違いくらいはわかるが、それも絶対とは言えない。


 本来は夜に活動する生物が昼間に活動している、なんて事例は古今東西あらゆる自然界でたびたび起こっている現象で、今回のルナユスルがそのまま千景の知識のままに夜行性である保証はない。ひょっとしたら、ちょっと外に目を向けてみればひょっこり顔を出すかもしれない。


 ——それがたまらなく怖い、と朱燈は感じた。自然と銃のグリップを握る手に力が入ったのはそのためだ。


 「千景はさ、怖くないわけ?」

 「怖いけど?でも、怖いからって常識を忘れちゃダメだろ。常識を忘れるってのは冷静さを失う、経験を放棄するってことだからな」


 「そう。ふーん。強いんだ」

 「逆だろ。弱いから精一杯心が壊れないようにしてるんだよ。てか、自暴自棄になるのだって心を守る行為だから、本質は大差ねーぞ、俺とお前じゃ」


 そうかな、と朱燈は微笑を浮かべて疑問符をこぼす。彼女の赤眼は一瞬潤み、しかしそれはすぐに洞穴の天井から落ちてきた水滴によってかき消された。目をこすりながら、朱燈は潤んだ声でため息をこぼした。


 ——多分、こんなことにはならなかった、千景だけなら。あるいは千景が自分を助けなければ。


 記憶は朧げだが、黒いネメアに手首を切られた自分は千景に助けられた。千景が自分を庇って、一緒に濁流に呑まれていった。あの時、どうして千景は自分を庇ったのだろうか。


 それとなく、山道を歩いている時に千景にそのことを聞いてみた。なぜ、わざわざ手負いのあたしを助けたんだ、と。すると千景はこう答えた。気分が良かったからだ、と。


 わけがわからないんですけど、とその時は朱燈も思った。気分てなんだ、気分で人を助けるのかよ、アホじゃねーの、と。


 人を助けるのに理由はいらない、と言った人がいたという。しかしそれは間違いだった。人を助けるのに高尚な理由はいらない、がきっと正しい。実際に気分で助けられた朱燈としてはそれが一番しっくりくる表現だった。


 だから千景は文句を言わない。不平も言わない。後悔もしない。助けたなら助けた人間として責任があると言わんばかりの鉄仮面振りで今も外の雨降る樹林に意識を向けている。


 「なーんか、随分と」


 真面目になったなーあたし、と思いながら朱燈は天井を見る。暗い、低い天井は地面から染み出した水がぴちゃん、ぴちゃんと水滴を落とし、それは時たまに彼女の頭皮を濡らし、天井を向けば顔に直接かかった。


 思いがけずセンチメンタルな気分になっている自分に困惑しながら、ふと朱燈は暇つぶしに千景に視線を向けた。鉄面皮のまま外を見ている彼はおもむろにライフルを構え、スコープを覗き込んだ。


 「何見てるの?」

 「いや、フォールンいないかなって。さすがにここで襲われたらまずいからな」


 言われながら、朱燈は洞穴の奥に視線を向ける。洞穴の深さは5メートルほどしかなく、抜け道があるようには見えない。出口は一箇所だけで、もしここでフォールンに襲われれば逃げ場はない。


 ならどうしてこんな場所で休憩を挟んだのか、と千景に問えば彼はこう返す。使われていない洞穴だったから、と。


 「それってルナユスルに?」

 「それもあるけど、それ以外のフォールンにも、だな。フォールンだって生き物だから、巣とかはあるし、雨の日なんかはそこに引きこもってることも多いしな」


 「なーんか、人間みたい」

 「大きい括りで見りゃどれも生き物だし。雨の日にナーバスだったり、ダウナーな気分になるのはどの生物も同じってことなんじゃないか?」


 どうでもよさそうに千景は語る。フォールンの生態に詳しいくせに、その生態の理由には興味がないように朱燈には見えた。その興味の在り方にはチグハグ感があるというか、フォールンを殺すためだけに知ったようなきらいがあった。


 だからだろう。これまでしてこなかった質問を彼女はついついしてみた。


 「——なんで千景はヴィーザルにいるわけ?そーいや聞いたことなかったよね?」

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