爪痕
雨が降り続ける未踏破領域、深い山道を二人の傭兵はひたすら東へ向かって進んでいた。
ライフルを持つ千景が先導し、次いで拳銃を持った朱燈が追随する。一歩進むごとに周囲に警戒の眼差しを向け、そしてまた歩き出す。
雨水をたっぷりと吸ったからか、足元の土はぬかるんでいて非常に滑りやすい。あ、と驚いた時にはもう手遅れで尻餅をついたり、前のめりに倒れて天然の泥パックになったりした。
「——歩く時はちゃんと地面を踏み固めてから歩け。でないと転ぶぞ」
「やってるけど!そうすぐに踏み固められるなら苦労はないって!」
泥だらけになった朱燈とは対照的に千乱はそこまで汚れてはいない。袖口や裾口など、泥が跳ねやすい場所はもちろん汚れているが、それでも朱燈と比べればまだ身綺麗な方だ。有体に言えば慣れている感があった。
自身の注意にぶーぶーと文句を言う朱燈に肩をすくめ、千景は再び前を向いて歩き出す。そして進みながら彼は手首に巻かれたマルチウォッチへ視線を落とし、コンパス機能で方位を確かめる。
「それってアテになるの?」
「んー。まぁな」
「ここって富士山の裾野でしょ?だったら、グルグル回るんじゃないの、コンパスって」
「それ都市伝説だぞ?常識的に考えてただの森の中で磁石が壊れるわけないだろ」
朱燈のいい加減な知識に千景はため息を吐く。富士山の裾野に広がる青木ヶ原樹海ではコンパスが狂うなんて出鱈目だ。実際はグルグルとコンパスが回るなんてこともないし、むしろ普通にコンパスは使える。
だから問題ない、と豪語する傍ら、千景は時計の表面に弧を描いて画面を切り替える。映し出されたのは白いディスプレイウィンドウ、そして5.48という数字だった。
「ちょっと上がったか?」
「数値?」
「0.5くらいだけどな。大気成分の違いか?」
訝しむ千景は樹皮に触れると剥がれかけの一枚を指で摘み、べろりと剥がした。すると、剥がされた樹皮の裏側からは半透明の塊が現れた。それはストリングチーズのように引っ張ると伸びる粘性のあるゼリー状の物質で、容易には切れなかった。
「あー。中にクリームが溜まってたのか」
「クリーム?顔につけるやつ?」
「いや?これは、そうだな。クリームってのは隠語みたいなもんだよ。樹木の中身がとろけて、ガワだけ残ってるのさ」
きっと連日の雨のせいだろうな、と千景は独りごちる。
未踏破領域の木々はサンクチュアリの街路樹などとは違い、F因子の影響を受けて成長する。基本は普通の木と変わらないが、一度に多量の影響を受けるとフォールン化することがあり、その結果として中身がぐずぐずに蕩けてしまうのだ。
人間のフォールン化とその点はよく似ているが、なぜ似ているかのはわからない。植物のフォールン化は現時点でこういった形でしか発見されていない。
「雨の影響で汚染された水を大量に吸ったんだろうな。そのせいで」
「なんか、まずい?」
「将来的にはちょっとな」
周囲に林立する木々を見ながら、千景は行軍を再開する。その道すがら、なぜまずいかの説明を行った。
「中身がなくなった木っていうのは遠からず倒れる。で、木っていうのは土に染み込んだ水を吸収する役割があるんだ。そんな木が倒れたらどうなる?」
「そりゃ、水がたまりっぱなしになるんでしょ、土に」
「ああ。ただの平地ならせいぜい土壌が液化するくらいだろうけど、斜面なら問題だ。最悪、土砂崩れが起こる」
「なるほどね。でもそれなら」
それなら、この辺りももっと荒れててもいいんじゃない、と視線を木々に向けながら、朱燈は疑問をこぼす。本当に千景の言う通りならば、気象が乱れたおおよそ20年前から地形はだいぶ変わっている、と言外に言い含めて。
「木々の成長に助けられてる面が大きいだろうな。実際、F因子の影響で植物の異常成長、異常進化が報告されているし」
目の前のおかしな木を指さし、千景はあれとかね、と返す。
周りを凌駕するほどに巨大な木、いっそ周囲の栄養を全部吸収してしまったかのような大きな木、その樹冠が千景と朱燈が歩いている斜面に寄り添うようにして、はるか真下の森林地帯から生えていた。
樹種は一般的な広葉樹だ。日本にも多く群生している。しかし、圧倒的に大きい。ただ上に向かって伸びるのではなく、斜面に沿ってそれは伸び波打っている。
その巨大な広葉樹の周りに生えている木々はどれも背の低いものばかりだ。あるいは巨大な広葉樹の枝葉に絡め取られて癒着しているものまである。
足を止め、二人は広がる大樹を見下ろした。斜面の麓に広がる森林から伸びる大樹、雄々しくしかしどこか歪なそれは見るものを圧倒する錚々たるものだった。
自然と呼ぶには歪で、どこかおどろおどろしい。まるでバスケットボールが跳ねた軌道がそのまま立体化したかのように生える広葉樹と、それに寄生し成長する木々の合作だ。
「すごっ。って。ああいうのはさっきみたいにならないわけ?」
大樹を指差し、朱燈が聞いてくる。その問いに千景は即答した。
「クリーム状に?ならないと思うぞ。単純に質量とか、内積が、ん?」
刹那、千景の姿が朱燈の視界から消えた。それがすぐに伏せたのだと朱燈は理解したが、それならそれでどうして唐突に彼が伏せたのかがわからなかった。半ば反射的に朱燈が身を屈ませると、千景は小声で彼女に耳打ちをした。
「樹冠の近くの樹皮、見てみろ」
「見てみろって。んー?」
言われた通り、朱燈は目を凝らして樹冠に程近い樹皮に視線を向けた。
千景に言われた場所を見てみてば、何かがあった。いや、何かがあったという表現は抽象的かもしれない。何かの痕があった。樹皮を剥がした痕があった。
樹皮を剥き、クリーム色の中身が露わになっている。雨で打たれた箇所が僅かに蕩けており、垂れた粘性の物質が周りの樹皮と絡まって白色の枝と化していた。
「なにあれ?」
「まずいな。朱燈、すぐにここから移動するぞ」
朱燈の疑問に答えず、立ち上がった千景は早歩きで斜面を進み始めた。遅れて朱燈がその後を追って、斜面を走り始めた。
「なに!どうしたの!」
「いいから!」
移動する傍ら、千景の目線は先ほどの樹皮が剥がれた痕へと向けられ続けた。後ろで騒ぐ朱燈を無視して、彼はただその痕を注視し、警戒し、そして恐怖した。
「ルナユスル、か」
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