出発
——雨が降り注ぎ、小屋の上で跳ねる音で千景は目を覚ました。
目を覚ましてすぐに千景は手首に巻いているマルチウォッチに視線を落とした。時刻が午前の6時であることを確認し掛け布団がわりにしていた防寒ジャケットを羽織り、干されているシャツに彼は手を伸ばした。
手に取ったシャツは生乾きな上、ゴワゴワしていた。湿度が高いせいでうまく乾かず、袖を通した時はなんとも言えない不愉快な感触が肌を伝った。
着替えを終えた千景は小さな窓から外を見る。雨が収まる気配はなく、しかし寝る前に見た時よりは勢いも落ち着いたようで窓の向こうに見える崖の上に広がる森林の輪郭ははっきりとしていた。心なしか、湿度のおかげで多少暖かくもなったように感じた。
いい傾向だ、と頷きながら、千景はいまだに寝息を立てている朱燈に振り返った。防寒ジャケットをかけられている彼女は愛らしい寝顔を浮かべながら、小さく息を吐く。ジャケットの隙間から覗かせる灰色の包帯は血で汚れており、千景はそれを取り替えようと彼女に手を伸ばした。
慣れた手つきで、起こさないように慎重に千景は傷んだ包帯を変えていく。処置をしながら、千景は残りの包帯の残量を数え、ため息をこぼした。
傷口は放っておけば感染症の温床になる。微生物、バクテリア、病原菌、粘菌。蚊やハエといった感染生物以外にもキノコの胞子や草木の花粉などは相変わらずそこかしこに自生しているし、水だって汚染物質が含まれている。影槍の保持者はF因子以外にもこういった人間の体に悪影響をもたらす汚染物質に耐性を持たせるが、それも絶対ではない。未知の病原菌なんかには対処できない。
「これでよし」
包帯を巻き終わり、結び目を作る千景はすやすやと寝ている朱燈をじっと見つめた。おだやかそうな寝息を立てる彼女は心底安心しきった表情で眠っている。愛おしそうにその表情を眺め終えると、千景はそっと彼女の頬を叩いた。
「ん」
「朱燈、起きろ。そろそろ行くぞ」
「もう?」
「ああ、残念だけどな。だいぶ寝て体力も回復しただろ?」
伸びをする朱燈に恥じらう様子はない。一矢纏わぬ上半身をさらしても平気そうにしながら、彼女は防寒ジャケットを取ると、千景に投げて渡された自身のシャツに袖を通した。
生乾きじゃん、と文句を言う彼女に俺もそんなもんだよ、と千景は返す。いつもならもう少しわがままを言う朱燈も状況が状況だからか、不満顔を浮かべても決してとやかくそれ以上何かを言うことはなかった。
朱燈が着替え終わった頃を見計らって千景は彼女を呼び、座るように言う。そして自身も座ると、腰から拳銃を取り出してそれを彼女に手渡した。
「え?あたしも一応持ってるけど?」
困惑しながら朱燈は腰に手を回し拳銃を取り出した。一般的な50口径の自動拳銃。人間に撃てば致命傷だが、フォールン相手にはクマ避けの鈴ほどしか役立たないし、もっぱら自殺目的でしか使われない。
そんな自殺以外になんの役にも立たない拳銃を二丁も持つ必要はないし、むしろ重しになる。そう言って押し返す朱燈に、しかし千景は彼女の固辞を否定して強引にそれを持たせた。
「——壊れた時用に持っとけ。最悪、自殺の時に役に立つし」
「千景はどうするんのさ。そのライフルでも口に咥えるわけ?」
それもいいけどな、と千景は自嘲気味に笑う。昔のアニメを鑑賞するイベントかなんかでそんなシーンがあった気がする。あいにくと、自殺のために弾丸を使うよりも敵を殺すに弾丸を使うだろうから、そんなことはないだろうが。
「万が一の時は薬があるから、それを使うさ。それであわよくば肉体負荷で死ねるかもしれないし」
「はぁ?なにそれ。そんなの」
「万が一だよ、万が一。とにかく俺はまだこの未踏破領域を抜ける算段があるからいいさ。問題は朱燈、お前だ。お前が窮地に陥った時、可能なら俺は助けるけど、無理だと判断したら速攻見捨てる。そん時、お前が苦しまないようにするための拳銃だ」
「そんなことが起こるって?そりゃそうかもしれないけど」
「そういうのが起こり得るのが未踏破領域だ。何度か来て、わかってるだろ?」
まあね、と返す朱燈は嫌な記憶でも思い出したのか、暗い表情を浮かべた。それがなんの記憶なのか、千景は敢えて推測せず、話を進めた。
「で、そんなやばい場所を超えるにあたって、まずは方針というかルートを決めておきたい」
「ルート?公道に出るって話じゃなかったっけ?」
「基本はそうだな。憶えてくれてて助かったよ」
バカにしてるの、と朱燈は睨んでくるが、千景は受け流す。喧嘩をしている場合ではない。
「公道を使うって基本方針は変わらない。けど、ずっと使うわけじゃない。というか、多分使えない」
「それってフォールンと遭遇するから?」
「そうだな。そのリスクが高いと俺は考える」
なんで、と朱燈は聞いてくる。対して千景は、そりゃそうだろ、と前置きをして答えた。
「フォールンからすれば俺達が普段使ってる真っ平な道ってのはめちゃくちゃ歩きやすい道だろ。なにせ障害雨物も凹みない。常識的に考えればあいつらの通り道になっているし、遭遇率も跳ね上がる。むしろ山道ならまぁ、見晴らしは悪いけど、遭遇率は少ないと思う。縄張りとかの関係もあるだろうし」
「でも憶測でしょ、それ。どんだけ確かなのって話じゃん」
「そこは俺の経験と勘を信用してもらうしかないな。実際、フォールンは縄張り意識が強い。特に肉食系の種はな。草食系のフォールンは滅多に人を襲わないから、遭遇しても襲われるリスクは低い」
「そーゆーもの?」
「別に初めっから山道を使うなんて言ってないぞ?回避できるものなら回避したい。公道が使えないとか、やむ得ない事情に限ってさ」
疑う朱燈を納得させようと千景も必死になって彼女を説得しようとする。山道を通る上でのリスクは彼も十二分に理解しているからだ。
山道はその名が示す通り、道なき道だ。朱燈に話したように見晴らしが悪いことに加え、方向も定まらない。フォールンとの遭遇率もそれなりに高い。しかしメリットもあり、身を隠しやすく紛れやすい。遮蔽物がまずない公道では遭遇するリスクはもちろん、発見されるリスクも大きい。その点、山道であればある程度、ごまかしが効く。
「あと、山道だと敵さんの足跡が残ってるけど、公道はそうはいかないだろ。どんな奴がいるかとか考えられないのは危険だしな」
特にこんな雨の日はな、と窓の外を見ながら千景は付け加えた。雨が降っていれば地面は柔らかくなり、足跡がつきやすくなる。足跡が目立ちやすくなればその分、発見しやすくなり、遭遇率も減る。無論、千景達の足跡も残るわけで、こちらが追跡されるリスクもあるが。
「そういうわけで、公道を少し歩いたら山道、山道を歩いたら公道って感じで行こうと思う。リスク回避ってやつだ」
「でも公道よりも山道の方が疲れるんでしょ?あたし、こんな感じなんだけど」
これ見よがしに朱燈は自分の右手を持ち上げる。負傷者を抱えたまま山道を歩くってどうなんだ、と言外に文句を垂れる彼女に、千景はしかし冷静に反論した。
「——我慢しろ」
「うぇーい。ですよねー」
「どのみち、どう歩こうが上位種、いや中位種のフォールンに遭遇した時点でほぼほぼ死ぬんだから変わらねーだろ」
「はーい。じゃぁ早速行くかー」
「飯食ったらな」
そう言って千景はジャケットのポケットからブロック状の塊を取り出した。いわゆる軍用レーション、一日分の五大栄養素を1ブロックで賄える画期的な品だ。
「うえぇ、まず」「我慢。我慢……しろ」
ただし味はまずい。すこぶるまずい。そして固い。まるで乾燥した紙粘土を食ってるようだ、と人は言う。
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