Wondering Hunters
しばらくして落ち着きを取り戻した朱燈は、千乱に背を向けながら話を切り出した。
「——それで、何が起きたんだっけ?」
「ん?あーそうだな。まず、お前はどこまで憶えている?」
パンパンと防寒ジャケットに残った雨粒を払いながら、千景は事前情報の確認を行う。確認、もとい朱燈自身が知っていることを説明する手間を省くための必要な儀式のようなものだ。
千景に背を向けながら、朱燈は言い淀みながら、自分に起きたことを語っていく。雨天での作戦結構、ネメアとの戦い、そして乱入してきた黒いネメア。仲間の死を思い出した時、彼女は喉奥から何かを吐き出すような、う、という嗚咽を漏らしたが、それまでで、それ以上は何もなかった。
その後の記憶はない、と朱燈は告げる。まぁそうだろうな、と千景は首肯した。黒いネメアによって利き手を切られた朱燈はその後、千景と共に荒れ狂う川の中に落下した。川底が思ったよりも深かったことが幸いして、川底に叩きつけられることこそなかったが、意識を失い、かなり下流の方まで流されてしまった。
幸いにも二人の装備はマグネットシートで固定されているため、腰のポーチや銃の弾倉は無事だった。いずれも防水加工がされていて、銃器についても問題ない、と千景はひとしきりガチャガチャとボルトや引き金をいじりながら判断した。
「問題があるとすれば、今の位置だな。なんせ、元々サンクチュアリからだいぶ離れたところでの任務だし、歩くにしたって距離がある」
「通信は?」
「あーそれな」
コンコンと千景は彼の右耳を挟んでいる耳ピアスにも似た機械をこづいた。
イヤーキャップと呼ばれるそれは骨伝導によって音を伝える装置だ。古い時代のイヤフォンやヘッドフォンなどの電気音響変換装置の現代版と言い換えてもいいかもしれない。
ただし、その機能はいくつかのチャンネル分けで無線通信をそれ単体でこなせるほど高度だ。フォールン大戦開戦の30年前までは無線機にイヤフォンを取り付けて行っていたやりとりが二つのピンセットに似た装置だけで完結するのだから、画期的と言える。
「なんか壊れてるっぽい。そもそもイヤーキャップの無線の距離なんて18キロが限界だからな。多分、救援頼んでも届かないんじゃないか?」
「うそー。じゃーこれは無意味ってわけ?」
「俺のは壊れてるけど、朱燈のはどうだ?」
「ん。やってみる」
言われた通り、タンタンとイヤーキャップの表面を朱燈はこづくが、すぐにはぁと深いため息をついた。どうやら彼女のイヤーキャップも壊れているらしい。
電池切れの可能性もあるにはあるが、十中八九故障だろう、と千景はため息をつく。その理由は明白だ。ネメアやその雌個体であるスフィンクスとの戦闘で予想以上の電圧負荷がかかり、内部の回路が焼き切れてしまったのだ。そう考えれば、防水加工のイヤーキャップが壊れてしまった原因にも説明がつく。
項垂れる彼女を尻目に再度、千景はポーチの中身を確認する。腰に取り付けているものの他、防寒ジャケットの中には着火用のライターや可燃材数式が入ったセットが二つ、血液凝固スプレーが一つ、携帯食料が入ったポケットが二つ、そして万が一の際に用いられる即効性特殊錠剤がいくつか収められた銀色のケースが彼の目の前に広げられた。
前者の中身がちゃんと生きているかを確認した後、おもむろに千景は最後に残った銀色のケースに手を伸ばす。薄べったいファンデーションケース大のそれをパカリと開ければ色が異なる錠剤がいくつか入っていた。いずれも緊急時にしか使わない代物で、それぞれ効果も異なる。しかし共通して、服用すれば必ず人体に有害な作用をもたらし、最悪は命を奪う。
使うような事態が来なければいいな、と祈るが、それも難しい、と背後で失われた手首をさする朱燈を一瞥した。今自分達がいる場所、その絶望的位置と状況を考えればそうも考えたくなる。だから、あかちゃけた天井を仰ぎ見ていると自然と大きなため息がこぼれた。
外は相変わらず大雨が降っている。川を流れる水音は濁流のそれで、収まる気配は見せない。そして何より厄介なのは今、千景達がいる場所が「未踏破領域」であることだ。
未踏破とは文字通り、人類の足が入っていない場所ということだ。調査は進めているが、いまだに全容は把握できない。そんな未知の領域である。
この定義はヴィーザルではなく、サンクチュアリの母体組織であるエデン機関が定めたもので、サンクチュアリを基幹領域、壁外周辺の廃墟街や海域、地域を既知領域、それよりも広範ではあるが、天空の衛星により把握できる領域を感知領域、そしてそれよりもさらに遠くを未踏破領域としている。つまり、感知領域ならばまだ手を振ったり、地面にSOSでも書けば反応があるかもしれないが、未踏破領域ではそれすらも無理ということだ。
少し考えた後、千景は意を決して振り返る。話しかけられた朱燈はん、と妙に頬を赤らめて横顔を向けた。
「朱燈、もうわかってるだろうけど、ここにいても助けは来ない。動くしかないんだ。どうしようもないからな」
「そーなる?やっぱり。でも」
気まずそうに朱燈は切断された片手を持ち上げる。切断面から溢れた血によって包帯は赤く滲んでいた。ポーチの中から新しい包帯と止血剤を取り出した千景は差し出されたその手に巻かれた古い包帯を取っていく。
晒された朱燈の手の状態はかなり悪化していた。傷口を中心に紫がかっており、一部からはボロボロと黒い何かがこぼれ落ちていた。ハンカチで切断面をぬぐい、千景は止血剤を注射する。小さな針を刺される時、朱燈はぎゅっと両目を閉じ、目尻から涙をこぼした。
包帯を巻き、とりあえずは落ち着いたことで二人は話を再開した。本当は血液凝固スプレーを使いたかったが、低体温症を引き起こす可能性もあったのでつかわなかった。
「服が乾いたら、出発する。当座は河川に沿ってだ」
「いや、それよりも。千景はわかってるわけ?ここがどうか」
「多分、富士近郊のどっかだろうな」
「そういうことじゃなくて!ここは未踏破領域なのよ?フォールンの群生地帯!あたしが万全でもこんなとこじゃ生きた心地だって」
「ああ。知ってる。それにわかってる。けど、実際待つだけじゃなんも状況は好転しないだろ」
「でも、それなら!」
ちらりと朱燈は窓の外を見る。雨雲が濃い暗雲立ち込める空を一瞥した彼女の言わんとするところを察した千景は、ああ、とこぼした。
「雨が止んだらって言いたいんだろ。でも今は8月だ。雨が多い季節な上、この小屋がいつまでも無事とは限らない。フォールンが寄ってくるかもしれない。なにより、食料が少ないから、行動は迅速にする必要がある」
千景が取り出した携帯食料は三日分だ。一人分の三日分。朱燈も同様のものを持っている。仮に一日を半日分で済ませても六日が限界、その後は食料なしで野山を歩かなくてはならなくなる。はっきり言えば、地獄だ。
「この湿気だ。服が乾くのに、丸一日はかかる。その一日を半日分の食料でやり過ごしたとしても、残るは五日。雨が一週間以上降ることもある季節だぜ、今は。待ってられるか、そんなの?」
「それはそうだけど。でも千景は自信あるわけ?未踏破領域を超えて、感知領域に行くっていう自信が」
「——ある」
間髪入れずに千景は答える。即答する彼に思わず明かりは瞠目するもすぐにその理由を聞いた。
「俺達が戦闘をした場所はここから数キロ上流にある台地だ。で、そこは未踏破領域に入って大体一、二時間くらい経ってから到達した場所だった。ヘリの速度を考えれば、感知領域の境界線との距離は大体40キロから60キロぐらい。もっと近いかもしれない。50キロ前後の道って考えればまぁ、不可能じゃないだろ」
「そりゃ平地ならね。ここ山道よ?」
「ああ、そこは心配ない。ここどこだと思ってるの?」
「え?そりゃ富士山。あ、そっか」
「そー。富士山周辺のハイキングロードやそれこそコンクリートで舗装された道だってある。なにもずっと山道を両手繋いで歩くわけじゃない。それに」
言葉を区切り、千景は外を指差す。より具体的には崖に面しているおんぼろの階段を。
「途中が崩落してるって言っても階段は階段だ。それがあるってことは最低限、舗装された道が近くにあるってことでもある。な、思ったよりも現実味があるだろ?」
「そうね。でも、まだ問題はあるでしょ。フォールンとか」
「それはもちろん回避する。銃弾も限られてるからな」
そう言って千景は床に置かれていたライフルに手を伸ばした。大きさは旧時代の対人用狙撃ライフルほどだが、その威力は対物ライフルを凌駕する。装弾数もそれなりで、故障も少ない極めて実践的な武器である。しかし、猟銃を持てば誰もがクマを狩れるわけではないように、未踏破領域ではその火力すら心許ない。
千景の銃、正式名称AMSR70Bが相手どれるのはせいぜい中位種まで。それも不意をつけばというだけで、正面戦闘となればより下級な下位種にすらなぶり殺しにされるリスクがある。まして上位種、最上位種など雲の上の存在だ。
「一応、銃そのものに消音機能はあるけど、それだけじゃ安心できない。音もちょっとはするし、火薬の匂いは空気中に充満するし、空気の振動を感知する奴がいるかもしれない。回避一択だろ、戦闘は」
「なるほどね。実際、こーんな拳銃じゃなーんの脅しにもならないしね」
自分の防寒ジャケットから拳銃を取り出し、朱燈は自重する。実際、拳銃など自殺のためにしか意味をなさない。
「てか、フォールンて言えばあれはどうするの、黒いネメア!」
「ああ、それな」
言いづらそうに千景は口籠る。はよ言え、と朱燈はそんな千景を急かした。
「対応は他のフォールンと変わらねーよ?なるべく会わないようにする」
「でもネメアってアレがあるじゃん。レーダー」
「あれって生態感知ができるだけでそれ以上の効果はないんだよな。それにいっつも使ってるわけでもないし」
フォールンの中でもネメアは極めて多芸だ。電気を操る種だからというのもあるだろうが、その電気を攻撃や防御、果ては索敵、生殖活動にも用いたりする。しかしいずれも電気を発生させるために体内のF因子を消費するため、常時使うことはできない。
なら安心か、と朱燈は胸を撫で下ろす。
「他にも気をつけるべきフォールンはいるだろうけど、まぁネメアのレーダーって点はそーなんじゃないか?」
「あと、気をつけることってある?」
朱燈の問いに千景はそうだな、と前置きをして、腰のあたりに手を回す。ちょうど腎臓の真上あたりだ。言わんとするところを察したのか、朱燈は神妙な表情を浮かべた。
千景達、影槍使いこと内蔵者は腎臓の一つを生態兵器に改造されている。その恩恵で壁外でもマスクや防護服なしで活動できる。常人ならば一瞬でフォールン化してしまうような高F.Dレベル地帯でも彼らは活動できる。
それでも限界というものがある。ホルダーが壁外で活動できる時間は最長13日、二週間に満たないその時間で未踏破領域を超える必要がある。
「いやーきつ。影槍使えば多少は蓄積したF因子も消化できんのかもしれないけど」
「そーだな。でもそれはそれで体力を使う。だからなるべく13日以内になんとかしないとな」
方針を決め、二人は立ち上がる。防寒ジャケットを羽織り、再び彼らは座り込むと熱を逃さないように身を寄せ合い、眠りについた。
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