公爵様、ご帰還
突然飛び込んできたしゃがれた声のする方に視線を向けると、そこにいたのは……ブカブカの濃紺のローブをすっぽりかぶった、長身の男性……らしきものでした。フードを目深く被っているので顔は見えませんし、袖も長くて手も見えません。どうやらローブの下は騎士服のようですが……一見すると不審者にしか見えません。しかも、全身からは物凄い瘴気と、それに相反する何かを感じます。
(……なんて……解除し甲斐のある被検体なの!!)
叫ばなかった私を誰か褒めて欲しいです。何ということでしょう! 呪いを実際に見たのはエンゲルス先生の授業の時くらいでしたが、それとは比べ物にならないほど呪いが数えきれないほどにかけられています。しかも驚くことに、こんなにたくさんの呪いが掛かっているのに負けていないのも信じられません……呪いに耐性のない一般の人では一つでも致命傷になりかねないのに……
「だ、旦那様! お戻りでしたか! お出迎え出来ず申し訳ございません」
余りの呪いの凄さに呆然としていると、ライナーがいち早く我に返りました。こ、この方が公爵様なのですね。
「ああ、ライナー、今戻ったところだ。出迎えがなかったので何かあったかと思ってな」
「そ、それは……」
「客人だったか? そちらは?」
そう言うと公爵様は私とリリアーヌに視線を向け、リリアーヌがひっと小さく悲鳴を上げたのが聞こえました。
(た、確かに、これは怖いわ……)
身体が大きいこともあるし、すっぽりと姿がローブで隠されているので却って恐怖感を誘うのもあるでしょう。人は見慣れない者に恐怖を感じるといいますから。それに呪いから生じた瘴気を纏っていらっしゃるので、魔力に耐性がない方だとそれだけでダメージを受けてしまいそうです。
もしかしたら客人と呼んだのは社交辞令で、客だなんて思っていないのかもしれません……そうは言っても、このまま名乗らずにいるわけにもいきません。
「お目にかかれて光栄です、公爵閣下。リルケ伯爵から参りましたエルーシアと申します」
公爵様にお会いする前にもう少しまともな服に……と思っていたのですが、残念ながら間に合いませんでした。それでも相手は王族に連なる方です。せめてカーテシーだけは綺麗に決めたいところです。苦手ですが……
「……ああ、陛下から連絡があった件か」
「左様でございます、旦那様。エルーシア様は昨日ご到着なされました」
「そうか、ご苦労だった」
「いえ」
一応陛下から話は通っていたようでホッとしました。ですが、公爵様の空気は冷たいままですわね。この婚姻は……不本意だったと思ってよさそうです。
「リルケ伯爵令嬢、遠路はるばるご苦労だった。だがご案じなさるな。私はこの結婚を受け入れる気はない。陛下には私から取り成しておくから、早々に家に帰られよ」
諭すようにそう言われてしまいましたが、困りました…お父様には戻って来るなと言われています。
「すまぬが帰って来たばかりだ。後ほど話をしよう」
そう言うと公爵様は踵を返し、その後をライナーが追いかけていきました。
(あ、あれが公爵様……)
フードを被っていたのでお姿は見えませんでしたが、呪いから発せられる禍々しい空気はこれまでに経験したことがないものでした。リリアーヌがすっかり怯えているので自室に下がるように告げ、マーゴにはお茶をお願いしました。
(それにしても、心の準備無しでお会いするのはきついわね……)
解呪の勉強をしてはいても、今まではいわゆる授業用の呪いしか見たことがありません。だからあんなにもたくさんの呪いを目の前にすると怖気づいてしまいそうです。それでも、あの呪いを詳しく調べてみたいという思いは変わりませんが。
でも、公爵様はこの結婚を受けるおつもりはなく、家に帰る様に仰いました。結婚はいいのですが、家に帰るのは避けたいのですが……
(やはり侍女として雇って下さるようにお願いするしかないわね……)
資格がないので、解呪師として雇ってもらうのは難しいでしょう。ここは侍女でお願いした方が現実的ですね。今は実家に帰らないことを最優先にしたいですし。
それから暫くしてデリカがやってきました。
「奥方様、申し訳ございません。旦那様から暫くお待ちくださるようにと……」
「勿論よ、デリカ。お戻りになったばかりですもの。湯あみなどもなさりたいでしょうし、少しはゆっくりしたいと思うのは当然だわ。私のことは気にしないで」
「ありがとうございます」
「お礼を言うのはこちらの方よ。公爵様のお陰でリルケ領の被害も減っているのですもの」
私がそう言うとデリカはホッとした表情を浮かべました。そう言えば、エンゲルス先生からのお手紙がありましたわね。私はデリカに公爵様にお渡し下さるようにお願いすると、デリカは必ずお渡ししますと言って出ていきました。
デリカの姿を見送った後、私は深く息を吐きました。お帰りになられたことでリリアーヌの無礼も有耶無耶になってホッとしたからです。まぁ、マーゴからデリカやライナーに話が行くでしょうし、公爵様に報告もあるかもしれません。出来れば触れずにいて下さると助かるのですが……
「エルーシア様、ありがとう、ございました……」
皆さまが退出された後、私が散らばった裁縫道具を片付けていると、リリアーヌが謝ってきました。私は彼女の方に視線を向けず、針や糸を拾い続けました。彼女の声からは申し訳ないという気持ちは伝わってこなかったので、視線を向ける価値もないと思ったからです。それにどうせ私は伯爵家には戻れませんから、彼女がお父様たちに何と報告しようとどうでもいいですし。
もっとも彼女も、公爵家の家令たちを怒らせたことをわざわざ言ったりはしないでしょう。もしお姉様に面白おかしく私の失態だと告げてお父様が公爵様に謝罪文を送ったりしたら、本当のことがバレてしまう可能性もあります。そんな愚は犯さないと思いますわ。
「どうでもいいわ。もし悪いと思っているのなら、服の手直しを手伝ってちょうだい」