パスワードを下さい
何かをしようと思っても、体が動かない。
「ここでは君の好きなようにしていいんだよ」
私を攫った貴方は微笑んで言うけれど。
貴方に紅茶を淹れたい。
貴方にお菓子を用意したい。
朝の眩い光を浴びながら、私はそう思った。
そう思うのに体は動かない。
『汚い手で触らないで!』
『見ているだけで気味が悪いわ』
逃げられたはずの過去が目の前にある。
義母も義妹もここにはいないのに。
何度も思う。
救い出してくれた貴方に、少しでも感謝を示したい。
けれど恐怖が体を縛る。重い鎖のように。
清潔な体で綺麗なドレスを着させてもらっているのに、どこまでも私は囚われたまま。
私が何かをすると、怒鳴られて殴られる。
それは虐待で、異常だったのだと貴方は言ってくれるのだけれど。
ようやく貴方にお菓子を添えて紅茶を淹れられたのは、茜色の光が差しこむ頃で。
暖炉に火が入る夜の間際。
それなのに貴方はとても嬉しそうに口にしてくれるから。
許されたような気になってしまう。
紅茶とお菓子を並べたテーブルを挟んで、口元を三日月のように優しい形で笑みかけてくれるから。
胸の奥がぎゅうっと詰まった。
それは心細さとも恐怖とも違う初めての胸の痛みだった。
***
あれから5年が経った。
囚われたままの私に貴方は何度も言ってくれた。
「ここでは君の好きにしていいんだよ」
「今、何をしたいと思った?」
「いいよ。やってごらんよ」
「すごいな!君はこんなこともできるんだね!」
「ねぇ、もう一度やってみてくれないか?」
何度も何度も、貴方は私の体に巻きついたままだった鎖を解く言葉を言ってくれた。
それが合言葉だと貴方は知っていたのでしょうか。
初めて鎖の重さを自覚した後、ゆっくりと貴方の言葉で外されていった。
そして、少しずつ私は自分の意志と考えを尊重するようになった。
貴方に紅茶を淹れたい。
貴方に感謝の気持ちを伝えたい。
私はすぐに行動に移せるようになった。
「おぉ、サーシャ。君が淹れてくれるお茶を飲むと幸せな気持ちになるよ」
「私がいつもありがとうと思っている気持ちがこもっているからですわ」
私たちは微笑み合う。
ただお互いにそうしたいと思うから。
目を合わせて口元を三日月にする。
それだけでもう愛言葉は要らなくなる。
それでも欲張りになった私は時々欲しくなる。
「愛しているわ」
「サーシャ、愛しているよ」
貴方だけが使える私のパスワードを。