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第一章8  言葉の綾(1)

 ワックスがけのあと間もない、新品の匂いに包まれた教室。

 日は少し傾き、床の木目には夕焼け色が静かに落ちている。先生が蛍光灯を消して出て行ったから、椅子と机の影は長く伸びていた。


 日直に与えられた仕事は、教室の簡単な掃除と日付を直しておくこと。

 まだ埃も積もっていない床を、ほうきで撫でていくだけのような意味のない掃除だ。

 けれど、これが僕の人生において、最も真面目に取り組んだ掃除であることは記すまでもない。


 上履きが擦れる音、箒が机の足に当たる音——

 耳を澄ませば聞こえそうな彼女の息づかいは、僕の心臓の音によってかき消されていた。


 ほの暗い教室に揺れるのは長い薄茶色の髪。彼女は唐突に僕へと箒を預けた。


「髪……邪魔だから。ちょっと待ってくださいね」


 そう言って綾織さんは、両手を頭の後ろに回した。数回指をくぐらせてからお団子を作り、片手で押さえる。

 手首のゴムを口に咥えて、外そうとしたところで僕と目が合った。


「…………」


 顔に熱が昇る。口を大きく開くのは躊躇ためらわれたようで、彼女は少し俯いてこちらに背を向けた。

 失礼だとは分かっていたけれど、背中で器用に髪を束ねる姿から、目が離せなかった。


 試着室の前で待たされているような、見てはいけないものを見てしまっているような、どこかむず痒い緊張だ。

 

「はい、できたっ」


 にっこり微笑んで綾織さんは振り返る。

 肩を超えるロングヘアは綺麗なお団子に変身し、白い首筋に後毛おくれげがぴょんぴょん跳ねていた。


「お待たせしました。さ、掃除しちゃお」

「は、はい」


 昨日の僕は、一体どうやって彼女と会話していたんだ? たったの一つも言葉が出てこない。


 僕から箒を受け取った綾織さんは、数歩先で顔を伏せて埃を探す。


 一緒に残ろうとした友達は「先に行ってて」と言われていたけれど、僕と二人きりになるのが嫌じゃないだろうか——

 

 色々と考えた。でもやめた。

 恐らく綾織さんは何も考えていない。僕は彼女にとって机や椅子と同じ、動かない背景である。


 ——なんでもいい、彼女に声をかけろ。今しかない。


 今は二人きり、背景だったとしても声を掛ければ必ず振り向いてもらえる。またと無い絶好のチャンスなのだ。


 それなのに、声が出ない。声を出そうとすれば、掠れた不格好なア行がいくつも連なるに違いない。


 しん、と落ちた空気を裂く勇気なんぞ、僕にはそもそも無かった。だから、僕も彼女に(なら)って地面を眺めている。

 視界の上の方に映る、上履きのかかとがくるりとターンして——爪先がこちらを向いた。


「ねえ、細田くん」


 軽やかな声が閑散とした教室に響いた。僕にとっては落雷だった。

 鼓膜から走る電撃が冷や汗を伴ってチクチクと全身を駆け巡り、弾かれるように顔を上げた。


 眼前、箒を胸の前に抱いた綾織さんが小首を傾げている。


「掃除……してる?」


 その明るい声音から「サボっていないで働けよ」といった負の感情は読み取れない。不思議なものを前にした、ただ純粋な好奇の眼差しと微笑みだった。


 どうにか話しかけようと不自然じゃない言葉を探すあまり、同じ場所をずっと掃いていました——


 そんなこと、口を裂かれるくらいならば言うが、言ったところで気持ち悪がられるのは目に見えている。だから、


「えっ、いや。その、簡単で構わないって先生は言っていたから……どこまでやれば良いものなのか決めあぐねていたというか……」


 考え事をしていたように脚色した。

 これで問題ないはずだ。少し言葉が詰まって、ひたた声が上擦りそうになっただけで、ダメージは少ない。


「あぐ、ねて?」


 綾織さんの頭上に真綿のような『はてなまーく』を幻視した。

 とぼける水瀬とは明らかに色の違う、純然たる疑問符。僕の人生とは無縁であった女性らしさがそこにはあった。


 ……咄嗟に比較対象として『水瀬』の名前が挙がったのは我ながら驚いた。

 

 しかし、自分の人生において(家族を除くなら)水瀬が、最も多く会話した女性になっているのかもしれない。不本意だ。


 あれこれ関係のないことまで思考を巡らせている暇はない。


 着々と気まずい沈黙は伸びていく。

 綾織さんは、僕の使った『あぐねる』の意味が理解できなかったのだ。さっさとその答えを用意しなくてはならない。


「出来ずにいた、みたいな意味です、今の場合は。動詞の連用形にくっついていることが、多い、です……」


 綾織さんを直視できないから僕の視線は常に下。前髪をへだてて彼女の上靴へ向けて話していた。

 その爪先がこちらへと近づいてくる。


「なんか、すっごい国語の先生みたい! そういえば、昔から本とかいっぱいたくさん読んでたりするイメージある」

「ま、まあ。人並みというか、一般教養程度には……」


 跳ね出しそうなかかととワントーン高くなった綾織さんの声は、風船を配る着ぐるみを初めて見た少女のそれだ。

 大人しく清らかなイメージからは想像のつかない、無邪気な姿だった。


 それに、彼女の発した『いっぱいたくさん』が気にかかってやまない。けれど、それも容姿が美しければ、美しく整った日本語に聞こえてくる不思議。


「はぁ……。本読める人って、すごい尊敬する」


 いつしか、メトロノームみたいに箒を左右にパスして、綾織さんは遊びだした。


「なんか私、長い文章見るとすぐ眠くなっちゃってダメなんです」


 読めない漢字があったりすると、段々とページをめくるのが遅くなって。いつしか読まなくなってしまう、と申し訳なさそうに彼女は言う。


「夏目漱石とか、太宰治とか、有名な作品は一生に一回くらい読んでおきたい、とは思うんだけど」

「そ、そうなんすね。短編とか、短くて簡単な作品から入るとよろしいかと、思い、ます。はい」


 教室に重く落ちた空気が舞い上がり、木目が暖色を取り戻していくような錯覚すら覚えた。


「短編かぁ……」


 徐々に、昨日の会話のテンポを取り戻してきたのかもしれない。

 僕からも何か質問すべきだ。せっかく短編の話題が上がったんだから、


「好きなジャンルとか、ありますか?」


 きっとこれが最適解。けれど、ちゃんと彼女の顔を見て質問することはできなかった。

 恐る恐る、顔を上げる。


「ねね、その前にちょっといいかな」


 彼女は少し不満そうな顔をしていた。


「そろそろ敬語……やめない? 緊張して変な言葉使いになってたら、その、恥ずかしいし」


 そう言って綾織さんは目を逸らし、自分の前髪を直すような仕草をする。

   

「どっちから敬語にしたのかは忘れたけど、同い年じゃん。同じ中学校だったし、小学校も一緒だったでしょ?」


 細田君もそんなに気を遣わなくていいから、と彼女は笑ってくれた。


「なんというか、今までそんなに話したことなかったから。タメ口は失礼に当たるかなーとか、思ってしまって」

「真面目だなあ。でもでも、確かに男の人が最初からタメ口って怖いかも。ご丁寧にありがとーございます」


 少し笑いながら、わざとらしく冗談めかした敬語で綾織さんは言った。

 それから「そういえば」と彼女は前置きして——

 

「私の好きなジャンルの話だったよね?」

「あ、そう——だったね」 


 テンポの良くない会話。やりとりが覚束(おぼつか)ないのは僕のせいだとわかっている。

 

「……笑わない?」

 

 その度に沈みかけた空気が、綾織さんの軽やかな声によってまた舞い上がる。「ほんとかなあ」と彼女は笑う。


「笑わないです。絶対」

「——絶対?」

「うん、絶対。笑わないです」


 僕が出しうる最も真面目なトーンで言った。

 彼女はしばらく俯いて、集め終えている塵を箒で何度か掃き直す。


「怒らない?」


 怒る、ってどういうことだろう。彼女の言葉全てを聞き逃さないよう、僕は顔を上げて頷く。


「うん。怒らない、と思う」

「ジャンルっていうか、読みたいものなんだけど——」


 床の塵からおずおずと顔を上げて、綾織さんは僕と目を合わせる。


「細田君が書いてた漫画——読んでみたい!」


 あくまで無邪気なままに彼女は言った。

 その言葉に、自分のまぶたが震えたのが分かった。

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― 新着の感想 ―
[良い点] その明るい声音から「サボっていないで働けよ」といった負の感情は読み取れない。不思議なものを前にした、ただ純粋な好奇の眼差しと微笑みだった。 これ、ただのネガティブ気質な主人公ではなくちゃ…
2021/05/30 17:42 退会済み
管理
[良い点] 「細田君が書いてた漫画——読んでみたい!」 おおー! 知ってる者は知っている! これはどうなるどうなる!?
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