第一章7 変態か学級委員か
暗雲こそ消え去ってはいないが、降り続けていた雨は止んでいる。
新学期特有の短縮授業が終わり、現在はホームルーム。小学校で言うところの帰りの会の最中だ。
掃除当番はおろか、日直も学級委員も決まっていないから、特に仕事のない生徒はゴミ拾い程度で解散となる。
今日はバイトの面接がある。ゆえに、本来の予定であればホームルームが終わった瞬間にヘッドホンをつけて、雨が再び降る前にさっさと教室を後にするだろう。
しかし、僕は水瀬という名の疫病神からラノベと自転車を奪い返すために、彼女の家に寄らなくてはならない。
人生で初めて一緒に下校する異性がこんな変態だなんて、嗚呼。
幸いかどうかは別として、水瀬は僕の隣の席。一挙一動、あくびに至るまで監視することができた。
「じろじろ見んなし……このヘンタイ」
「いや、見たくて見てるわけじゃない」
教壇で淡々と連絡事項を読み上げる担任から視線を逸らすことなく、彼女は冷たい口調で僕に言った。
しかし、確かにと納得しそうになる。流石にじろじろ見過ぎかもしれない。けれども変態はあんたの方だ。
「隙あらば逃げようとするだろ。見張ってんだよ」
水瀬は机の脇に引っ掛けた折り畳み傘をデコピンで揺らし、退屈そうに遊んでいる。小さくあくびをして、眼鏡を直し──
「わたしの何処がそんなに信用できないのかねぇ。わたしは生まれてこの方、嘘をついたことがないんだ。正々堂々、純真無垢がわたしのモットー」
それが既に大嘘である。
正々堂々生きてきた人間が、泣き真似をして他人の小説を強奪するだろうか。純真無垢を掲げる人間が、他人を騙して奪った自転車に乗って帰宅するだろうか。
否だ。断じて否だ(反語)
僕の考える純真無垢とは、遥か遠くの席で真面目に担任の話へと耳を傾ける人間——綾織さんのような御方を指す言葉である。
ますます腹が立ってきた。
「大体あんたが、何もしてこなければ──」
「はい、しー。ホームルーム中は静かにしてくださーい」
そう言って水瀬は、引き結んだ唇の前へと立てた人差し指を運ぶ。ようやく僕へと視線を向けた。
ごもっともだった。
新学期はやんちゃな人間も鳴りを潜めているから、みんな真面目に話を聞いている。教室は静かだった。
挑発に乗せられて声量を間違えていたかもしれない。決して静かではなかっただろう。
引き下がるしかない。ごもっともではある。が、腹立たしいことには変わりない。むしろ、さっきよりもイライラする。
自ら煽っておきながら躊躇いもなく梯子を外す。
怒りに火をつけて、薪を焼べ、燃え上がるところで水をかけ、また煽り、焚き付けてから水をかける。
——それがこの女の手口である。
「大声で怒鳴っちゃって、クラスから浮いちゃうのを助けてあげたんだし……感謝しても良いくらいだと思うけどねー」
僕にだけ聞こえるよう、ほとんど吐息のような声で変態は言う。
「……うるさい」
「あ、拗ねちゃった。やーい」
無視しよう。これから先、どんなことを言われようともプラスに転じることはない。むしろマイナスへと堕ちていくのが目に見えている。
「やーい、よわよわメンタル」
防御するように、水瀬の座る左側へと背を向けて頬杖をついた。こいつの言葉にはもう耳を貸さないのが正解だ。
向き直った右側には壁しかない。一枚も掲示物の貼られていない真っさらな壁だ。
——このクラスで過ごしていくうちに、この壁も定期テストや文化祭などの掲示物で埋まってゆくのだろう。よく見れば、ポツポツと画鋲の跡やテープを剥がした跡が残っている。
顔も名も知らぬ人間たちが、かつてはこの教室で過ごしていた名残と考えると感慨深いものがある。
これはある種の諸行無常であり、モテる男もいつかは破局を迎える盛者必衰のことわりをあらはすのだ。
それは春の夜の夢のごとし。モテる者も遂にはほろびぬ、ひとへに風の前の塵に同じ。滅びよ、リア充。
「おーい」
つんつんと右肩をつつかれた。
泡が爆ぜるような感覚と共に、パチンと現実へ引き戻された。つい妄想に過集中してしまうのは、僕の悪い癖である。
「お呼びでっせ。日直殿」
「え?」
咄嗟につついてきた水瀬の方を向く。にししと悪戯っぽい笑みを浮かべながら、顎で黒板の方を示す。
つられて動く僕の視線の先には、眉間にシワを寄せてこちらを見据える担任がいた。
「本日の日直雑務は、話を全く聞いていないようだった細田と——」
担任の一言で全てを察する。
貴重な短縮授業にも関わらず、仕事を押し付けられてしまった。
水瀬がちょっかいをかけてこなければ、さっさと帰宅できたものを……
いや、違う。これでは水瀬に逃げられてしまう!
ふと左目の端が水瀬を捉える。
『ばぁーか』と唇を動かしていた。満足そうにニヤけている。この場で首を絞めてやりたい。いや、絞めるしかない——
「暫定の学級委員、綾織に任せるものとする」
ピタリ、と両手が静止した。
『綾織』という美しい苗字を担任が汚い声で読み上げ、それが確かに僕の鼓膜を揺らした。全てが、どうでも良くなった。
綾織さんと、二人きりで、掃除だと……⁉︎
本来の予定、バイトの面接も、奪われた小説も、自転車も、目の前の変態のことすら——全てがどうでも良くなった。
けれど、これでは水瀬に逃げられる。
でも、昨日に続いて綾織さんと二人きりになれる。
硬直する僕の眼前を、「大丈夫か?」と水瀬の掌が上下する。
少しだけ振り返って、「よろしくね」と綾織さんは小さく手を振る。
もう一度、彼女の前で掃除をサボるのか。
僕の秘密を変態に握らせてしまうのか。
結論は出なかった。机に突っ伏した暗闇の中で、にししと悪戯っぽい笑い声が聞こえた。