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第一章6  翌朝(2)

 焦げ茶の前髪はやんわりとカールを描き、そこそこの大雨の下を登校してきたとは思えない。クラス一の美人、と登校初日から囁かれるに恥じない佇まいだ。


 当然、身だしなみに抜かりが無いのは確かだ。しかし、それらがぶりっ子的に嫌味っぽくならないのが不思議。多分、この学校の七不思議のひとつに違いない。


「え、あ……はい! どうぞ、どうぞお通りになられてください」

「……さい」


 声を上ずらせながら変な日本語で話す僕に続き、語尾だけ続く水瀬。

 被害者と加害者の息の合った返答を前に、綾織さんは小首を傾げて立ち止まる。


 やはり、見られてしまったのだろうか。頼む、何も見ていないでくれ。貴女は何も見ていない。小柄な女性の首を、両手で絞る僕の姿など見ていない。


 記憶を消すひみつ道具がほしい。あるいは、起床の段階まで時を戻してくれ。

 いや、そもそもこの変態が僕の自転車を盗まなければ、こんなことにはなっていないはずだ。

 前言訂正、昨日の朝まで時よ戻れ。頼む。マジで頼む。


 綾織さんの視線が、向き合う僕と水瀬の間をしばらく行ったり来たりする。僕の方を向いて止まる。

 痛い沈黙、じんわりと冷や汗が背中を伝った。体育着に着替えたばかりだが、また着替えが必要になりそうほどだった。


 水瀬は隣で口元に手を当て、ニヤニヤと悪戯っぽい笑みを浮かべている。全てを察している顔だ。ムカつく。


「昨日の放課後もそうだったけど──」


 終わった。僕の青春終わった。


『昨日の放課後も水瀬さんのこと虐めてたよね?』 


 大方そんな内容に決まっている。

 綾織さんは、前の学年にて学級委員を務めていたらしい。折り目正しく、陰湿な虐めを何よりも嫌う。

 

 これから浴びせられる言葉は、僕への非難と(全ての元凶である)水瀬の擁護が大半を占めることになるだろう。

 実際は逆であって然るべきなのに。叱られる。そして、僕の淡い初恋も終わる。


 せっかく、仲良くなれたのに。

 今後、綾織さんと関わることができないのならば、これを最後の記憶として青春の裏表紙に刻もう。


 ここで、青春の終了を覚悟した死にかけの僕の脳味噌に一つの妙案が浮かんだ。


 僕がマゾヒスト──すなわちドMとして覚醒すれば、これから投げかけられる非難の言葉もご褒美へと変わるのではないだろうか。

 そうだ、それでいこう。それなら今後、水瀬に小説を読まれて「キッモ」などと言われても、痛くも痒くもなくなるはずだ。


「なんなりとお申し付け──」

「二人ってすごく仲良しだよね。新しいクラスなのにもう仲良くなって、めっちゃいいなーって思ってたんだ。って、なんか言いかけた……?」

「いえ、何も。女王様」


 ジョオウサマ? と首を傾げる綾織さん。水瀬が「コイツやべぇ」みたいな目で僕を見る。ドMになり切れていないから全てがただ痛い。


「ちょっと何言ってるか分からないけど、仲良しなのは素晴らしいことです」


 そう言って綾織さんは微笑んだ。

 最悪の想定が膨らみ、それが現実となるかに見えたが──どうやら助かった。

 九死に一生を得るとは正にこのことだ。


「水瀬さんとも仲良くなれたらいいなー」


 そう言って、水瀬を見下ろす綾織さん。


「……そうっすね」


 気怠そうに答える水瀬は少し、後ろへと下がった。


 話題は逸れたが安心してはいられない。ジョオウサマ発言の弁解の準備を整えておこう。僕の後ろでやけに大人しい水瀬が、余計なことをほざく前に先手を打つべきだ——


 そう思い立ったところで予鈴が鳴った。

 遅刻者への最後通告と共に着席を促すチャイム。その音を聞いた綾織さんは、


「やばっ、ごめん、書類書かなきゃ!」


 と、足早に教室へと入っていった。進路関係か部活関係か、何の書類かは判らないがお陰で助かった。

 今日はラッキーな日かもしれない。いや、魚座は最下位だった。


「それじゃ、あっしも失礼して──」


 そそくさと逃亡を図ったセーラー服の襟首を掴む。本日二度目の「ぐえぇ」を漏らし、水瀬はこちらへと向き直った。

 太い黒縁の眼鏡を細い指で持ち上げ、ぴっと背筋を伸ばして起伏のない胸を張って——


「自転車には乗ってきてない。電車で来たよ」


 堂々と言った。


「は、馬鹿かお前⁉」


 いよいよ頭がおかしい。

 ここで返してくれたのなら、自転車を貸し与えたことにして不問にしようと思ったりしなくもなかったかもしれないのに。


 しかし、何故か彼女は悪びれる様子もなく、むしろ得意げだ。一体全体、その自信はどこからやってくるのか。法的に事構えた方が良いのか──


「今日は雨でしょ?」


 当たり前のことを、当たり前のように水瀬は言った。わざとらしく折り畳み傘を僕の目の前で振って見せる。雨の中を自転車で登校する人間なんていない。そりゃそうだ。

 馬鹿は、僕の方だった。


「ほら、教室行くよ」


 水瀬は折り畳み傘をくるくる回し、空いた手であくびを押さえて僕の横を通り過ぎていく。

 

 呆然と、今日すべきことを整理する。

 僕のライトノベルと自転車を取り戻すためには、仕方のないことだけれど——


「おいちょっと待て!」

「んあ、なに?」


 眠そうに目を擦りながら水瀬が振り返る。


「もう逃がさん。小説も自転車も返してもらう。一緒に帰るぞ」

 

 つまり、人生で初めて、僕は異性と二人きりで下校しなくてはならなくなった。

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