第一章5 翌朝(1)
濡れ雑巾のような匂いの教室、窓はずっと雨に叩かれ続けている。
愚痴をこぼしながら男子は体育着に着替え、女子生徒は恐らくトイレで前髪を整えていることだろう。だから、綾織さんの顔はまだ見ていない。
一方の僕は、水瀬という名の変態(付け加えて自転車泥棒)を待っていた。待ち構えていたと言ってもいい。
予鈴が鳴るまであと少し、もうすぐ現れるだろう。
昨日は結局のところ、移動手段を奪われたので当然ながら歩いて帰った。そして雨が降った。
綾織さんを見送って、家路についてすぐ頃に降り出した。今も降り続いている。
もちろん、傘などもっていない。
天気予報を見る習慣がないから仕方がないけれど、そもそも、自転車を強奪されるなんて誰が予測できるんだ。
今日は夕方ごろから雨でしょう。自転車が盗まれますので、傘をお忘れなく——そんな天気予報があったら良いのに。
当時の所持金は五百円と少し。
駅まで濡れながら歩き、電車で帰宅するか。道中のコンビニでビニール傘を購入し、本来は自転車で走るべき距離を歩くか。
取れる方策は大きくその二つだった。
もちろん、家族の前で「同じクラスの女子生徒に目の前で自転車を盗まれました」などとは口が裂けても言えない。もっとマシな嘘を吐けと言われるだけだ。
だから、言い訳のために傘を買って歩かざるを得なかった。こちらならば「濡れたくないから自転車を学校に置いてきた」と説明すれば違和感はない。
ポツポツと安いビニールが叩かれる音の下、少し待ったら止んではくれないか、と淡い希望を抱いてみたりもした。
だから、通学路途中の神社で雨宿りをしてみた。
しかし、例えば綾織さんのような清楚美人が隣にいてこそ、雨宿りイベントには価値があるのであり、僕一人での雨宿りなんて虚しさの極み。孤独の頂であった。
『隣ゴメンねーっ! やっぱり濡れるの嫌だし、細田君を自転車の後ろに乗せたいな……』
と、綾織さんが境内に飛び込んでくるかもしれない。
そんな無茶な期待と虚しさを天秤に掛ければ、虚しさが大地を穿つ。おとなしく帰るべきだ。
ミナセコロス、ミナセコロス、と唱えながら家路を急いだのは言うまでもない。
如何にしてあの変態を懲らしめてやろうか、そんなことを布団に入ってからも考えて続けて今に至る。今朝もビニール傘のお世話になった。
——体育着に着替え、しばらく廊下で突っ立って待っているとパタパタと上靴の擦れる音が聞こえてきた。
ラブコメでお馴染みの曲がり角でヒロインとぶつかる、という展開。
今ならば全力でぶつかれる。渾身の飛び膝蹴りを見せてやる。
折り畳み傘を纏めながら歩いていたようで、水瀬は僕の胸におでこから突っ込んできた。
意外にも足が早いのか、はたまた筋力があるのか、見た目に似合わず重い頭突きであった。
「おー、痛え。ドコ見て歩いてんだよ、この腐れ脳味噌……」
おでこを押さえて数歩よろめきながら水瀬は脊椎反射で暴言を吐く。ずれた眼鏡を直し、乱れた前髪を整えながらこちらを小さく見上げる。
「ああ、なんだ君か。おはよう。昨日は濡れなかったかい?」
「ミナセコロス」
「……はい?」
僕の神経を「やっほーい!」とトラクターで逆撫でしていく水瀬を幻視した。
こめかみの傍で何かがブチリと音を立てたような気がする。昨日、寝る直前まで唱えていた呪文が思わず溢れてしまった。
あくまでも相手は女性、自重しなくてはならない。
「えっと、とりあえず小説を返せ。中は見てないだろうな⁉︎」
本題から切り出そう。自転車はともかく、まずは小説が手元に戻ってきたならそれでいい。
あれが拡散されれば、僕の青春は終わる。下手をすれば一生のトラウマになりかねない。
「いや、見てないけど。そんなに……えちえちなのかい? そんなもん学校で読むなよ」
「違う、そうじゃない。早く返せ」
「ごめん、持ってきてない。お家です」
「はあ⁉︎」
ほれ、と水瀬は背負っていたリュックの口を開けた。 本当だった。筆箱と水筒とお弁当だけしか入っていない。お前は遠足に行く小学生か?
全く別物のハードカバー(BL)が一冊出てきたが、リュックの隅々まで調べても、僕の小説は出てこなかった。
しかし、えちえち云々ほざいている様子から察するに、中身を見ていないのは本当なのかもしれない。
そもそも、もし仮にこの悪魔のような女が中を見ていたのなら——
「小説家目指してるのかい? 酔狂なもんだねえ」
などと、わざと大声で揶揄ってきそうなものだろう。
あくまでも、学校でBL読んでいたことを言いふらされないよう、人質をとっているような意味合いが強いのかもしれない。
やや強硬手段にはなるが、今日、彼女の家まで付いていけば小説が読まれることなく手元へと戻ってくる。それならば問題ない。
変人と一緒に帰る羽目にはなるけれど、これは僕のプライドと人生を守るために必要な犠牲だ。コラテラルダメージというやつだ。
ラノベは一度置いておこう。
「それじゃ、次。自転車も返せ」
「……?」
頭上に大きなクエスチョンマークが浮んだような気がするほど、彼女は呆けた顔をしていた。
何だ、僕がおかしなことでも言っただろうか。
ここで、君はばかなのか──とでも言われたら首を絞めよう。そうだ、首を絞めよう。
「君は……ばかなのかな?」
絞首。
ぐえぇ、と水瀬は声を漏らす。頬が赤くなったところで僕の手首をぱたぱたとタップし、慌てて手を離す。
——まずい、咄嗟に手が出てしまった。
この身長差で首を絞めている様を綾織さんに見つかろうものなら、その瞬間に僕の青春は二度目の終わりを迎えることになる。
さっさと話をつけてこの場を去ろう。この女とは社会的にも、物理的にも距離を置かなくてはならない。
「えーっと、おはよ。通ってもいい、ですか?」
背後から、朝一番の背伸びのように快活な声が聞こえた。
そして、その声は今この状況においては最も遭遇したくない人物──綾織さんのものであった。