第一章4 鼻毛
下校するべく駐輪場に向かうと、教室で小柄な女子生徒を虐めていた男が、掃除をサボって逃走し、自分の自転車を前屈みで物色している。
綾織さんの視点から見た、現在の僕である。不審者だ。
「あ、綾織さん——」
新学期になって初めて「綾織さん」と呼んだ。数年ぶりに彼女——綾織文音の名前を呼んだ。今まで彼女と目も合わせられなかった僕からすれば、大いなる躍進だ。
しかし、それがこんなシチュエーションになるなんて想定していなかった。
「違うんです。こんなはずじゃなかったんです」
「犯行現場を押さえられた人は、みんな、そう言うと思う……思います」
そう言いながら綾織さんは、背負っていたリュックサックを体の前で盾のように構える。
教室で同級生と喋っている時は、あんなにも砕けた調子で話しているのに。僕の前では敬語に言い直す始末だ。
こんなはずじゃなかったのに。ラノベが拡散されたわけでもないのに、僕の青春終わりかけてないか?
「これには、深い理由があってですね。一から十まで説明すると日が暮れます。だから、何も聞かずにお帰りいただいた方が綾織さんのためだと思います」
早口。心臓が跳ねすぎて、いつもの倍以上のスピードで喋ってしまっているような気がする。
「でもでも、もう太陽沈みかけてるよ?」
少しだけ微笑んで、夕日の方へ振り返った綾織さん。栗色のロングヘアーがしゃらしゃらと揺れて、柑橘っぽい匂いがした。斜陽に透けて金色に見える。
「…………」
息を呑む、という現象を体験した。見惚れていた。
僕が今まで、理想を詰め込んで書いたヒロイン——そのどれよりも、綺麗だった。
腐っても物書きだろう、と自問する。お前なら、彼女を何に喩える?
「——細田、君?」
いつの間にかリュックを背負い直して、綾織さんは屈んで僕の視界を下から覗き込んできた。
琥珀色の瞳が心配そうに僕を見上げる。
「急にぼーっとしないで。めっちゃびっくり、しますから」
「あ、ああ。すみません」
謝るようなコトじゃないでしょ、と彼女は笑う。
白い歯を見せて遠慮なく笑う彼女につられて、僕も少しだけ笑った。駅前の大看板に彼女の笑顔を掲示すれば、日本の犯罪率は急低下するんじゃないか。
白いワンピース姿でスポーツドリンクを片手に、はにかんで笑う彼女の姿を想像した。そのポスター欲しい、天井に貼り——
「ほそ……」
「はい」
危ない。また、ぼーっとするところだった。心配される前に気付いてよかった。
口元を手で隠して、呆れたように彼女は笑う。
「二度あることは?」
「三度ある」
「ダメです。もう、ぼーっとしないでください」
仏の顔も三度までです、と綾織さん。僕は首を縦にうんうん振って応じた。
唐突に彼女は僕から目を逸らし、上を向いて何かを思考する。しばしの沈黙ののち顔をわずかに赤らめて、
「あれ、えっと。使い方合ってる、よね……?」
「合ってます」
「うわぁ、よかった……」
国語とか苦手なんです。
そう言って、綾織さんは手を団扇のようにして赤らんだ顔の熱を冷ます。彼女は恥ずかしそうにため息をついて、慌てて自ら起こした風で乱れた前髪を直した。
ころころと忙しなく表情が動く綾織さんを見て、僕の口角は自然と上がっていた。
「そんな笑わないで、よ」
お互いに距離を測りながら会話するものだから、もどかしくて、語尾に変な敬語が混ざったりして——
「……すいません」
心から、楽しかった。
彼女にとって、僕はただの『普通に話せる人』だったとしても、不審者だったとしても、それでよかった。
——頑張って、よかった。
鼻の奥がツンと痛んで、鼻水が垂れそうになった。きっと、ブラジリアンワックスで鼻毛を全て引っこ抜いた所為だ。
「すいません。ちょっと失礼」
彼女に背を向けて、僕はリュックを漁るフリをした。拭くものを携帯する女子力などを持ち合わせていないのは、僕が一番よく分かっていた。
「あの、細田君。今更なんだけど、いつもチャリンコ通学でしょう? 自転車は?」
背中越しに綾織さんが訊ねてきた。色々あった。ありすぎた。説明が面倒くさすぎる。
そして、チャリンコ通学という耳に新しいパワーワード。少し変な言葉遣いなのに可愛いのは何故なのか。
「今日は違うんです。歩きです」
振り返らないまま僕は答える。
「後ろ……乗ってく?」
かっこいい。けれど、逆だろう。
夕日ですっかり伸び切った影が、街灯に火が入って一斉に向きが変わる。
あっ……と綾織さんは唐突に声を漏らす。何か予定を思い出したのか、何かに気付いたのか——僕には解らなかった。
慌てて自転車のロックを外し、
「でもでも、やっぱり二人乗りはダメだよね。細田君も、雨降るらしいから早く帰った方がいいよ」
異常に早口で捲し立てて、彼女は自転車に乗る。
「そ、それじゃ。またあした」
「え、はい。また明日」
僕の返事も聞かず、綾織さんは走り去ってしまった。全く状況が理解できないけれど、酷い面を見られなくて済んだのはありがたい。
空気を読みすぎて空気同然だった僕が、彼女に認知されていた——その事実だけで、消し飛ばしてしまえる過去があった。
どうか彼女はトラックに轢かれませんように。