最終話 リライト
ベッドへと鞄を放り、僕自らも寝転がった。息継ぎの感覚に近かった。何ひとつ思い出せない煩悶から解き放たれたように感じる。否、そう思いたかっただけだ。視界の隅に勉強机が入る——
思わず目を逸らした。机上には開きっぱなしのノートパソコンがある。そのパソコンの中には、完結することのない物語や生まれることのないキャラクターたちが幾重にも放られている。
それらをもう一度拾い上げたとして、彼らは僕を暖かく迎えてくれるのだろうか。
数え切れないほど、数えたくもないほど心折れて、無造作に投げ出した夢たちはまだ、息をしているのだろうか。
どう向き合うのが真摯なのかわからない。怖くて仕方がない。過去の自分が作り上げた未完成の物語に向き合ったとて、その果てに見えるのはただ浅ましい、今の自分だけじゃないか。
——夢なんて、追わなければよかった。
もしもタイムマシンがあるなら、僕は自分が創作に出会わないように過去を変える。あるいは、僕の息子が小説を書きたいと言い出したら、僕は全力で「やめろ」と言うだろう。
中途半端に裕福な、どんな道でも選べる自由なんて欲しくなかった。最初から、出会わなければ良かった。
書き始めることは苦しくて、書き続けることはもっと苦しくて、それを完結させる痛みを僕は知らない。
しかし、逃げ出せば一生後悔する。既に、その後悔の中に僕はいる。
書いていても地獄。それから逃げた先の現実は、地獄なんて言葉では表せない。そもそも、僕は、何かから逃げ出そうとして物語を作り始めたんじゃないか。
ここ数日、胸の奥に引っかかっていた痛みは、きっとこのことだ。
来年になれば僕は受験生。未来について、考えなくてはならない。もう時間がないのだ。自分は何者なのか、これから何者になりたいのか、選択を迫られている。
逃げ出した現実と、投げ出した創作と、向き合わなくてはならない。
数多の人間によって踏み固められた道と、草木の立ち込める藪道と——僕は、どちらに行かなくてはならないのだろうか。
法律か何か、社会規範でもいい。抗いようのない何かが決めてくれればいい。そうしたら、きっと従うから。
そう考えると、視界が曇る。胸にはやはり何かがつっかえる。
「僕は、どうしたい……?」
目を瞑り、掠れた喉の震えだけの声で呟いた。
思い浮かぶのは、彼女の姿——夕日に焼ける海を背に、自転車を押す綾織文音の姿だ。まだ冷たい海風にセーラー服のスカートが揺れて、彼女は微笑んでいた。
目を開いた先、白い天井から視線を背け、勉強机を見据える。
机上、ノートパソコンの前に、見慣れない紙の束があった。こんなプリントを積んだ覚えはない。
跳ねるように起き上がり、それらを手に取った。B4判、20×20の400字詰め原稿用紙だ。
改行と空白がやたら多い、シャープペンシルの黒字による走り書き。そこに赤ペンで何箇所も修正が加えられている。
一行目、書き出しへと目をやる。
『僕は漫画家を目指していた。しかし、それができないから小説を書いている。
僕は、小説家を目指している。』
これは酷い、最低の書き出しだ、と強く思った。忘れようとしていた己の過去を抉られるような、不愉快な書き出しである。
案の定、そこは赤い波線で強調され、何かが書き加えてあった。それみろ、どうせ修正だ——
『このままでいい。』
別に、僕が書いた文章ではない。見覚えのない駄文の連続である。しかし、どうしてか悔しい。苛ついてしまう。
それに、この赤字にほんのわずかに鼓舞されているような気持ちになるのは何故なのか。
何が何だかわからず不気味ではあるが、僕は決して綺麗ではない文字列に目を滑らせた。
この小説は『僕』の一人称で進行している——かと思いきや、主人公の名前が地の文に出てきた。一人称と三人称の混在である。
主人公の名前は『細田』というらしい。まあ、僕の名前と一致しているのは偶然だろう。そう珍しい名前でもない。
『水瀬凪』という少女が正面にいるようだ。変態、変人と強調されている。何か恨みでもあるのだろうか。
よく分からないけれど、少女は文中で勝手に主人公の野菜ジュースを飲みながら「人称を統一した方がいい」と促している。
読み進めていくにつれて、驚くべきことに『綾織文音』という名前が出てきた。そして、主人公——視点の主人である『僕』は、彼女に恋心を抱いているというのだ。
主人公の名前が僕と同じで、その恋人は『綾織』だなんて甚だ不気味な話だ。けれど、読み進める手を止めようとは思わなかった。次に出てきた名前は『彩月潤』という名前だ。これは、僕が最近ハマっている作家の名前で、最も文体に影響を受けた人物かもしれない。
それがどうして、この小説に記されているのか、気味が悪い。背後の本棚には当然、彩月潤作品が並んでいる。ハードカバー派である。
煩わしい改行と、リーダビリティとは程遠い文体。
独特な構成の小説だった。ヒロインは二人、この主人公がおそらく『水瀬』の自宅で、彼女に小説の書き方を習うところから始まる。
実は天才的な小説家であった水瀬に命じられ、課題として書くことになった小説。それは、己の学校生活を振り返り、彼女との出逢いからこの小説自体を書くに至ったまでを記した——いわば自伝にも近しい作品だった。
冒頭で水瀬という人物が勝手に飲んでいたはずの野菜ジュースを、現実に追いついたシーンでは主人公が飲んでいたり……矛盾というか、謎の多い作品である。
実際、無理のある展開や矛盾点には青線が引かれている。
百枚くらいの短編、になるのだろう。異常な共感というか、他人事とは思えなかった。そのせいもあってか、あっという間に読み終わってしまった。
最終的に——
『僕は、小説家を目指している。』
と締め括られて、この作品は終わっていた。粗は多いが、綺麗な終わり方にはなっているんじゃないだろうか。
創作に心折れた人間が、どうにかこうにか立ち上がろうとするドラマなんて誰も面白がらないだろうけれど。でも、僕は楽しく読めた。
細田や綾織という名前が登場してはいるが、『水瀬』という名前に聞き覚えはない。だから、きっと、この小説はフィクションなのだろう。
でも、そのフィクションによって、自分がどうしたいのか、どうすべきなのか、解ったような気がする。
僕は創作を——
最後の原稿用紙の左下。ウラミロ、と書き加えられていた。
○
拝啓、細田さま(そういえばお前の下の名前知らんがな)
茹だるような暑さも通り過ぎ、涼しい秋の背が見えてきた今日この頃。そちらは春の中頃かと思います、いかがお過ごしでしょうか。
丁寧に書き始めてみたものの、あまり時間もないので本題に入ってしまおうかと思います。怪文書のように映るかもしれないけれど、最後まで目を通してほしい。
おそらく、この手紙があなたの部屋へと届く(あるいはこれを発見する)時、わたしは細田の前からいなくなっていることだろうと思います。いなかったことになっているかと思います。
どの程度までわたしの存在が忘却、消去されるのかは判らないけれど、この文章が届いているということは、わたしの見当がおおよそ外れていなかったということでしょう。
だから「はじめまして」と言うべきなのかもしれない。または「お久しぶり」でしょうか。わたしの存在を微塵も覚えていないとしたら、これは怪文書以外のなんでもないだろうし(ひょっとしたら小説を書いて盗まれたこと自体覚えていないのかな)、これを読みながら困惑しているあなたの顔を想像して笑ってます。笑える。めっちゃ笑える。字が汚くなっていたりしたらゴメン。
さて、今まであなたが読んできた文章は、つい数日前に細田自身が書いたものです。憶えていますでしょうか。憶えていてくれたら、あるいは思い出してくれたら本当に嬉しいけれど、きっと叶わないでしょう。
しかし、どんなに思い出せないとしても、これは紛れもない事実です。わたしに命じられて、あなたは小説を書きました。
そして、それによって、世界にはちょっとした異変が起きました。あなたの世界にわたしがいないことと、今回と同じような方法でこの文章を届けていることが何よりの証拠です。
ちなみにその方法とは、小説を書くこと。
そろそろピンときたかな。これはわたしにも責任があるんだけど——あなたは、わたしに命じられて小説を書いた。『わたしとの出会いから、小説を書くに至るまで』を文章にした。
その文章の中で、あなたは無意識のうちに脚色したのか表現を誇張したこと(それが悪いこととは言ってない)によって世界線が分岐、上書きされたのだと考えられます。
決定的な具体例を挙げると、あなたが書いた小説の冒頭と結末では、野菜ジュースを飲んでいる人間が変わっている。違う世界になってしまいました。
そして、わたしがその小説(お手元の原稿)を読んでしまったことによって、わたしは消えたわけです。
わたしなりの解釈で説明すると——人間は瞳っていうフィルターを通して、世界を見るわけだよね。そんでもって、それを脳味噌が処理、解釈する。
ゴキブリを嫌ってやまない人間と、愛してる人間ではゴキブリという対象の見え方が全く違う。違うフィルターを通して、違う脳味噌が処理しているから当然だよね。
今回の場合は一つのフィルターに対して、それを処理する脳味噌が二つ。人の数だけ人生が存在する、世界はたくさん……みたいな言葉の通り。細田の視点で観測した世界と全く同じものを、わたしも「読む」という形で取り入れてしまった。
細田が細田の視点で書いている世界にわたしが介入しようとしてしまった、二重人格の一人称小説にも近しいのだろうか。
まあ、そんなこんなで、わたしは存在してはいるけれど、細田視点の世界では観測できなくなった、みたいなことだと思います。切ないものだね。
そして、わたしは山のように小説を書きました。春休みのあなたの行動を想像して、綾織さんと出会った時のことを想像して、わたしが小説を書けと命じて——それから先の展開を何千通りも書きました。
わたしが消えずに済む世界線はないのか。あなたともう一度、一緒にアルバイトできる世界線はないのか。あなたとラーメンを食べる世界線。あなたと同人誌を発行する世界線。二人で小説家になる世界線——なんでもいい。なんでもいいから、赤の他人に戻ってもいいから、もう一度あなたに会いたい。
偶然にでも細田の書き終えた小説の先。細田が生きている未来に繋がればいい、そう思って書き続けました。
でも、薄々わかってはいたけれど、無理でした。この文章が無事に届いてあなたが読めたとしたら、きっと勘づいている頃でしょう。
わたしは細田の書いた小説上のキャラクターとしての「わたし」でしかなく、主人公はあなたでした。だから、細田視点の物語へ過度に介入することは叶わないようです。もう一度人間の形として、あなたの前に現れることはできない。
だから、こうして、絶対に消えないであろう『あなたが書いた小説の原稿』の裏に手紙を書き残すことにしました。そんな世界線を願いながら書きました。返事が来たことはないし(文章として回憶し過去を書き換えることしかできない性質上、返事する方法もないのかもしれないけれど)今度こそ、今度こそ届いているといいな。
この文章は走り書きだから、お世辞にも美しいとは言えないけれど——わたしが小説家になれたのは、そして、細田が超人的な速筆であるのは、こうして何度も世界を書いて、その度に何もかも忘れて、何度も書き直してきたからなのかもしれないね。
さて、随分と長くなりました。ここまで書いておいて言いにくいけれど、これによって世界が滅亡するわけでもなければ、何かドラマチックな死を迎える人間が現れるわけでもない。学生生活の中で起こった、ほんの些細なハプニングに過ぎません。
いつかは忘れ、時に思い出して歯痒くなる程度のものです。
どんな結末であろうと、わたしは細田の幸せを願っています。
あなたには、あなたを必要とする人がいる。既にあなたを愛している人がいる。
もちろん、綾織さんのことだ。彼女を幸せにできるのは細田しかいない。
だから、無理してわたしを思い出そうとしなくてもいい。わたしに会いに行こうなんて考えなくていい。そもそも、この物語は綾織さんを振り向かせるためのものだ。今更、書き直そうなんて思わなくていい。
恋人のためなら、小説なんて捨ててしまえばいい。趣味も、夢も、何もかも捨てて守らなければならない人がいる。
それが、創作に心折れたことにはならないと思う。
こんな手紙を書き残しておきながら、本当に申し訳ないと思います。
願わくば——どうか、どうか細田が幸せでありますように。そして、もし許されるのならば、あなたにはほんの一瞬だけ小説の師匠がいたことを、思い出せずとも憶えていてもらえたら、本当に嬉しいです。
こんな怪文書を最後まで読んでくれてありがとうございました。
どうか、彼女を大切に。どうか、体調には気をつけて。幸せでありますように。
さようなら。
我が愛しき愚かなる弟子、細田殿へ。
彩月潤より。
○
原稿用紙を置く。読み終えて朝にでもなっていたら、あるいは降り続けていた雨が止んで快晴が覗けばドラマチックな展開だったかもしれないのに。
深くため息をついて、僕は椅子に腰掛ける。立ちっぱなしでいたからか膝が軋んだ。
彩月潤の正体を、僕は先ほど読んでいる。水瀬凪——という、僕の隣席に座っていたとされる少女だ。ずっと学校に来ていなかった、思い出せなかった人物とは彼女のことらしい。
裏面が黒いインクで滲んだ原稿用紙の最後の一枚を、読み終えた小説の一番後ろへと回す。両手でトントンと揃え、机の上に重ねた。
ノートパソコンの電源を入れる。
ずっと僕の顔が映っていた黒い画面が白く点灯し、空白のテキストエディタが表示された。
理想の僕は、遥か遠くで揺らめいて。夢を諦めたであろう僕の影もまた、過去に縛られたままずっと後ろで揺らめいている。
真夏の陽炎は、どこまで歩いても消えることはない。前を見据えても、後ろへ振り返っても、消えることはない。
そのどちらにも、なるつもりはない。この陽炎を振り払うまで、後にも先にも進めない。
真っ白の画面を見つめ、僕は深呼吸する。今の僕は、小説家を目指している。それでいい。
今はただ——消し飛べと、陽炎。
お疲れ様でした。これにて完結です。本当にありがとうございました。
続きはあります。そのうちやります。




