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第二章23 栞

 本来であれば空席であるはずの僕の隣席に、綾織文音は座っていた。クラス中の視線を背に受けて、彼女は躊躇うことなく僕に挨拶する。

 自然、隣に座るであろう僕には、殺意にも近しい視線が向けられた。その緊張に怯んだ僕は、文音だけでなく周囲へ何度もペコペコ会釈しながら席に着く。


「あ、文音……?」


 手元の漱石を合掌するように閉じ、文音は微笑みながらこちらへと膝を向ける。そんな彼女にしか聞こえないよう、僕は声を潜めて——


「お隣で一体何を」


 と尋ねてみる。


「何って、読書だよ」


 短編集を胸の前に抱いた文音は「当たり前でしょ」とでも言いたげな顔である。それは見れば解るけれど、問題はそこじゃない。


 ——汚泥か何かが、気管支に詰まっているような感覚だ。吐きたい。言葉に出してはならない、絶対にそんなことがあってはならないが、あまり良くない感情が胸のどこかに引っかかっていた。


 唾と一緒にソレを呑み込む。


「ええと、それは解るんだけど。文音の席はここじゃないよね」

「うん。でも、びっくりするかなって思って、教えて欲しい漢字あるし」


 そう言って彼女は栞紐スピンを手繰り開いた。僕と文音の視線に対し平行に開かれた形なので、僕は首を曲げて覗き込む。彼女も同じようにしたので肩が触れ合った。 

 読み始めて間もない文字列に、白く細長い指で示されたのは『鑿』という字だ。息のかかりそうな距離で「これです、これこれ」と文音。


「これは、のみ。木を削る工具の名前」

「はあ、のみ……」

「図工の時間で使わなかった?」

「ああ、あれね! あのカンカンって叩くやつね」


 そうそれ。

 僕は頷いて身を引く。ぐい、と二の腕が引かれた。


「まだ。まだあるの」

「沢山?」

「うん。いっぱい、たくさんある」


 教室がいやに静かだ。声が響く。学校で一番の美人が、文字通り教室の隅に疎外された男と何を話しているのか、きっと気になるのだろう。

 気持ちは解る。僕だって、彼女と付き合う以前、彼女が男子生徒と話していたら気になる。だからこそ、周囲の視線が痛くて仕方がなかった。


「あの、綾織さん」

「文音。苗字呼びNG」

「……あやね」

「はい、何でしょう」


 ふふん、と何故か得意げな文音の手は僕の腕に絡んだままだ。爪は食い込んでこそいないが、離してくれそうにない。


「大事なことだから一度しか言わないからね。よく聞いてね」

「えー、大事なことなら何度でも言ってよ」

「他人に聞かれるとマズい、という意味で大事なことなので一度しか言いません。よく聞いてね」

「……むう」


 僕達が付き合っていることを周囲は知らないわけだし、あなたは有名人なわけで。それを抜きにしても、教室の隅とはいえ、朝から公衆の面前で男女がくっつくというのはいかがなものだろうか——おおむねそんなことを言った。


「……むむう」


 文音は頬を膨らませて僕を睨む。

 他の人間——例えば、ある程度の暴言が許される隣人とか——がやったらフグの半魚人め、と馬鹿にしたいところだ。しかし、彼女がやると愛らしさだけが漏れ出るのは何故なのか。不思議だ。


「四季君なんか冷たい。昨日の夜は一日中楽しく喋ってたのに」


 その言葉が文音の口を離れた刹那、クラスの男子生徒全員の動きが止まる。一斉に銃口を向けられる感覚だ。


「は、はい、しー! 静かに!」


 僕は慌てて指を立てる。いらんことばかり口走らないで欲しい。今日の下校中、背後から出刃包丁でグサリとやられそうな気がする。

 そして、彼女の言う『一日中』とは、おそらく『一晩中』という意味だろう。そんなことはどうでもいい。早くこの場から脱出したい。

 そんなことを思った時のことだ、チャイムが鳴った。


「むう、鳴っちゃった」

「うん。鳴ったね。あるべき場所へおかえり」

「虫みたいに言わないで。なんで今日そんな冷たいんだし……」


 ぶつぶつ言いながらきびすを返して、文音は立ち去っていった。長い茶髪がふわりと続く。

 クラスの視線は、綾織文音を追って僕から外れていった。荒む高波が穏やかにならされていくようだった。

 自分が周囲に馴染めていないことくらい解っている。けれど、こう見せつけられては複雑な気持ちにならざるを得ない。自分が本来いるべき場所に、本来の存在として戻っていくだけなのに。

 僕は少し身を乗り出し、彼女が座っていた隣席の椅子を机へと押し戻す。


 文音の前では吐けなかった言葉を、あえて声に出して独白するつもりはない。その代わり、僕の口からは嘆息が漏れた。


 これは、多分——怒りだ。


 自らがおかしくて仕方がなかった。この感情の名前を僕は知らない。

 たった今、劣等感と疎外感が気付かせた感覚ではある。また怒りにも似た体熱であることは確かだ。身体の奥底から得体の知れない何かが湧き上がっているのは確かだが——こんなにも、僕の心は凪いでいる。


 この席は、彼女が座るべき席ではない。彼女は、座ってはいけなかった。文音のことは好きだ。好きなはずだ。

 しかし、そうではない人間(そんな感情では絶対に測れないし、測るべきかどうかすら判らないし、その天秤に乗せることすら億劫)ならば、座ってもよかったのだろうか。それで、僕は、満足したのだろうか。


 じゃあ、ここには誰が座っていた? 散々、忘れていたのはこのことだ。ようやく、ようやくだ。何を忘れていたのかを思い出した。


 僕は『誰か』を忘れている。


 誰も座っていない、座ることのない席を、空席とは覚えないように。あなたを忘れているという記憶だけが、あなたが存在していたというただ一つの証明だった。

 綾織文音には言えないような言葉、暴言を吐き合うようなみっともない仲だったはずだ。矢尽き弾尽きた荒野で、ただ一人こちらを振り返り大砲のような言葉を携えた人物だったはずだ。

 何かを与えられたわけじゃないし、奪われたわけでもない。ただ、『彼女』に導かれていただけのような気がする。あるいは、数歩先でにやにやと悪戯っぽい笑みを浮かべているだけの存在だったのか。


 僕たちはこれからだった。これから何かを成すはずだった。二人ならば、何でもできる。それが錯覚だったとしても、遠い遠い掴めぬ陽炎だったとしても! 

 この陽炎を振り払うまで、後にも先にも進めない。


 僕が成り上がるため、縄を垂らしてくれた似た者同士、導師、同志……。憶えていない。どうして忘れているのかすら憶えていない。わからない。けれど、確かに、『彼女』ではない彼女がここには座っていた。


 ここでの彼女とは、恋人を示す普通名詞ではない。ただの、代名詞である。

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