第二章22 蜃気楼
「……ッ!」
まさに文字通り、飛び起きた。次いで目覚まし時計のベルが鳴る。ほとんど手の重みだけでアラームを止めた。湿気を感じたのは手汗のせいだろう。
こんなことは初めてだ。いびきとか……聞かれてないだろうか。
悪夢に目覚めた時とも似た、しかし決定的に幸福な冷や汗が垂れていた。開けた憶えのない窓は半開きで、風が流れて濡れた背が少し冷える。
結局、違和感については何も訊くことができなかった。夜通しあーだこーだと他愛もない話をして、そのまま眠っていたようだ。
携帯の充電が切れていたから、どちらが先に眠ってしまったのかは判らない。けれど、朝まで電話が繋がっていたのは確かだ。
部屋の隅の勉強机には開きっぱなしのノートパソコンがある。埃は被っていない。向き合ったとて何か文章が書けたわけではないけれど、毎晩睨み合った仲である。
久々に、昨日の夜は文章を書かなかった。不思議と喪失感のようなものは無かった。むしろ、文音と電話して忘れていた事が充実のように思える。
充電器に繋いだスマートフォンが震えて目覚めた。何となく通話履歴を見ると、七時間ほど繋がっていたようだ。
のっそりと起きて裸足で階段を降りて、洗面台で歯磨きをしながらも、その画面を見ていた。
今まで未知の領域だった彼女の夜の時間が——触れ合っていたわけでもなく、しかし自分と同化していた事に対してどんな感情を抱けば良いのか判らない。
嬉しいと思うのは子供っぽいだろうか、と思いつつ自然と口角が上がってミント味が垂れている事がほとんど答えだった。
口を濯ぎ、ぬるま湯で顔を洗い、ヘアバンドで露わになった自分と鏡で目を合わせてようやく、自分には恋人ができたのだと悟る。
だから。
煩わしい朝日も、億劫だった朝食も、鬱陶しい朝のニュースも——それらに逆撫でられる皮膜は剥がれて、彩度が上がって見えた。
義務を終えてなお、惰性で漕いでいたペダルも軽い。必死に直していた前髪が、風に煽られ持ち上がることに何も感じない。
道を広がって歩く女子高生、僕を追い越していく電車、横断歩道の上にはみ出したタクシー、それら全てどうでも良かった。
早く、彼女に会いたい。
流動体か何かになったような気持ちで自転車を漕いでいると、アスファルトを歩く人間がこちらへ向かって後ろ歩きしているようだった。
車道をまっすぐに走りながら、同じ学ランを着た人間の間を視線が縫っていく。
急激に流れていく視界の隅、様々な人間の中を、足の生えたリュックサックがとてとてと歩いていくのが見える。
眼前の横断歩道は青信号——僕は思わずブレーキを握り、振り返った。
遥か後ろの方、歩く少女は大荷物を背負っていた。運動部なのだろう。背は高く、決してその体躯が小さすぎる故に、リュックから足が生えたように見えたわけじゃない。
黄色い旗を片手に、手を上げて横断歩道を渡っていく小学生たちが、不思議そうに僕を一瞥してから走っていく。それは周囲の高校生たちも同じだった。変人を横目に通学路を欠伸しながら歩いて行った。
僕は、何と見間違ったのか……誰と、見間違ったのだろうか。
前方へ向き直る、赤信号が再び青信号へと変わろうとしていた。
もう一度、振り返る。大荷物を背負った少女は、重そうながらもしっかりとした足取りで去ってしまった。
「人違い……?」
けれど、僕には見紛うような友達がいない。
文音との——俗に言う『寝落ち通話』に浮かれているだけだ。アドレナリンが過分泌されているだけで、体は緊張に耐えかねていたのだろう。
それなのに、この落胆はどこからやってくるのだろう。ひどく裏切られた気持ちだ。
運動部の少女に声をかけることはしなかった。何故か、別人と解ったからだ。会ったこともない、見たこともない人物だが、別人だと解っていた。
いつぞや考えていた小説の登場人物に似た人間でも見たのだろう。そう、なのだろう。
息を吸ってペダルに足をかけると、信号は点滅を終えて赤く変わってしまった。
信号が変わるのを待って、再び自転車を漕ぎ出す。文音に会いたくて普段より早く家を出たはずだったが、時間は遅刻ギリギリだ。
ばかなのか、と自分で自分を馬鹿にしているうちに学校へ到着した。これからは休むことなく通おう、そう思える理由を得た校舎は、少しだけ小さく見えた。
遅刻だ遅刻だ、と大急ぎで走ってきた割に、時間には余裕があった。遅刻したかったわけじゃあないが、どこか損をしたような気分だ。
教室のドアをくぐって一番に目に入るのは端っこの僕の席。その隣の空席だったはずの席には、綾織文音が座っていた。
今にも「むむむ……」と唸り出しそうな難しい顔で、僕の貸した夏目漱石を開いている。近づく僕の気配に気付いた彼女は顔を上げ、
「おはよっ」
と満点の笑顔で言った。




