第一章3 常夏と見紛うほどに阿呆
抜けた魂が戻ってくるまでに、どれくらいの時間が経っていただろうか。
今、僕がすべきことは大きく二つ。早急にラノベを奪還すること。気まずい空気の教室から去ることだ。
鞄を背負うと、人だかりの中心──綾織さんと目が合う。その目は彼女が誰にでも向ける笑顔とは違う。多分、怒っている。
掃除もせずに帰ろうとする僕が、許せないのだろうか。
でも、今はそれどころじゃない。せめてもの謝罪を、と思って僕は彼女に会釈して教室を飛び出した。
角を曲がるまでずっと、背中に視線を感じていた。廊下を走ることも、許せないのだろうか。
○
徒歩による通学ならば、おそらく駅の方へ向かったハズだろうという算段のもと、水瀬の後を追う。
現在進行形で最悪の事態が起こっている。想定すべきは最悪のパターン、水瀬が言いふらす可能性である。
本文にわざわざ線を引き、描写に対する考察や注釈、誤字誤用の指摘、張られた伏線の隣に回収のタイミングとエモさを五段階で評価し、盗み取りたいアイデアには蛍光ペンで印が付けられている。
そんな参考書のように成り果てたラノベが拡散されれば、僕の青春は間違いなく終わる。それに、
——小説家を目指しているなんて、夢に向かって頑張ろうとしているなんて、誰にも知られたくない。馬鹿にされるに決まっている。
さっさとラノベを取り戻して、綾織さんの前で弁解しなくてはならない。
幸いにも、僕は自転車通学だった。
変態が歩いて学校を出発しました。5分後に、僕は自転車で変態を追いかけた。 水瀬と僕の速さをそれぞれ毎分60m、毎分200mとすると、僕は学校を出発してから何分後に水瀬に追いつくか。(春嵐直前の向かい風は考えないものとする)
時間差で出発する目的不明の兄弟——よく見た数学の問題が頭を過ぎる。
全力でペダルを漕いで、そう間もないうちに変態の背が見えた。そのあまりに小さな体躯ゆえに、リュックサックから足が生えているように見えた。
「おい! ちょっと止まれ!」
自転車を電柱へと立て掛け、肩で息をしながらも僕は声を張った。
意外にも素直に立ち止まり、変態はその場で振り返った。遅れて揺れる黒髪、黒縁の眼鏡の奥で悪戯っぽく大きな目が細まる。
「うーわ、ストーカーじゃん。JKが趣味とか恥ずかしくないの……?」
「いや……僕も、高校生、だから」
息も絶え絶え、日頃の運動不足のツケを一気に精算させられたような気がする。
「なんか、はぁはぁしてるし。どんな妄想しながらペダル漕げば、そんな有様になるの? いやらしい」
両腕を身体の前で交差させ、自らを抱きしめて防御の姿勢をとる水瀬こと変態。いやらしいのはお前の方である。
妄想しながら全力でチャリを漕ぐ強靭な変態なんて、そうそういないだろう。かく言う僕は、もちろん強靭でもなければ変態でもない。
「九割ペダルを漕いでいた所為だよ。全力で自転車漕げば、こうもなるだろ」
変態小動物は、自らの顎に人差し指を当てて小首を傾げる。しばらくむむむ……と唸ったのち、
「残りの一割は?」
と問うてきた。綾織さんのこと、とは口が裂けても言えない。
「残りの一割は……」
しばしの沈黙、思考。わざと大げさに肩で息をして、呼吸が苦しくて言葉に詰まっているような素振りを見せる。
「ゆ、有酸素運動だ」
「……へぇ。九割無酸素でペダルを、ねぇ。やりますねぇ」
ずっと自分で墓穴を掘り続けている気がする。そう思えてならない。
なまじ賢い相手とは言葉を交わさないのが一番だ。小賢しさに加えて、この女は道徳の欠損した変態だ。本題を切り出そう。
「僕の、小説を返せ。それはBLなんかじゃに」
「あ、噛んだ」
「それはBLなんかじゃない……!」
にっしっし、と変態は愉快そうに笑う。そんなに僕をからかうのが楽しいか、からかい上手でもないクセに。
「お願いだから返してくれ。学校でハードなBL読んでニヤけてたこと、誰にも言わないから」
「喧嘩売ってるの? 誰かに言ったら、この大事そうなえちえち小説燃やすから」
むしろ燃やしてほしい、とは言わなかった。こんなことを言ったら、小説そのものではなく、僕が恐れているのは中身の漏洩であると勘付かれてしまうからだ。
「うーん、そだね……。じゃあさ」
と彼女は前置きして、巨大に見えるリュックから僕の小説を取り出した。それをひらひらと振って見せ、
「わたしの自転車取ってきてよ。そしたら返したげるから」
彼女はにんまりと笑い、僕の背後──校舎の方を指差す。「クリーム色のママチャリね」と水瀬は付け加える。
できることならば、その細い指を掴んでへし折ってやりたいが、ここは固く我慢。
僕はあくまでも脅迫されている側、すなわち、弱みを握られている側だ。おとなしく条件を呑み、ラノベを回収した上で今後一切関わらないのが最良の手だ。 しかし——
「僕、見ての通り、チャリ通なんだけど。自転車に乗って自転車取りに行けっての?」
「たいがい……君もばかだね。わたしがここで見張ってればいいでしょ。ほら、行った行った」
固く我慢。
ありきたりな表現になってはしまうけれど、ここまで激しく女性を殴りたいと思ったのは、僕の人生において初めてだった。
チャンスがあれば首を絞めてやろう。
「それ……」
「んん?」
僕は、彼女が手に持っている小説を指差す。水瀬は小説を掲げ、左右へと動かす。それに続いて僕の指も動く。
左右に振って弄んだ小説を、何故か彼女は自分の頭の上へと載せた。
「読むなよ。絶対に中身を見るな」
「見られて困るものなの? そんなにえちえちなのかい?」
「違う。とにかく見るな」
「読まないよ。だから、頭の上に載せたんだろ。ばかなのか?」
固く我慢。
僕の小説を頭の上に載せたまま、変態は片足立ちしてバランス体操のような姿勢をとる。
もはや、どうだっていい。彼女の自転車を取ってくれば全てが解決するのだ。
怒りに茹だった自分の脳味噌へと言い聞かせるように、僕は校舎に向かって走った。
「いってらっしゃーい」
背後から水瀬の声がする。教室でのあざとい声に近かった。振り返ることなく僕は走る。
二年生の駐輪場が見えてきた。彼女の言った通り、クリーム色の自転車が目に入る。
──違和感。
わたしの自転車取ってきて、彼女は確かにそう言った。それは、当然、彼女は自転車通学ということなのだろう。
それならば、何故、彼女は自転車に乗っていなかったのだろうか。
最初から僕が追ってくることを見越して、こうなるだろうと先の展開を予想して、敢えて自転車に乗らずに歩いていた。そして、僕を揶揄うために待っていた?
そんなことがあるだろうか。水瀬にとってもこの状況はイレギュラーのはず。それなのに、
「まさか……!」
破裂しそうな心臓を押さえて背後へと振り返る。が、本来待っているはずの場所に彼女はいない。
そして、電柱に立て掛けていた僕の自転車もない。
遥か遠く、優雅に僕の自転車を漕ぐ彼女が見えた。器用なことに、小説を頭の上に載せたまま自転車を漕いでいた。
迫る赤信号、ブレーキ。見事な体幹で頭上の小説は落ちない。ランウェイを姿勢良く歩く特訓か何かの達人か?
願わくばそのままトラックにでも轢かれて異世界転生してしまえ。咄嗟にそう思った。
偶然にも彼女の頭の上に載っている、僕の小説の冒頭も大方、そんな流れであった。
水瀬はトラックに轢かれることなく、下校する生徒の中に消えていった。それを見送ることしかできなかった。
脳味噌は「今からでも追いかけろ」と指令を出すが、心肺機能が言うことを聞かない。体をくの字に折って呼吸を整える。
「あ、あの……」
背後から声をかけられる。思わず、本能的に背筋が伸びる。
「私の自転車に、何か用……ですか?」
ゆっくり振り返った先には、困り顔の綾織さんがいた。