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第二章21 今夜も月が綺麗ですね

「あの、お風呂入ってたんですけど……」

「大変申し訳ありませんでした」


 電話の向こうで「は、はあ」と気まずそうな文音の声が聞こえる。じゃあ出ないでくれよ、というのは理不尽だろう。

 たとえ入浴の最中でも、かかってきた電話には必ず出る彼女の生真面目さを考慮すべきだった。


「えーっと、何か急ぎの用なのかな」


 いつも以上に彼女の声が反響して聞こえる。疑っていたわけではないけれど、改めて入浴中であることを実感させられてしまう。


 考えたくないこと——いや、考えてはならない風景ばかりが鮮明に瞼の裏へと映し出される。

 薔薇が浮かんだ泡風呂、シャボン玉が舞い優雅な音楽と共に入浴する綾織文音——目を瞑っていては妄想が捗ってしまう。上映終了と照明が灯るが如く、僕はクワッと目を見開いた。


「急ぎ、というわけではないんだけど……」


 僕は何のために電話をかけたのか。

 自分が何を思い出せないのか、それを彼女に訊ねるためである。けれど、そんなことを言ったところで「はあ?」と返されるのがオチだ。


 しかし、それなら何と説明するのが正解なのか。

 僕一人では思い出せない何かに対して、これ以上単独で悩み続けるのは愚かしい——

 という(もはや)直感のもと、彼女に電話をかけたわけだ。が、そもそも悩みの種が何なのかも判らないままに、僕は何を相談するつもりだったんだ?


「は、は……くしゅっ」


 スピーカーの向こうから尻切れのくしゃみが聞こえた。ミュートボタンを押すのが間に合わなかったのだろう。


「ごめん、ちょっとお風呂に浸かりながら聞くね」

 

 文音が小さく鼻をすすりながら言う。それから水音が聞こえた。なるほど、湯船ナウか。


「四季君から電話なんて珍しい……いやたぶん初めてだし、それになんか悩んでるみたいだし、セイシンセイイ相談乗るよ」


 誠心誠意って使い方あってる? と文音は恐る恐る付け加えた。「合ってるよ」と僕。

 なんて良い子なんでしょう。僕は寝転がりながら、一人うんうん頷いた。こんな良い子が彼女になってくれたなんて未だに信じられないけれど、卑下するような言動になってはいけないと自制する。


「ありがとう。でも、なんでそこまでしてくれるの?」

「それ、わざと言ってるでしょ」

「わざと……?」


 僕の呆けた声に対し、ううん何でもない、と文音はきっぱり言って——


「私、彼女だもん。四季君の彼女になったもん」


 しばらくの沈黙ののち。

 耳元でバシャバシャとお湯の跳ねる音が聞こえた。彼女にとっても思いがけない言葉だったのか「ごめん調子乗ったあぁ」と、電話越しに水面の揺れる音が伝わってくる。


 僕も暴れたい。顔が熱い。電話越しとはいえ、右耳のすぐ近くでこんなことを言われたら照れ臭すぎる。


 布団の上で僕はゴロゴロ転げ回り、文音は恐らく湯船にぶくぶくと潜り出した。お互いに声にもならない呻きを漏らしたかと思えば、


「ごめん綾織さん」

「うちこそごめん、ああ恥ずかしい……」

「いやほんとごめん」

「ううん、ごめんりゃさい。もう喋らんといて……」


 と、謎の謝罪が飛び交った。


「のぼせそうやからお風呂上がる……」

「ど、どうぞ」


 そして『綾織さん』と咄嗟に呼んでしまったことに対して、のちに僕はさらに謝罪を重ねることになる。



 ○



 閑話休題。

 一度電話を切り、枕に顔面を埋めたまま彼女が髪を乾かし終えるのを待つ。柑橘系の香りが染み付いた学ランを脱げぬまま、折り返しの着信を待つ変態の姿がそこにはあった。


 やはり流石に暑いからと学ランをハンガーにかける。降り止んだはずの雨が再び窓を叩き始め、目覚まし時計が二十二を示したあたりで電話がかかってきた。


「もしもし、まことにお待たせいたしました」


 丁寧すぎる口調で文音が言う。間違ってないよね、と訊いてこないあたり——まだ動揺しているのかもしれない。


「先程はほんまに失礼しました。お詫びします」

「いえいえ、こちらの行き過ぎた卑下によるものです。申し訳ありませんでした」


 社会人のような敬語が行き交うが、その内容はひどく子供じみている。これが青春か。


「えと、それで、相談があるんだったよね?」


 漏れ出ていた関西弁が引っ込んだようだ。


「うんちょっと訳のわからんことを言う、かもしれないんだけど」

「はい、どうぞ」


 軽やかに承諾された。けれど、何から話すべきだろうか。声が籠もってしまうかもしれないので枕から顔を上げる。


 何かを思い出せない違和感と、何も盗んでいかなかった空き巣。どちらから質問すべきなのか。

 心臓がひどくやかましく跳ねる、これは文音との電話に緊張しているためだけではなかった。


 警察にすら話していない、話してはいけないと忠告の置き手紙(?)がされていたような事を、彼女に話すのは躊躇われる。


「あの時、あの時っていうのは——つい先日、部活終わりに僕とすれ違った時のことなんだけど」

「うん」

「あのあと、どこにいた?」


 空き巣、という単語は絶対に使わないでおこう。婉曲表現というやつだ。彼女はこの事実を知らないわけで、心配をかけるようなことはしたくない。

 いや、心配されてしかるべき事態なのかもしれないが……。


「どこって、そのままお家帰ったよ」


 バド部のみんなと焼肉食べて、四季君に会って——文音は少しの間を置いてから、


「本当は、四季君と行こうとしてた本屋さんに寄って下見しようとしてたけど、あの時は……どうでも良くなってそのまま帰っちゃった」


 と、だんだん申し訳なさそうに声をすぼめて言う。

 ああ、そうか。今になって彼女が『なんでわからんの?』と怒りを剥き出しにした理由が解った。


「その節は大変申し訳ありませんでした」


 僕は鈍感すぎた。一緒に本屋へ行く約束をしたのちに、本屋の方角へと向かっていた——彼女の中で、僕と本屋に行くのは初デートも同然。

 下見に行っていた、と気付くべきだった。あろうことか、僕は無粋にも『どうして海の方角へ?』なんて訊いてしまった。馬鹿だ。


「い、いえいえ。つい恥ずかしくて怒鳴っちゃった、だけ、だから……」

「ほんと、僕は馬鹿です。すみませんでした……」


 再び謝罪が飛び交った。

 心の底から申し訳ないと思いつつ、僕と出かけることを楽しみにしてくれていた彼女を、より愛おしく思った。しかし、僕が夏目漱石を貸したことによって古本屋に出掛ける理由が無くなったので、さらに申し訳ない気持ちになった。


 もし、文音——あの時は綾織さんと呼んでいたけれど、彼女とすれ違った時に気付いてしまっていたら、僕たちは付き合う事ができていなかったのかもしれない。

 そう思えば結果的に良かったのかもしれない。が、これは彼女の台詞であり、僕が言うべきことではない。

 文音は「もう謝らんといて」と穏やかに声をかけてくれている。


 この人と付き合えて良かった。あの時、一人でラーメンを食べてぶらぶら歩いていて、本当に良かった。

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