第二章19 こころね
稲妻に遅れて、どがろんと轟音が響く。
通り雨だろうと根拠もなく思って、自転車は置いたまま、鯨の滑り台の中へと綾織さん——文音の手を引き走った。折り畳み傘を開く間もなかった。
最後にこの鯨の中へ入ったのが、いつのことだったかは思い出せない。けれど、思い出の中では屈むことなく入れたはずで——文音もいなかった。
「狭い、ね……」
頭をぶつけそうになりながら、文音は小さく体育座りする。「うん」と対面に座って僕は応じる。
学ランを肩にかけたその姿は、女番長というか、なぜか様になっていた。木刀か金属バッドがよく似合うだろう。
「学ラン濡れちゃった、ごめん」
そう言って彼女は自分の髪や身体よりも先に、僕の学ランの水滴を拭い始めた。なんて良い子なんでしょう。
「僕が着ていても、雨が降ったなら濡れるのには変わりないだろうし、大丈夫」
それよりも、君が濡れなくて良かったよ。学ランも喜んでる——と言った。嘘だ。言ってない。言えるわけがない。
「濡れた、って内側のことだよ。びっしょびしょのぐっちょぐちょのまま着ちゃったから」
「ああ、そういうこと……」
それは、確かに。雨が降っても僕が貸さなきゃ濡れなかった。しかし、かといって、脱げとも言えない。
「ま、まあ、大丈夫。とにかく、大丈夫」
「……うん。ありがとう」
むしろ、有難い。変態発言のように聞こえるかもしれないが、それは誤解である。クリーニングへ出すきっかけになったから有難いという意味だ。
断じて、あの綾織さん——文音が着てくれたぜヒャッホウ、などとは思っていない。そんな獣欲を彼女に向けるわけがない。柔よく剛を制す、と言うだろう。違うかもしれないが、とにかく誤解である。
「あのー。ほそ、四季くーん」
学ランの前を押さえたまま、文音は僕の視界を何度も手刀で切った。僕が気付くと「ぼーっとしてますよー」と彼女は続ける。
「ごめん、ぼーっとしてました」
「知ってる。だから手を振ったのだよ」
それもそうか。なんだか、ものすごく頭の悪いことばかり言っているような気がする。
「えっと、ね。そ、それでね……」
顔の半分をニーハイソックスに埋めて、たどたどしく靴先同士を擦り合わせる文音。
何が言いたいのかは判らない。けれど、何故だろう、すごく見てはいけないモノを目撃してしまっているような感覚だ。
数センチ先、綾織文音、体育座り、ニーハイ、雨に濡れてる、薄暗い半密室——マズい、非常にマズい。これはいけない。
「な、なんでせう?」
邪念を振り払うように、言葉に詰まる彼女に応じた。
「ん、えっとね」
「はい」
「お願いが……あるんだけどね」
「はい」
「聞いてくれる?」
「はい、もちろん」
僕はうんうん頷く。後頭部をぶつけた。痛い。
「えっと、あやお——」
「おっと?」
「文音の言うことなら何なりと」
「はい。それでよろしい」
文音は満足そうに瞑目して頷く。
そういえば、何かの拍子に彼女を女王様と呼びそうになって死を覚悟した記憶がある。最近のような気がするけれど、いつのことだっただろうか。
「あれ、何の話だったっけ?」
「お願いがあるっていう話」
「あ、そうだ。それでね、変な風に思って欲しくないんだけど……」
うん、と僕は首肯する。
文音はしばらく唇を引き結び、やがて大きく息を吸って——
「隣に座っても、いい?」
と破壊力抜群の台詞を言ってのけるのだった。彼女は恥ずかしさのために口元を隠しているのだろう。僕の場合は、ニヤけた口角を隠蔽するために深く体育座りし直した。
「え、えと。もちろんいいけど、結構狭いし、その……寒いの? それとも雷が怖い、とか? あとは何だろ——」
「理由がなきゃだめ?」
いいです。理由なんていらないです。すみませんでした。僕はほとんど震えのような形で首を横に振った。武者震いだと信じたい。
まさか、こんな台詞を現実で放つ人間がいるとは。呼び捨てにするのが烏滸がましく感じられる。
「それじゃ、遠慮なく」
ガクブルの僕に構うことなく、綾織さんはしゃがんだ姿勢のまま方向転換。僕に背を向け、後ろに下がって——
「はい、ぴったんこ」
僕と壁の隙間へと収まった。
先ほどまで僕が着用していたはずの学ラン、その肩が密着しているだけなのに。何故だろう、心臓が破裂しそうである。
彼女が体勢を変えようと動くたび、少し背の低い肩が擦れて……今日が僕の命日なのではないか、と幾度となく考えた。
「あ、あの……」
「近い?」
「うん」
「いや?」
「嫌じゃないです」
ありがとうございます。ありがとう神様、縁結びの神様。賽銭箱へと納めた五百円玉は、しっかりと僕の想いを届けてくれていた。ありがとうございます。
「雨でむにゃむにゃになっちゃったけど——」
彼女の言う『むにゃむにゃ』とはおそらく『あやふや』という意味だろう。しかし、そんなことはどうでもいい。
わずかにこちらを見上げる形の文音は、降り頻る雨に霞みそうな声で言う。そして、その吐息は僕の首筋へとダイレクトに当たっている。
声が上擦らないよう「うん」と応えた。
「好き、って言ってくれて嬉しかった」
ずっと待ってた。ずっと見てた。まだちょっとだけ前髪が重たいけど……髪型変えたり、肌を気遣ったり、目の下のクマが無くなってたり。努力してるの、ちゃんと見てたよ。
彼女は、僕の目を真っ直ぐに見て続ける。
「小学校の頃も、中学校の頃も、一生懸命漫画書いて、頑張ってるのも知ってた」
私のバトミントンの大会の時、野球の応援を放ったらかしにして、最前列で見てくれてたって先輩に聞いたよ。終わったあと探しても会えなかったけど、嬉しかった。
彼女の声は、段々と熱を帯びて、その瞳は潤み始めていた。
「その時は、熱中症で救急搬送されてた。本当は差し入れ買ってたんだけど……僕はチキンだから、その、結局渡せなかったかも」
「ううん、居てくれただけで嬉しかった」
文音はぶんぶんと大きく頭を振る。散る水滴は雨粒だけではないのだろう。またティッシュを携帯していないことが悔やまれる。
「それで、ね。四季君が私のこと好きなのかもしれない、って気付いてからずっと待ってた。色んな人が私に近づいてきて、気持ち悪いって思ったりもしてたけど……四季君は違う」
ちゃんと言葉にしてくれて嬉しかった——激しくなる雨を背に、彼女は全てを打ち明けてくれた。
そんなところまで見ていてくれたなんて、知らなかった。彼女を振り向かせようと躍起になるあまり、彼女が何を想っているのか考えてこなかったのだ。
「……ずっと、あなたの視界に僕は入っていないものだと想ってたから。なんか、すごく驚いてる」
同時に、綾織文音に振り向いてもらおうと思い悩むことで、彼女の想い自体に気付けなかったのが申し訳ない。
「どうしても、自分に自信が持てなかったから……遅くなった。ごめん」
「でも、もう教えてくれたじゃん。だから気にするでない。謝れる素直さは、四季の良い所なのかもしれないけど——謝るようなことは何もしてないよ」
微笑む彼女の背後で雷が落ちた。鼻先から顎までの美しいラインが刹那の間、逆光で浮き彫りになる。
別に落雷が怖いわけではないようだ。現実の女の子は、意外とタフなのかもしれない。だからこそ、これほどに救われるような台詞を、さらっと口にできるのだろう。
「ありがとう」
「よきなのです。気にするでない」
そう言って文音は、僕の肩へ少しだけ首を預けた。しゃらしゃら落ちる髪と、ほのかに伝わる体温。炭酸飲料にも似た爽やかな香りが満ちる鯨の体内で、僕は跳ねる鼓動を抑えるのに必死だった。
「雨が止んでも……くっついていてね」
また、とんでもない台詞を言ってのける文音。じんわりと伝わる熱によって、僕の二の腕と文音の肩の境目が曖昧になってくる。彼女がそう言うのなら、雨が降り止んでも二人でいよう。拾った水色の折り畳み傘は——使わなくても良いかもしれない。
けれど、誰かの落とし物ではない、拾った場所に戻すべきではない、と断じようとしてしまう自分がいるのは……一体何故なのだろうか。
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