第二章18 二人しか座れない世にも非効率な椅子(後)
「綾織さん——」
と、彼女の名前を口にして。それ以上、言葉が続かなかった。伝えたいこと、伝えなくてはならないこと——大切なことは溢れそうなのに、言葉にならない。
「なに、どうしたの」
下ろした横髪に透かして、頬の傾きだけで僕を見る。それから、穏やかな波間へと彼女は視線を戻した。
指をかけていただけのブランコの鎖を再び握りしめ、彼女から視線を逸らそうと逃げる目玉を黙らせた。彼女は待っているのだ。
「な、なん……」
なんでもない、わけないだろう。逃げてどうする。今しかないだろう。
「なんというか——」
「うん」
僕に向けられた爪先。唇を引き結んだままに、喉の奥で優しく頷いてくれた。風は穏やかで彼女の表情は見えない。
「綾織さんは、特別だと思う」
茶色の髪が少し揺れた。首を傾げられたようだ。阿呆、と頭上を鳥が飛んでいく。
「その、僕の漫画を笑わなかったのは、綾織さんだけだったから」
「……? 細田くんの漫画、面白かったよ」
「えっと、そうじゃない。そうじゃなくて、漫画を描いてること自体を笑わなかったのは綾織さんだけだったから」
だから、あなたが好きなんだ。
「だから、その……」
ずっと前から、ずっとずっと言おうと思っていた。あわよくば彼女になって欲しいなんて、今は思っていない。
ただ、この気持ちを伝えなくちゃいけない。その結果がどうであれ——
「綾織さん、」
あなたに救われたと伝えなくちゃいけない。
これは恋ではなく、信仰や崇拝に近い感情なのかもしれない。それでも構わない。だから、
「あなたが好きです。ずっとずっと前から、綾織さんが大好きです」
花の嵐が散るように、彼女の髪が舞い上がる。
風を受けて膨らんだカーテンの向こうには、こちらを見つめて固まる丸くなった瞳があった。
言ってしまった。
ついに、言ってしまった。
ずっと何処か分からぬ場所に仕舞い込んでいた、けれど、ずっと見つめていた気持ちを解き放ってしまった。
どんな答えが返ってくるのか判らない。
ただ、脳味噌が沸騰しているのが解る。遠くで耳鳴りがしている。頭に浮かんでは消えていく単語は、仄暗く不穏なものばかり。
広大な白紙の原稿用紙の大地に、武器もなく独り立つ僕の周りへ——うぞうぞと黒い漢字が集まってくる。
失敗。後悔。羞恥。内気。愚者。苦手。馬鹿。悪臭。鈍感。不快。嫌、嫌、嫌——
僕の足元で蠢き、赤子の泣き声にも近しい金切り声を揚げて、爪を立てながら這い上がってくる。汚泥のように粘着質で、靴下の奥底まで不快感が広がる。
今まで浴びせかけられてきた否定の言葉が、一斉に人間の手の形を模して「行かせるものか」と僕の足首を掴んだ。
そうだ。今までの人生通り。どうせ、今回も駄目なんだろう。身の程を知らずに言葉を吐いた。どうせ、嫌われるんだろう——
『ばかなのか。君は』
知らない、少女の声だった。
大砲のような音とともに、黒い漢字は一斉に吹き飛ばされた。振り返る間も無く——どん、と背中を押される。
爪先が触れて、お互いに俯いて、額が重なりそうになる。同時に離れようとすると、鎖が軋んで押し戻された。真っ直ぐに見つめ合う。
「す、すき。私も……好きです」
綾織さんの瞳はぐるぐると、あちこちへ逃げ回ろうとした。彼女の顔の真っ赤な熱が、こちらまで伝わってきそうだ。
「ほ、本当に。いや僕も好き、です」
わけもなくもう一度言葉にした。否定する意味などないのに、いやと付けてしまった。
確かに、彼女は「好き」と言った。本当に、言ってくれた。
「うん。き、聞いたよ? 好き、好きなのね。私も好き……」
そう言って何度もこくこくと頷く綾織さん。
じんわりと背中に汗が滲んだ。お互いの呼吸は止まったまま、ただ鼓動だけが早くなっていく。冗談みたいに身体が熱い。
言葉は出ないのに、冷たい春の風の音は汽笛のように遠ざかっていった。
数センチ先の瞳に映る僕と目が合って、ずっとずっと奥まで吸い込まれそうだ。震える白い指先が、僕の前髪を少しだけ横へと流した。
人の目を見て喋れないから、遮るように、殻のように伸ばしていた前髪が横へと流された。色素の薄い穏やかな双眸に——何も隔てることなく、ただ真っ直ぐに胸の奥底を貫かれて、
「好き、細田君が好き」
こつん、と額が触れた。落雷にも近しい感触。風が吹き抜ける隙間は、もうない。
髪を流した指が、僕の頬骨から首筋へと添えられる。ほのかに薫るのは甘酸っぱいリップの香。
「僕も、綾織さんが——」
「し、下で」
「え?」
「下の名前で呼んで。私も……下の名前で呼ぶからっ」
目尻に涙を浮かべて、小さく首を横に震わせながら真っ赤な顔で彼女は言う。
下に目を逸らし「お願い」と付け加えてから、綾織さんは再び僕の目を真っ直ぐに見つめた。
「そ、それじゃあ……」
己の頬に触れた彼女の手に触れてから、真似ようと鎖から手を離す。錆に汚れているかもしれない手のひらを学ランのズボンで拭ってから、
「僕も、文音が好きです」
葉先に残る雨粒に触れるように、壊さぬように頬へと触れた。長い髪に手の甲を撫でられ、その頬は白くも赤らみ、病熱を疑うほどに熱い。
綺麗とは言えない僕の右手に、彼女は心地良さそうに瞼を閉じて頭を預けてくれた。
やがて、睫毛を震わせてゆっくりと瞼が開く。
「私も、四季が大好き」
一粒。手の甲へと水滴が落ちた。二粒、それは涙のためではないと分かった。三、四——次々と水滴が降ってくる。
雨が降ってきた。音楽のボリュームを一気に下げたときと似た感覚、現実に引き戻されていくようだった。
咄嗟に、互いに触れ合っていた手が離れ、息を吸うことを思い出す。どんどん身体が重くなる。
「どうしよう……」
焦って周囲を見回す文音のセーラー服が、濡れて肌色に透けていく。それを見て、ようやく意識がはっきりとしてきた。学ランを脱いで彼女へと渡す。
「どっかで雨宿りしよう、行くよ」
彼女の手を引く。雨宿りとは言っても、どこにいくべきか。自転車はどうするべきか——と逡巡する僕の足元で、ころりと何かが転がった。
それは、子供っぽい水色で、小さい折り畳み傘だった。




