第二章17 二人しか座れない世にも非効率な椅子(前)
「コーヒー牛乳、ふたつください」
「あい、二百四十円ちょうど。どうもねー」
綾織さんに手を引かれ、辿り着いた先は食堂前の購買部だった。鞄からパステルカラーの上品な財布を取り出し、彼女はスマートに会計を済ませる。
「はい、これ細田君の」
「んえ、あ……どうも、ありがとう」
買ってもらってしまった。
僕の手によく冷えたコーヒー牛乳を握らせて、彼女は僕の少し先をずんずん歩く。自信に満ちた歩みに、僕は自然と後に続いた。
教室をいくつも通り過ぎ、昇降口へと近づくにつれて段々と空気が澄んでいく。外へ向かおうとしているようだ。
「あの、どこ行くの。部活は?」
「んー、内緒。部活は休んだぜい」
言いながら彼女はスマートフォンを振って見せる。連絡済み、ということらしい。下駄箱に手をつき、ぴょこんと片足を上げて上靴を脱ぐ。
「はい、ぼーっとしない! ちゃちゃっと靴履き替えて」
「へ、へい……」
彼女の勢いに押されるがまま、僕はスニーカーを履いて校舎の外へ。駐輪場で僕たちは顔を見合わせて——それぞれ自転車に乗ることなく手で押して歩いた。
無言のまま綾織さんの後ろへと続く形、彼女の隣を歩きたい。自転車の並走は道交法に抵触するらしいけれど、押して歩いているだけなら並んでも良いのではないか。
しかし、綾織さんは折り目正しく品行方正なお方である。並んで道を占領したら怒られそうだ。
と、そんなことを考えているうちに、彼女は歩調を緩めて僕の隣まで下がってきた。
「乗ってないからセーフ? やっぱり怒られちゃうかな」
「……怒られたら、その時考えましょう」
「はいまた敬語。細田君アウト」
バットでフルスイングするような仕草をする綾織さん。ケツバットだろうか。
スイングによって両手が離れ、自転車が倒れるかに思われた。ヒヤリとさせられた。が、バランスが崩れる間に彼女はハンドルを握りなおす。物凄い運動神経である。
「どやあ」
隣で感心する僕に対し、綾織さんは誇らしげに目を瞑って胸を反らす。切り立った崖の上で、両手を腰に当てて朝日を背に受ける彼女を幻視した。
僕は拍手しようと手を離して自転車を倒しかけた。
「危ないなあ。まだ、ぼーっとしてる?」
「してない。本気でやって本気で倒しかけた」
「ほそ太君は、何をやらせてもだめだなあ」
「二十一世紀の猫型ロボットか」
そういえば、今は二十一世紀じゃん。今のところドラえもん完成してないやんけ。
「細田君、ツッコミとかできるんだね」
「僕を馬鹿にしすぎでは? 僕を何だと思っているんだ——」
「幼馴染」
うーん、だとか。間を置くことなく彼女は答えた。感覚的に、直感的に答えたのだろう。あるいは最初から答えは決まっていたのか。
心做しか、心臓の奥底でドキリと音が鳴ったような気がする。心があるのかもしれない場所が、今ならよく分かる。
「え、私たちって幼馴染……だよね。もしかして、使い方間違ってる?」
「い、いや。合ってる。まったくもって間違ってないけど……」
小首を傾げてこちらを見る綾織さんを、直視できなかった。
己の中で、自分の中だけで勝手に幼馴染だろうと認識していたから——そうであったらいいなと思っていたから。
あまりに唐突で「え、あ、そうだよね」と、僕は沈黙を埋めるように、ただの言葉を連ねていく。
「それとも——」
彼女は何かを言いかけて、俯いてやめる。表情を隠すように、耳にかけていた茶髪を下ろした。
あ、そこ左。角に差しかかったところで綾織さんは言う。あい、と僕。
直進を続ければ、少しずつ潮風の匂いが強くなる。
彼女の向かう先は海岸——『海公園』のようだった。
○
夕日の染み出す藍色に、藍より仄暗くも青い雲が結われて落ちる。視界のど真ん中、水面の斜陽は震えながら一直線に照り返っていた。
隣を歩く彼女の髪が揺れ、制汗剤の柑橘っぽい香りが遅れて続く。呼吸に合わせて胸が沈み、隆起の穏やかな喉仏が微かに震えるのが見てとれた。
入り口を示す金属の門柱は潮風に錆びつき、刻まれた公園の名前は殆ど読み取れない。けれど、地元の住人は皆——ここを『海公園』と呼んでいる。
滑り台の青い塗装はところどころ剥がれているが、その形から、何となく鯨を模しているのだろう。防風林の影も相まって、小さい頃はこの不気味な怪物に飲み込まれるかもと何度も思った。
しかし、綾織さんはこの怪物を目当てに訪れたわけじゃない。何となく分かっていた。
無言で、僕たちは公園の奥へと歩く。
水平線に並んで吸い込まれていく橙色の手前に、スポーツカーにも似た真新しい赤色のブランコがある。
彼女はブランコの支柱の横へ自転車を停めた。僕も倣って反対側の支柱に立てかけた。
「ちょっとだけ……座面濡れてるね」
少しだけ悔しそうに綾織さんは笑う。
今日は使わなかった部活用のタオルで、僕の座る分まで拭いてくれた。情けない。ハンカチを携帯する習慣があれば——
「ごめん。ありがとう」
「うん、気にしやんで大丈夫」
意図せず方言が漏れたからか、彼女は更にゴシゴシと力強く座面を拭いて誤魔化す。
「あ、そうだ……」
綾織さんは拭く手を止め、僕を見上げる。
「ありがとうの前に、ごめんってつけないでよ。謝られるようなことじゃないし、ありがとうが可哀想」
「可哀想?」
「そう。なんか、後ろめたく? めたそうに? 聞こえるじゃん」
真っ先にありがとう、って言ってくれる人の方が好き。
綾織さんは僕の目を真っ直ぐに見つめて言う。それから「ね?」と念押しする。
「わ、わかった。今度からそうする」
僕は答えた。何故か、彼女は嬉しそうに視線を逸らす。微笑んだまま僕の方へと向き直り——
「だめ」
「え?」
「今から。今からそうして」
意図が分からず、咄嗟に言葉が出なかった。だから、こくこくと何度も頷いてみせる。彼女もまた満足そうに頷く。
「よろしい」
タオルを仕舞った綾織さんは、満面の笑みでブランコへと腰掛けた。彼女が何を考えているのか解らないまま、僕はおずおずと隣に座る。
教室と違って、ここには二つしか席がない。隣に座る以外に選択肢を与えない、この残酷な遊具は何だ。心臓を破裂させられそうだ。でも、ありがたい。
最後に座った頃より背丈が伸びているから、何にも遮られることなく穏やかな紺青の海を一望できた。公園の中にいるはずなのに、背後まで青く囲まれているような感覚に包まれる。
夕日は殆ど沈んで、オレンジ色に水平線をなぞるだけの線となっていた。まだ真っ暗ではないけれど、空には少しだけ星が見えた。
ブランコの鎖を握りしめる。彼女は隣にいる。二人きりだ。言うべきことがある。言わなくちゃいけない。今なら言えるはずだ。
僕から、今度こそ僕から——
「綾織さん——」




