第二章16 空席
都合よく、チャイムが鳴った。
正統派のラブコメディならば、このチャイムは終業を告げるもので、これから夕暮れの中を二人で歩いて下校デートへと移行するのがセオリーである。
しかし、これは始業のチャイム。これからどことない気恥ずかしさを抱えながら、授業を受けなければならない。なんともどかしい。
綾織さんと共に教室へ戻ると、普段の三十倍ほどの視線を感じた。クラスの中心である彼女へと視線が集まるのは当然だとしても——金魚のフンの如く後ろに続く僕にも、好奇の視線が集まっていた。
「そんなに見ないでよ、恥ずかしいなあ」
さすがは高嶺の花。スクールカースト最上位。その振る舞いは堂々かつ嫋やかで、クラスへと向けた言葉に全員が従った。
緊張が走り、静寂に満ちた教室に再び活気が戻った。
すげえ、の一言である。
僕は自分の席へと座る。遠く、いつも通りの距離まで戻った綾織さんの周囲へ一斉に女子生徒が集まる。
「同じ学級委員だから、そんなにヘンなことじゃないよ。ちょっとやめてよー」
と、噂が立たぬようアフターケアも完璧。人間を創造する際、彼女だけはオーダーメイドで仕立てられたのではないだろうか。
「お腹空いたな……」
僕はリュックから買っておいたカツサンドを取り出し、こっそりと食べ始めた。担任が入ってくる前に食べ終わらなければ、と気持ちばかり焦って喉に詰まらせそうになる。
お茶を買っておけばよかった。一つ目のカツサンドを食べ終え、もう一つも開封する。再びカツサンドだ。
「あれ?」
思わず変な声を漏らしてしまった。どうして僕は、二つも同じ商品を買っているんだ?
カツサンドは嫌いじゃない、むしろ大好きな部類だけれど、もう一つ買うお金があるなら飲み物を買った方が賢明だろう。
ある種の防衛本能によって意識していないだけで、空き巣に入られたというショックは消え去っていないのもかもしれない。
それもそうだ。昨日の今日で、完全に割り切れるわけがない。さっさと犯人が捕まれば安心するのに——とは思いつつ、警察には話していないから捕まるわけがない。
犯人は現場に戻ってくるというけれど、その場合、僕の家の前に戻ってくるのだろうか。あるいは僕の部屋?
疑問を抱えながらも二つ目のカツサンドを食べ終えると、ジャージ姿の担任が入ってきた。いつものように、定時着席がなっていないと大きな声で小言を漏らしている。
着席していないことに怒りを覚えるのなら、いっそのこと、机と椅子を排除してみたら解消されるのではないか。
それぞれのグループでまとまって床に座り、自由に動き回って授業を受ける。教室を広く使えるし、一見意識の高いイノベーションっぽくて面白いかもしれない。
けれど、その場合、僕はどのグループに属することも出来ず溢れることになる。やはり今のままでお願いしたい。
本当に、心の底から話の合う似たもの同士。あるいは同志のような存在が隣席に座っていれば、こんなことを思うことはないのに……。
いつか、そんな人間が現れてくれるないか——と、僕はカツサンドのビニールを結びながら思った。
ふと、視線をあげると綾織さんと目が合った。彼女は少しだけ恥ずかしそうに微笑んで、
「あ」「り」「が」「と」
と口を動かした。それから、僕の貸した夏目漱石の厚い表紙をぎこちない手つきで開く。ちゃんと読むからね。そんな風に言っているような気がした。
朝の連絡をしている間は本を閉じなさい、と担任に注意されていたけれど、そんな不器用さまで含めて可愛らしい。
それだけで、カツサンド二つ分以上の栄養があるように思われた。この思い出だけで残りの人生を生きていける。
少なくとも、丸一日の授業が終えるまで、僕は秒熱に浮かされていた。ずっと綾織さんのことだけを考えて、ぼーっとしていた。
「そろそろ掃除の当番とか決めないと、だよね」
るんるんと鼻歌まじりに掃き掃除する綾織さんの言葉に、僕は反射的に頷く。いつの間にかクラスメイトは皆、教室からいなくなっていた。放課後である。
「このクラスは三十三人だから……三つの班に分けて一週間でローテーションかな」
「うん。それでいいと、思う」
「りょーかい。じゃあ、先生に伝えておくね」
「うん」
ただ、彼女の言葉に相槌を打つだけ。そんな僕を不思議に思ったのか、彼女は箒を置いて僕の顔を覗き込む。
「細田君……大丈夫? 具合悪い?」
「え、いや。大丈夫、多分」
眼前の大きな瞳が疑問の色に染まる。チリトリを持ったまま、呆然と立ち尽くす僕の額へ彼女の手が触れた。
ひんやりとしていて気持ちがいい。前髪越しに、しっとりを吸い付くようだった。
「熱はないみたいだけど……。なんか、変だよ」
「そう、かな」
ほとんど吐息のような、掠れた声が応える。喉のわずかな痙攣だけで喋っている。自分の声じゃないみたいだ。
「朝は元気そうだったのに。もしかして、何か怒ってる?」
何かあったならちゃんと教えてよ、とまっすぐに僕を見る綾織さん。どこまでも優しい。
けれど、何かあったわけじゃない。むしろ何も無い。
波ひとつない水面の上に、一人で立たされているような気持ちだ。
「昨日のことなら……大丈夫だから。もう仲直りでしょ?」
「うん」
唇は引き結んだまま、口の中だけで音を出す。
満たされているのではなく、何かが足りない。空き巣に何かを盗まれたわけじゃない。何もなくなってはいない。
でも、何かが足りない。何かを忘れている。
がらんとした教室には、誰も座っていない。みんな帰ったのだから当然のことだ。
けれど、空席があるような気がする。誰も座ってない席がある——座る人間のいない席がある。
座る人間はいないのに、僕の隣には席がある。
「ずっと……来てないよね」
視線の先に気付いた綾織さんは、僕の隣席を見ながらそう言った。
「え?」
その時初めて、ようやく自分で声を出した。




