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第二章15 表面的謝罪と潜伏的断罪

「おはよう、綾織さん」


 思えば、これが僕から綾織さんへの初めての挨拶だった。昨日の謝罪と同時に、彼女を疑ってかからないといけないこのカオスは何なのだろう。


 とは言っても、やはり綾織さんを心の底から疑うことはできない。動機がない、とかそんな問題ではなく——


 単純に、彼女が好きだからだ。


 彼女に声をかけてなお、僕は綾織さんを疑わないために脳味噌を回していた。


 ここまでの状況は整理がつかない。しっちゃかめっちゃかである。だから、犯人像を推察するところから、反証のような運びで綾織さんを容疑者から外そう。


 まず、水瀬の家へと空き巣に入るなら、まだ解る。見た目も古い古本屋と言えど、商店には変わりない。

 店長(水瀬姉)と役職不明(水瀬凪、妹)の姉妹二人だけしかいない店なら、泥棒や強盗に狙いをつけられるのは自然だ。


 けれど、それでは絞り込みようがない。

 何かを盗んだことがある、あるいは盗んでしまいたい、と思っている人間を容疑者とするなら全人類が当てはまってしまう。

 もし仮に、彩月潤のストーカーの類いが犯人だと仮定するならば、新作原稿を盗むために侵入したと強引に納得はできる。

 結果的に、盗み出した原稿は小説家ですらない僕が書いたものなんだけど。やーい、ザマァミロ。


 ——と、ここまでは水瀬の家だけの話。おかしいのはここから。


 つまり、話をややこしくしている原因は、僕の家も襲われているという点だ。

 水瀬だけでなく僕も標的にされるということは、彩月潤作品に関係する怨恨の線は薄いのではないか——


 いや、待てよ。水瀬のストーカーの線で進めるなら、彼女の家に(不本意かつ結果的に)入りびたっている僕を恋人だと勘違いした……。


 それで、僕の家へと警告しに来た。彩月潤に近づくな、と。


 良い線いってるんじゃないだろうか。

 多分、高校生の中でも、僕と水瀬にしか解らないであろうモールス信号で警告を残していくあたり犯人も……あれ、モールス信号って、僕と水瀬だけなの?

 えっと、あれ? 誰でも解るわけじゃない特殊な暗号を僕は——


 細田ボクは頭痛に襲われた。あまりに痛かったので、考えることをやめた。



 ○



「……おはようございます」


 つん裂くような目眩めまいに襲われた瞬間、普段の軽やかな声音よりも、冷たく低い挨拶が聞こえた。


「何の用ですか?」


 ぶっすー、と頬を膨らませながら両手で顔を支えるような姿勢の綾織さん。僕が思っていた何十倍も怒っていた。


「あ、えーっと。用っていうか、その……」

「うん。朝の挨拶は大事だよね。学級委員だもんね」


 彼女が巨大なシャッターを、勢いよく閉めていく様を幻視した。このままではマズい。非常にマズい。

 謝罪を聞いてもらう以前の問題である。どうにか彼女の心を開くところから始めなくてはいけない。


 しかし、そんな催眠術士めいた技術など持ち合わせていない。僕が持っているのは、せいぜい夏目漱石の短編集とカツサンド二人前くらいのものである。役に立ちそうもない。


 そういえば数日前にも、僕は謝罪をしていた。

 一方的に八つ当たりして癇癪かんしゃくを起こし、ひどい言葉を吐いた。その時はどんな風に謝ったのか——


 助けを求めるように、僕の隣席へと視線を送ったが、席は空っぽだった。代わりに、派手な女子数名が机に座っている。彼女はまだ登校していないようだった。


「違うんだ」

「違いません。朝の挨拶は大事です」


 違う、そうじゃない。朝の挨拶の話はしていない。


「そうじゃなくて」

「そうじゃなくないでしょ。朝の挨拶は大事だもん」

「…………」


 まさか、僕に謝らせる気が無いのか?

 少なくとも『謝らなくていいよ。私気にしてないからっ!』といった意味合いでないことは自明。

 謝罪すらいらんから、とっとと消えてということだろうか。


「あ、あの……」

「何、もうチャイム鳴るよ?」


 席に着いた方が良いと思う、と彼女は言う。

 視界の端で捉えた時計は八時十五分を示している。あと五分あるじゃないか——そんな反論が僕の口から出ることは無かった。


 僕は肩を落とし、フラフラと自分の席へ向かう。自分なんて、どうせこんなものだ。

 しかし、向かう先には派手な女子たち。僕の隣席の机上に座って陣取っている。朝から大声で笑い、楽しそうに手を叩く。ここを突破するのは無理だ。


 かといって、話を聞いてくれそうにない綾織さんへと振り返るのも難しい。

 教室の男子の視線を釘付けにする綾織さんに謝罪することは、男子全員の前で謝罪することとイコールであるからだ。


 だから——


「一緒にきて」

「ひゃっ、あ……ちょっと!」


 僕は、彼女の手を掴んで教室を出た。机の角に腰をぶつけたのか「いたっ」と綾織さんは声を漏らす。

 無言のまま、ずんずんと歩き、この後どうするかを考えていなかったのでずんずん歩くしかない。


「待って細田君! どこまで行くの⁉︎」


 どこなんだろう。どこまでも?


「あー……、ここでいいや」

「いだっ!」


 僕が唐突に止まったので、綾織さんは慣性の法則(?)によって僕のリュックサックへと激突した。

 彼女は小さく呻きながら鼻の頭を押さえる。


「ああ、ごめん!」

「ううん。大丈夫」

「本当にごめんなさい」

「だから、大丈夫だって」


 このまま連続して昨日のことについて謝ったら、勢いで許しの言葉を口にしてはくれないだろうか。

 けれども、そんな姑息な手段は取りたくない。


「綾織さん」

「へ、あ、はいっ。な、何でしょう……」


 綾織さんは変な声を漏らして俯き、みるみる顔が赤くなっていく。


「昨日のこと、ごめんなさい」


 栗色の瞳をしっかりと見据えたのち、深く頭を下げた。


「その、一緒に本屋に行こうって約束してたのに……」


 問題はここから。

 僕が約束を忘れていたことに対し、怒っているのは確定として。解らないことがもう一つある。

 昨日の夜、彼女は『どうしてわからんの?』と言っていた。僕が()()に気付かなかったことに対して、綾織さんは関西弁で怒っていた。


 それは結局わからないままである。だから、


「察しが悪くてごめん。本当は昨日の夜に謝ろうと思ってて……それも、ごめんなさい」


 僕はひたすらに頭を下げた。謝り続けることしかできなかった。何か大切なことを言えないままでいる口の中には苦味が広がる。


 僕はずっと他人を不快にさせてばかり。この前もそうだ。

 彼女は、彼女自身の力で、小説家という夢を既に叶えている。とっくの昔に果たした目標、それを掲げる僕に手を差し伸べてくれた。


 けれど、僕はその手を振り払いかけた。自尊心や劣等感に苛まれ、成功を収めた彼女に腐った感情をぶつけたのだ。


 もう、誰も傷つけたくない。

 愚かだったのは自分だ、とすぐに気付いた。気付けてよかったと心から思っている。初めてだったけれど、ちゃんと謝れてよかった。

 だから、もっと僕は他人と関わってくるべきだったのだ。


 いつか出逢う、自分にとって大切な人間を心から大切にできるように——様々な人間と関わって予習しておくべきだった。


 ここ数日で、大切な人がたくさん増えた。五本の指で数えられるくらいだが、本当に、本当に大切な友達が増えた。


 師匠のことは心から尊敬していて、綾織さんのことは——きっと心から好きだ。


 人生は、小説のように書き換えることはできない。

 最悪の未来ばかりを想像して手が震える。この人を、失ったら。僕の人生はおしまいだ。だから——


「だから——」

「うん、大丈夫。わかったよ」


 僕の手はカタカタと震えている。さらに、その手の中で震えているのは、握ったままの綾織さんの手首だった。


「ありがとう。ちゃんと言葉にしてくれて」


 でも、ちょっと強く握りすぎだよ。彼女はそう言って小さく微笑んだ。僕は慌てて手を離す。

 綾織さんはしばらく顎に手を添えて考えたのち——


「二度あることは?」

「もう、ぼーっとしてないよ。仏の顔は三度まで」

「大変よくできました」


 満足そうに彼女は手を叩く。

 こんなときどんな顔をして良いのか、僕は知らなかったけれど、無意識のうちに僕の口角は上がっていた。


 成功した、と言うと邪推する余地のある表現かもしれない。しかし間違いなく、そして少しだけ僕は成長していた。


 ちょっと待ってね。前置きしてから、僕はリュックサックから短編集を取り出し、彼女へと差し出す。


「その、僕が読んで面白かったやつ。何か選んで、って綾織さんが言ってたの……忘れてない」


 い、いや、もちろん、これから一緒に本屋さんとか出かけたいのは当然なんだけど。でも、まずは一番最初の約束を果たさせて欲しい——と、僕は恐る恐る付け加える。


 分厚くない短編集へ、静かに綾織さんの白い指が伸びる。彼女は両手で本を受け取り、宝物のように胸の前で抱きしめた。


「今まで、いっぱいたくさん謝られたし、謝ってきたけど……夏目漱石を持ってきた人は初めて」


 彼女は口元を押さえて隠すことなく、弾けるように笑ってくれた。釣られて僕も笑う。

 ここまでの会話を文章に起こしたら「笑った」描写ばかりで、僕のボキャブラリーの乏しさを披露するだけになるかもしれない。


 しかし、それの何が悪いのだろう——否、これで良いのだ。微笑みは、いくらあっても困ることなどないのだから。

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