第二章14 繰り返される登校
翌朝、モールス信号は消えていた。
変な声を出してベッドから転げ落ちる程度には驚いた。ハードカバーの小説が散乱したままだったので、数分ほど悶え苦しんだのは言うまでもない。
「痛いし、怖いし……」
僕の部屋へ空き巣に入ったのは、もはや人間ではない存在じゃないか——と慄いたのも束の間、窓の外から描かれていたと気付く。夜中の雷雨で洗い流されたのだろう。
背中の下のハードカバーを退けて、床に寝転がった。
天井で色褪せた壁紙を眺め、何度か深呼吸する。
どうしてこんなことになったのか。寝て起きても結論は出なかった。
単に疲れを癒すための睡眠と、喜怒哀楽を振り払うための睡眠がある。今回は後者の意味合いが強かった。
RPGの宿屋のように、時間をスキップするための睡眠。録画された映画に挟まるコマーシャルを飛ばすのと同じ。ある種のワープのような感覚である。
けれど、やはりスキップすること——能動的に時間を失うことはできても、思考の結着など何かを得ることは出来ないようだった。
昨晩の激しい憤りは、ワープの前へ置き去ることに成功したようだけれど、それによって沸騰した脳味噌が片付けられて結論が出るなんてことはなかった。
だから、少しだけ、清らかな気持ちだ。
吐く息は細長く、吸う息は清く冷たい。
怒りが残るわけでもなく、犯人が判るでもなく、ただ、何も無い。
虚ろながらも意識はここにある。意識はここに立っていながらも空の上。
自分の心臓はうるさくない。けれど、耳鳴りもしない。ただ、静かな中で横になっていた。
眠いようで思考は踊る。
巨大な樹木の幹から枝葉に分かれ、細く細く伸びていく。
動脈は細く、細く指先まで。血が巡る。意識も巡る。段々、己と床との境目が曖昧になっていく。
寝転んだ身体から、大の字に枝分かれした四本。それらの枝葉——指先が酸素を介することなく、体温に近づくフローリングへと接続されていく。
息を吸い、腹を膨らませれば、青々とした山に風が流れ。ふうう、と細く長く息を吐けば、凪いだ水面に波がたつ。
本当は、窓の外に町などありはしない。
そう感じてしまう。カーテンを閉ざせば、この四畳半に全てが収束する。
日影は黒い砂粒か青白い幽霊かになっている。
僕の目に映る場所だけが、陽に照らされるのだ。
——左の爪先に何かが当たった。
僕は、床から手のひらを剥がして身体を起こす。軋む関節に呻きが漏れた。
見ると、爪先の先には夏目漱石の短編集があった。腰を深く曲げて手に取る。
——と、両手を頭のうしろに回して、髪を束ねる綾織さんを思い出した。
「ああ、そうか。そういうことか……」
僕は思わず口に出した。『夏目漱石とか、太宰治とか、有名な作品は一生に一回くらい読んでおきたい、とは思うんだけど』
そんなことを、綾織さんは言っていたような気がする。居残り掃除していた時のことだ。
今度いっしょに行こう。そこで何か選んで——と、そのあとに綾織さんは言っていたはずだ。
つまり昨日、彼女は友達と古書堂に向かっていたのではないだろうか。
だから、僕が約束を忘れていたことに怒った。いや、事実として忘れていたんだけれど……。
ここで、僕が綾織さんに謝罪の電話をしていないことを思い出した。忘れてばかりである。
時計を見れば、七時過ぎを差していた。
僕は夏目漱石をカバンに詰めて、ジャージから学ランへと着替える。朝食は……昨日と同じくコンビニでも良いだろう。野菜ジュースではなく、カツサンドでも買おう。水瀬にも買っていったら、喜んでくれるだろうか。
○
空き巣に入られた翌日の空は、皮肉にも、具合が悪くなりそうなほど晴れていた。
——こんな書き出しはどうか、と一瞬考えた。けれど水瀬なら、彩月潤ならどう表現するのだろう。
嵐の翌日こそ空は澄み渡る。人の心もまた然り。とか?
いや、そもそも、空の描写ばかりするのは初心者のやること、なんて言っていたはずだ。でも、空の描写をしないわけじゃないだろうし、これまでの著作の中で何度となく登場している。
それらは発売日に読み終えているはずなのに。水瀬という人間、彩月潤というキャラクターが肉体を持ってしまった瞬間に、思い出せなくなる現象に名前は付いているのか——。
そんなことを考えながら自転車を漕いでいるうちに、学校へと着いてしまった。
基本的に、欠席の連絡は保護者がするものだろうけれど、我が家の保護者は家を空けがちである。
よって、欠席の連絡は、僕が一人で勝手に行うのが当たり前だ。小学生の頃からの慣習といってもいい。
自然、学校の先生も事情を知っているから、生徒自らが電話を寄越しても驚くことはない。
「それなら、休んでしまった方がお得なんじゃないか……? 空き巣に入られた翌日だし」
と、玄関を出る直前に思った。
しかし『空き巣に入られた』と生徒から一本連絡が来たら、学校は大パニックに陥るだろう。
学校から警察へと連絡されれば、犯人の書置きに反くことになる。得体の知れない相手である以上、それは避けなければならない。
要するに、普通に登校せざるを得なかった。
問題は、水瀬家が警察を呼んでしまったことだが、それは書置きをしない犯人が悪い。
「あれ、なんだこの違和感——」
おかしいのは文脈でも、僕の思考回路でもない。
水瀬の家から原稿を盗んだ犯人は、どうして『警察に言うな』と書置きをしなかったんだ?
散らかされただけで、特に何も無くなっていない(ちゃんと片付けてはいないけれど、少なくとも財布やパソコンは無事だった)。
そんな家に書置きして、盗みを働いた水瀬の家には何も残してこなかった理由はなんだ?
——犯人は複数人?
そうは言っても、複数人から悪意を向けられたことなど、現実においては経験がない。皮肉だけど。
それならば昨日の夜、僕個人へと恨みを抱えうる人間——つまり、僕と顔見知りかつ、水瀬宅の周辺にいた人物といえば……。
「おはよう、綾織さん」
僕の足は、自然と彼女の席の前へと動いていた。




